明日もそのまた明日も、

さらさらと柔らかな風が耳元を過ぎていく。中庭でアリババやアラジンが鍛錬に励む姿を遠く見やりながら、彼女は噴水の縁に腰を掛けていた。背中で涼しげな音が流れ、時折暑さに晒した項に水滴が弾けては仄かに熱い指先で拭う。シンドリアの気候には随分と慣れていたつもりではあったけれど、何年経とうが変わりはないようだ。


「あっつー…」


こうして独り言ちるほどには、慣れもしていなければ涼しくもなかった。恐らく目の前でアラジンが火属性の魔法ばかりを錬成しているせいもあるだろう。対してアリババのアモンの剣も火属性であるから、休憩も兼ねて中庭に来たはいいものの精神的に参ってしまいそうだ。つつ、と汗が一筋こめかみを伝い落ちた。


「水浴びでもする?」


目の前で拳大ほどのシャボン玉に似た水の膜が弾ける。僅かにしっとりとした前髪を梳いて見上げれば、そこにはやはりヤムライハの姿があった。目の行き場に困るようなほど女性的である鎖骨や肩、果てには胸元を惜しげもなく前面に押し出されているのを視界に映して、少しばかり内心羨んだ。文官はみな配給されるシャツに官服を重ねて着なければならないので見た目も自身も暑苦しいことこの上ない。――だからといって彼女のような恰好ができるかと言われれば、そんな勇気も綺麗さも持ち合わせていないので、その点においても純粋な羨ましさといおうか、そんなものを覚えるのだけれど。
ややしばらくぼうっと彼女を見つめていれば、ヤムライハは隣に腰を下ろして噴水の水を意味もなく掬っては落としてを繰り返していた。ぱしゃんと大粒の水滴が落ちるたびに縁にかけている手を濡らした。


「久しぶりに見たわ、名前が中庭にいるところなんて」
「ああ…一昨日まで白羊塔に籠りっ放しだったからね…」
「徹夜お疲れ様」


ふふふと微笑む彼女の笑顔につられて口元を緩める。アモンの剣でアラジンの炎を食らおうとしたアリババが盛大に転んだのを笑う声が響いた。


「今回も壮絶だったわね」
「ほんと、お陰で謝肉宴遊びそびれちゃったもの」
「つったってお前はただの酒盛りだろうが」


唇を尖らせた言葉に後ろから帰ってきた声はけらけらと笑っていて、首をひねって見上げればそこには焦げすぎたパンに似た肌の男、シャルルカンがいた。彼は一瞬笑うのをやめるとすかさず左手で名前の後頭部を叩いた。左隣のヤムライハから批判の声が上がったが、彼は眉根を寄せてしかめっ面をする。たれ目というのは凄んでも威力が半減されるのだというのはもうずっと昔に気づいた事実で、へらりと笑った名前の額にずいと突き出された指を避けるように体をずらせば右手が水の中に落っこちた。


「今すんげえ失礼なこと思ったろ」
「そんなことないよ、今日もいい焦げ目だなって思ってただけ」
「それだよそれ!」


ぶつくさと文句を吐き出すシャルルカン目掛けて水浸しになった右手を振れば水滴がびしゃりと顔面に飛散した。確かに甘いお酒も喉が痛いほどのお酒もなんでも好きではあるが、酒盛りをするために謝肉宴を待ち望んでいるわけでは断じてない。何遊んでるのよと毎度のことながらヤムライハの溜息にくすくすと笑った。つい、からかってしまいたくなるのは誰かの癖がうつったのだ。それだけ長く、この国にいたのだから。


「っだあ、あっつ!」
「うーヤムおねえさん水をおくれよ…」


ふらふらとアリババとの鍛錬を終えて戻ってきたアラジンはばたりとヤムライハの前で倒れこむ。こんなにも暑い日差しの下であれだけ動き回れば当然である。その隣に座り込んだアリババもまた大粒の汗を流していた。


「お疲れ様二人とも」


ふよよと浮かぶそれらは太陽の光を受けて七色を放ちながら、二人の頭上で細かな霧となって涼やかな風を引き連れた。便乗せんと官服の暑い筒袖を肩までたくし上げ、ついでに足元のスカートをばさばさと靡かせていれば今度は「はしたないですよ」と呆れ声が飛んできた。
シャルルカンのときのように見上げれば、彼とは真逆の色白の肌をしたジャーファルと森での鍛錬を終えたのかマスルールとモルジアナの姿もあった。大集合だねと笑えば隣にいたシャルルカンがあからさまにびくつく。きっと彼はいつものように仕事でもサボってきたのだろう。全く以て反省することを覚えないのだから余程性質が悪い。


「おや、仕事はどうしたんですシャルルカン?」
「いや、その…」


あはは、とどう見ても誤魔化しようのない乾いた笑いを漏らすが最後、脱兎の如き勢いで走り去っていった彼はやはり学習しないのだ。


「ジャーファルさんお休みはとれなかったんですか?」
「午後に時間をいただきましたよ。これ以上は効率が落ちるだけですからね」


ふふと笑う彼の目元には色濃い隈が残っているけれど、むしろそれがなくなったところを最近見たことがないような気がする。


「…お疲れ様です」


貴女こそ、と言葉を返すジャーファルは困ったように眉尻を下げて微苦笑した。大抵の文官の反応と似通った表情に彼女もまた苦笑いを零した。この国の文官はみなそのようなものである。大した理由など、きっとありはしないけれど。


「そうだわ名前、久しぶりに一緒にご飯食べましょう! アラジンくんたちも、ジャーファルさんたちもみんなで」
「あそれ賛成! ピスティも確か昼番だったはずだし、シャルは自業自得だから知らないとして」


共同の調理場でも借りて久しぶりに料理でもしてみようか。これでもその類だけは得意であるので、僕たちもいいのかいと目を輝かせながら輪に入るアラジンに勿論と少しだけない胸を張って笑ってみせた。「私もお手伝いします」とモルジアナが赤い頭を風になびかせながら小さく笑うのに有難うと返し、マスルールのパパゴラス鳥食べますかという言葉に思わずヤムライハと顔を見合わせた。これはなんだか本格的に宴のようなものになってきそうだ。


「ついでにシンさんも仕事終わってたら呼びに行ってあげましょうか」
「ふふ、そうね――」
「お、なんだか楽しそうな話をしているな」


噂をすれば影が差すとはまさにこのことである。にょきりとジャーファルの後ろから頭を出したシンドバッドはいつものごとく政務官に非難の目を浴びながら、いつものごとく笑ってごまかそうとしていた。こういうところを、あの焦げパンの彼は真似てしまったのだから尚更なにも言えなくなってしまうのだ。


「あんたまたなにサボってんですか!」
「いや午前中のはあれはサボりじゃなくてだな…!」
「せめて二日に一回にしましょうシンさん」
「そこじゃないですよ名前、あなたもそうやって甘やかすから…」


緑のクーフィーヤが揺れる。足元の背丈の低い草が足首をかすめる。少しだけ湿っぽい風のにおいが鼻腔に広がった。


「よしじゃあ私は準備してくるよ、シンさんお仕事頑張ってくださいね」
「ん、なにをするんだ?」


立ち上がるヤムライハとモルジアナの手を取って、唇を尖らせるジャーファルの言葉を聞き流すシンドバッドが首を傾げてこちらを見やるのに目を細める。アリババの金髪がシンドリアの太陽にきらめくのに紛れて、光の粒がひらりと舞った。


「ちっちゃな謝肉宴です!」


一瞬目を瞬かせた彼はそれからすぐに吹き出して、それなら仕事を頑張らないと、と朗らかに笑った。「ほら行きますよ、まったくもう」なんてシンドバッドの背を押して執務室へ押し戻そうとする彼のひどく穏やかそうな困り顔が。パパゴラスを捕まえに行くのについて行くらしい二人の少年の笑い声が。両手にある温かさが。
心臓の奥の方で緩やかに溶けあって馴染みあって、仄かに熱を残していく。
何食べようかな、と上げた声が、そんな世界で色を帯びた。

可もなく不可もない、そんな穏やかな日々