夕、椿あか

狂気風味







愛していた、というには少し重たく、好きだったというにはその言葉はあまりに薄っぺらで軽すぎていた。

こんな感情すべてが嘘だったなんてことは、きっとそれこそが嘘になるのだと思う。

そんなことをわざわざ第三者から言われなくとも分かっていたけれど、この感情を押し殺しなかったことにするには、君の笑顔があまりに焼き付いてしまって。


君のことをこの手で切り刻んで切り裂いて、どこにも行かないように手のなかに収めてしまいたい。


そうすればいつまでもそばにいられるねと笑ったあの人に、僕は何をしてあげられただろうか。


あの頃の僕達はあまりに幼くて、この手に残る感触の意味さえ理解してなどいなかった。

それなのに覚悟だ何だとのたまっては利己主義に刀を振り上げて。


きっと今なら分かる。


それが一番の間違いだったんだと。

少なくとも彼女は、前線から退かせるべきだった。


「総司」


京の外れの屋敷を借り、壬生狼の噂が徐々に広まりつつあった頃だった。

稽古の終わった道場で木刀を振るっていた僕の名を呼ぶ彼女は、一君のように真黒い着流しに薄汚れた白色の長羽織を着ていた。

――返り血は、どれだけ洗っても落ちることなくこびりついてしまうから。

僕が構えをといて振り返れば、彼女はやはりいつものように笑みを浮かべている。


「ねえ、地稽古やろ」

「……名前」

「総司、わたし前より強くなったんだよ!」


無垢な、その笑顔が。

どこにでもいる町娘のようで。

僕は一瞬つられて口元を緩めるけれど、すぐに首を振った。

名前は一週間前に左足を怪我したばかりなのだ。

理由を尋ねれば、死ねずにもがいた浪士の最期の抵抗のせいだと笑って言った。


「だめだよ。僕が近藤さんに怒られるんだから」

「どうでもいいよ、そんなの」

「なら尚更、僕はやらない。やりたいなら土方さんのところに行ってくれば」


どんな返事が返ってくるかなんて、そんなの分かり切っている。

彼女は不満に唇を尖らせ、目元を吊り上げて頬を膨らませた。


「けち」

「あと少し我慢すればいいだけでしょ」


僕がそう冷たくあしらえば、彼女はゆるりと目を伏せて、呟いた。


「……最近、土方さんが巡察にもつれてってくれないの」


――そのあとの会話は、正直よく覚えていない。

けれど名前のその言葉だけは、耳の奥に残って消えなかった。

多分、あの呟きが。

最期の本当の名前だったのかもしれない。



たらいをひっくり返したように激しい雨は、大地を抉り生々しい血液を洗い流していた。

僕はそこらに転がる切り刻まれた四肢の中心で、一際赤い着物を見つける。


雨の音が、僕の声をかき消してしまうから。


何かを叫んだ気もするし、乾き切った唇が張りついて何も言えなかった気もした。

その赤に近づけば、次第に濃くなる鼻に衝く臭いに顔をしかめた。

腹を一文字に深く切り裂かれた彼女は、その手に未だ深紅の刀を握り締めたまま。

ただ真っ直ぐに雨雲を見上げる彼女は、僅かに口角を吊り上げた。


「きれいな、ゆうやけ」


恍惚とした表情を浮かべる彼女の瞳は、頬を濡らす雨粒さえも見えていないのだろう。

つられて見上げた空はどこまでも広がる薄暗く分厚い灰色と、足元に広がる赤の残像を映していた。

ひゅう、と乾いた空気ばかりが漏れる音が聞こえ、僕は膝を突いて名前の手から刀を奪った。

代わりに懐から取り出した彼女がずっと昔に使っていた簪を、その手に強く握らせて。

ゆっくりと、終わっていく。


「いっそもっと狂えたら、苦しまずにすんだのに」


冷たい雨粒が幾筋も頬を伝い、ぽたりぽたりと彼女の首筋に落ちていく。

僕の声が、意思に反して酷く擦れて震えていた。

最期にふわりと微笑んだ彼女は、その簪を手放して。


「また、ね……そ、じ」


簪の飾りがしゃらんと音を立て、硝子細工の赤い椿が転がり落ちた。

雨の音が、強くなった気がした。

彼女の赤い頬を濡らしては、何も奪ってゆくことのない雨粒に。


今だけは、どうかこの想いを連れ去ってくれと。


水溜まりに沈んだ飾りの椿を拾い上げ、その髪に差した。

赤く充血した眼は、まるで僕を恨んでいるように。

ただもう物言わぬ唇が、愛おしそうに歪んでいた。



「総司」


土方さんの張り詰めた声が僕を呼ぶ。


お前まで、狂ってくれるなよ。


雨の音が、鳴り止まない。

ああそういえば、君がいなくなったのは、一体いつの話だっけ。

僕は眉尻を下げて笑い、ひらりと身を翻して歩き始めた。

誰かが泣いているばかりのこの重苦しい曇天が。

あの日君が見上げていたように、綺麗な赤い夕焼けに見えた。





夕、椿あか

(きみがよぶこえばかり)