目に見える世界のなんと小さいことかと、常々思っていた。年を重ねるごとに広がる視野はただの視界の広がりでしかなく、私が歩み、触れ、生きる世界に無限の広がりはない。この有限でしかも狭苦しい世界に映るのは荒れた大地と貧困の民ばかりであった。
パルテビアの、それも外れにあるこの村はみな貧しかった。貧しくはあったが、穏やかな人が多かった。私の最初の世界は、この貧しくそれでいて穏やかな村民と、渇いた大地に小汚い家屋、そして潮の香りと――
「名前!」
しなやかで強かなたったひとりの兄の姿だった。
「兄さん、お帰りなさい」
病気がちの母のため、毎日港に出て働く兄の背が、私は好きだった。一つしか変わらないというのに、周りの大の大人よりはるかに大きく思える彼の背は、いつまでたっても私の憧れであり嫉みであり、恐怖であった。
あの頃の私の世界というものはそれしかなかったのだ。そのまま一生変わることのないものだと、今思えばあれは憧れから落ちた諦めであったのだと思う。その時の私は純粋でいてすべてを諦観していて、期待していた。迷宮と称された死者の塔から帰ってきた兄の差し伸べた手を迷うことなく掴むほどには、世界の広がりに夢を見ていた。
「兄さん」
十三であった幼い少女は消えた。死んだといってもいいのかもしれない。この十数年の間に、兄の背が力強く眩しく陰っていくように、私の"世界"は広がり膨れて萎んでいった。
「どうした、名前」
「兄さん、私昔の夢を見たわ」
生暖かい風がやわらかに頬を撫でる。私の頭に置く兄の骨張った手だけは、あの頃と少しも変わっていない。
「兄さんは昔から、眩しくて怖かったわ」
「そうか? お前にはやたら甘やかしていたような気がするけどなあ」
「ふふ、こんな、王さまになってしまうなんて思いもしなかった」
肌触りのいいシーツに沈む腕をのばし、彼の艶やかな夜の髪に触れる。強ばりかたくなった節々のせいでぎこちなく梳いたさらさらとした髪は、私と同じのようでまったくの別物である。
「これから、世界はもっと変わっていくさ。その目で多くを見るために、お前はここにいるんだろう?」
「…どれほどの世界を見ても、相変わらず私の世界は小さいままだったわ」
兄のようになろうとは思わない。兄のようになれるとは思わない。私は私の能力と許容量を超えることなどできるはずもなく、私の世界の小ささはそれらに比例しているのだ。それでどうして、見聞きした分だけの広がりを得られるなどと思ったのだろう。
何か言いたげな兄の声を遮り、暗闇に潜む私の影を見つめた。
「私の世界は、兄さんがいればそれでよかったのよ」
誰よりも強く優しく、唯一の家族がいれば。もっともらしく語る世界の大小などどうでもいいのだ。
腫物に触れるかのように頬に触れた指先の震えが、あの頃の私たちのように純粋で光を信じて疑わないものであったのなら。私は今頃穏やかに笑んで死んでゆくというのに。
「シンはいつまでたっても、ふらふらとどこかへ行ってしまうから、追い掛けるのが大変なのよ」
「…俺を追い掛けずとも、名前は名前でもうどこにだって行けるんだ。お前はお前を自分自身で、手折ってしまっただけなんだよ」
「もしそうだとしても、兄さんの隣は居心地がよかったわ」
「全く、今年でいくつだ」
「あら、もう若くないとでも?」
「もう幼くないだろう。世の兄妹は兄離れもとっくに終えてるぞ」
くすくすと笑えば兄は困ったように眉尻を下げるものだから、やはり
「兄さんなんか嫌いよ、って私が言ったところで信じてなんかくれないでしょう」
「それは困ったな」
言葉とは裏腹に笑う兄の頬を弱く叩き、もう一度シーツの海に腕を沈めた。痺れの残る指先を辿る彼の瞳に目を伏せて、細く息を吐く。その息さえ愛おしく思えるほどには、この息苦しさが恨めしく心の臓から響く微弱な鼓動が憎らしかった。
「名前」
兄の声が遠い。もう疲れたわとか細く叫べば、彼はひどく柔らかく微笑んでお休みと呟いた。明日もまた来るよと残す兄の言葉は今の私にとって蜘蛛の糸のようなもので、仕事はちゃんとしてねと吐いた声が宙に浮く。
穏やかに酸化していくように、指先から錆びていく。それはきっと、あの幼い日々に見上げているばかりであった世界そのものに近づくための、小さくも大きな一歩であるのだろう。
お休みともう一度聞こえた兄の優しい声に目を閉じて、頬を伝う冷たさから目を逸らした。