ぺたりと素足が床を歩くその足音に、閉じていた瞼を薄らと開ける。高くのぼる月を隠すように、人影がふっと入り込んだ。きらきらと細い髪が月光に反射して、その影はすとんと彼女の隣に腰を下ろす。安いアパートのベランダに大人二人が座り込むには狭すぎて、必然的にくっついた肩に少しだけどきりと心臓が笑った。服越しに感じる彼の体温は、やはり冷たかった。
「風邪でも引きに来たのか?」
「誰かさんの真似をしてみたくって」
「なれっこない相手の真似をして意味があった?」
膝を抱えてそこに頬杖を突く彼、秋は彼女に一瞥もくれずにただ空を見上げていた。その声は少しだけ固く、表情を見ずとも眉根を寄せていることくらい容易に想像できた。相変わらずの皮肉っぷりに思わず吹き出せば、彼は盛大な溜息を吐いて振り向く。夜の所為なのか元々の体調の所為なのか、その顔は僅かばかり青白く見えた。
「それで、ススキも団子も用意せずに一人でお月見?」
「ううん、月に連れてけって話してただけ」
「…月に帰る予定はないんだけど?」
彼の毎夜のそれがかぐや姫をなぞらえたものであるならば、物思いに更けて咽び泣いてしまいそうだ。秋は、彼の真似事だと笑った名前に苦笑するとぱちんと指を鳴らしてお手製の香り煙草を呼び寄せる。どうやら日本最古の物語は彼の趣向に合わなかったようだ。目の前を横切る紫煙をぼんやりと目で追っていれば、秋がどこから持ってきたのかブランケットを肩にかけた。暦上は春とはいえ、夜風はいまだひんやりとしていた。
「どこかの誰かさんは、いつもすぐ風邪を引くのに薬屋の言うことを聞いてはくれないからね」
「それはなんてひどい人、でも風邪薬はよく売れそうね」
くすくすと笑いながらブランケットを手繰り寄せ、少しだけ秋の肩に寄りかかる。これで彼に人並みの体温があれば、尚更温かいのだけれど。
近づくとミントの香りが一層強くなって、鼻の奥がすんとした。
「ねえ、秋」
視界の端でセピアの髪がゆれた。彼の細く長い指が彼女の頬を撫で、味気ない黒髪を指に絡めてするりと放す。秋、と唇が名前を紡ぐ前に、その声を飲み込んだ。
「名前、そろそろ部屋に戻りなよ」
「――もうちょっとだけ」
「だめ」
ほら、もうこんなに冷たい。と握りしめていた指先を攫って、彼は目を細めた。
「…座木さんに勝るとも劣らず」
「歯の浮くようなセリフをご所望とあらば、こちらまで。フリーダイヤルをメモする準備はいい?」
くくと笑う秋に「そっちじゃない」と唇を歪めれば、彼はわざとらしく目をぱちくりとさせて首を傾げた。ああ、黙っていれば可愛らしい容姿が全く以て台無しである。
はあと空に向かって吐いた息は、確かに無色だった。
「過保護」
「どっちかというと手間のかかる娘の世話をする父親?」
「言葉遊びが趣味過ぎて呆けなさそうで何より」
「会話も弾めば心も弾む?」
「弾んだついでに夕飯食べる?」
ふうと形の良い唇から吐き出された煙の後から異国語が飛び出す。英語ならまだしも欧州ともなれば、言葉を咀嚼することも無理難題である。恐らく肯定を表しているだろうと勝手に解釈をして立ち上がろうとした刹那。ぐいと柔らかな力で腕を引っ張られてぽすんと彼の腕の中に収まった。煙草はどことも知らぬところへと消え、残り香だけが漂っている。いつもながらに突飛な行動の意味を知る術は持たないけれど。
「どうしたの、秋?」
「ねえ、名前」
肩口に顎を乗せれば、硝子に映る自分と目があった。耳元で囁くように声を落とす秋は冷たくて、温かかった。
名前を呼んだきり一言も話さない秋が、珍しくて。なんとなく、そういえばと先程話をしていたかぐや姫を思い出した。一昨年より去年、去年より今年。彼がまるで少年へと戻っていくように、彼女はじわりと年を重ねていく。
――最後に残された翁と媼は、結局どうしたのだっただろうか。
「…逢うことも、なみだに浮かぶわが身には、だっけ」
これは帝の歌だっただろうか。ぴくりと反応した秋が、小さな笑い声を上げた。
「天の羽衣は、私も秋もいらないね」
彼の肩口に顔を埋めれば、ぐしゃりと乱暴に頭を撫でられた。鼻の奥が痛んだのは、彼の纏うミントの香りの所為なのだ。
「あき、」
ぎゅうと抱きすくめていた腕が緩まる。セピアの髪に隠れる秋の双眸は、ひどく可笑しそうに細められていた。
「そんなつもりなかったんだけど」
「…ばか。……お腹減った、ご飯食べる」
腕の中から抜け出して、仄かに暖かな室内へと身をすべり込ませた。誰かさんに似てしまったのかスリッパを履くことも忘れた素足でリビングの絨毯を踏む。柔らかな感触に立ち止まり、振り返った。相変わらずベランダで座り込んでいる秋は二本目の煙草を蒸かしていて、名前はもう一度ベランダへと足を運ぶ。ブランケットを肩からおろして、秋の背中に巻き付けた。何、と顎をあげて見上げる彼に、
「好き」
好きだよ、とこぼして笑う。彼のダークブラウンの瞳がひとつ瞬きをして隠れ、徐に伸ばした右手が彼女の頬を捉えた。ふわりと伽羅の香りが胸を擽った。なぞるように秋の唇が触れれば一層沈丁花の香りが広がって、ふふと彼が離れた合間に声をもらした。
「アールグレイでもいい?」
「なんでも」
「あ、座木さんの淹れたのが飲みたい」
「残念、ザギは明日一日いない」
屈めていた腰を起こし、夜の空気を遮るカーテンを引く。のそりと立ち上がった秋が後ろ手に窓を閉めれば、月は随分と遠くなってしまった。欠伸を噛んで伸びをする彼を眺めて、水の張った手鍋をコンロに置く。勝手知ったる様子で冷蔵庫を開けた秋の背中を叩いてから、もう一度窓を見やった。その視線を遮るように、秋の手が名前の両目を覆う。くくくと笑った秋の声に、ぽつりと落ちた。
「秋と一緒にいたいなあと、お願いしていたんですよ」
お月様にね、と囁いた言葉に、彼はいったいどんな顔をしたのだろうか。目を塞がれた彼女には見ることはかなわなかったけれど、きっと面白おかしそうに笑っていたに違いない。その証拠にふるふると震えだした手のひらが、腹を抱えるまでそう時間はかからないことだろう。