※ 夢主は左半身を動かすことが少し苦手という設定です。ご注意下さい
横にたなびく銀色の髪を、未だによく覚えている。あれは確か小学生のころのことで、私にとって突如乱入してきた彼が一体何者であるかということよりも、あの時はただ、あの赤い瞳から目を逸らせなくなっていたのだ。薄暗い闇の中でぽつりと浮かぶあの人を思い出すたびに、ふと胸を過る柔らかな痛みに似たそれは恐らく憧憬に近いものなのだろうと思っていた。
「リクオくん」
騒然とする教室で、その声がやけに響いていたような気がした。意識をしていたわけでもないのにその他の雑音を追い抜いて耳に届くその名前と声に、小さく苦笑する。ちらりと振り向けば幼馴染のカナとリクオがいかにも仲良さそうに話をしていた。
――彼女はリクオが好きなのだと、気づいたのはいつのことだっただろうか。彼女の口から零れた言葉が明確にそうと告げていたわけではないけれど、仕草や声からなんとなく想像はついていた。そんな風に思っていた矢先、私ね、と目元を仄かに染めた彼女が確かに「好きなの」と呟いたあの日、私は大切な幼馴染として応援しようと決めたのだ。きっと、彼の隣に並んでいるのは彼女のほうがいい。頑張って、と声に出した言葉は鉛のように、今も私の心臓の裏側に居座っている。それら全部を気のせいだと飲み込んで、帰ろっかと笑うカナに頷き返した。
「名前はそれでいいの?」
「え?」
彼女はお皿に並ぶ握り飯をうねうねと動く髪の毛で絡みとり、後頭部にある大きな口の中に放り込んだ。二口女と呼ばれる妖怪である彼女は、眉尻を下げて私の頭を撫でてくれる。
その言葉の真意を測りかねて、私は小首を傾げた。
「…いいや、なんでもないさ。それより、身体は辛くないかい?」
すりすりとすり寄ってくる風狸を腕に抱え、こたつの中に放り投げた足を見る。私は生まれつき左半身をうまく動かすことができなくて、人より歩みが遅かった。彼女の視線にゆるく微笑み、大丈夫だよと頷いた。いつも隣にはカナたちがいる。どれだけ歩みが遅くとも、この左手がうまく動かなくても、二人は笑って助けてくれるのだ。
だからこそ、そんな二人が隣り合う姿はほほえましくて、応援できる。
「私は大丈夫よ。そうそう、聞いて! 今日ね――」
風狸の背中の青い毛を撫でながら、テーブルに身を乗り出す。私は彼女の言葉の曖昧さに浸り、ゆっくりと目を閉じた。
次の日の放課後、私が下駄箱に寄りかかりながら靴を履いていると不意に肩を叩かれた。名前ちゃん、と弾けた朗らかな声に、無意識に笑いながら振り返ればそれはやはりリクオだった。伊達の眼鏡をくいと押し上げて、さりげなく肩を支えてくれる。その手の温かさが、純粋に嬉しかった。
「カナは?」
「用事があるから先に帰ってていいよって」
一緒に帰ろうと、笑った彼に一瞬目を伏せる。首を傾げたリクオになんでもないよと首を横に振り、杖を握りしめた。幼馴染なのだから、いつものことなのだから、何も気にすることはない、はず。
ぽつりぽつりと言葉にあぶくを浮かべ、視界に彼の横顔を映していた。
「いつもごめんね、」
ふいに途切れた会話の合間で苦笑いを浮かべながらそう言葉を残した。カツン、とコンクリートを突いていた杖の音が消え、私は立ち止まる。半歩後ろにいるリクオは、顔をくしゃりと歪めて私の頬を両手で挟み込んだ。突き出した唇が彼の名を呟く前に、少しの怒気を孕んで彼は呟いた。
「名前ちゃんが好きだから、こうやって一緒に帰ってるんだよ? どうして謝るの」
声がするりと溶けては目尻に熱を残して消えていく。そうして真っ直ぐに見つめる双眸を見返して、震えて力の入らない左手で彼の手の甲に触れた。指先から伝わる確かな温かさに目を細め、ゆるく微笑む。
「――うん、ありがとう」
私も好き。呟いた声に色を重ねて、彼の優しさに沈んでゆく。嗚呼、この優しさを私だけが抱えてしまえたならば。そうすれば、こんなに苦い思いをしなくてすむのかもしれない。
好きだよと落ちた言葉に、わずかに歪めた彼の目尻に首を傾げる。するりと離れた彼の指先が、何もない空気を撫でた。
「名前!」
とたとたと軽やかな音に振り返れば視界に青い毛が揺れるのが映り、小さな衝撃と共に首元に風狸が巻き付いてくる。角から笑みを浮かべる二口女が顔を出し、玄関を指差していた。
「奴良組のところの孫が来てるよ」
「孫……リクオくんが?」
ああ、と唇を横に引く彼女に、頬にすり寄ってくる風狸を預けて静かな廊下を歩き始める。ぎしぎしと歩くたびに床板が軋み、何度目かの杖が突く音を耳に歩みを止めた。玄関の式台に腰を掛けて天井を仰ぐ銀髪に、出かけた声を呑む。引き戸の刷り込み硝子から漏れる月光にその髪をきらめかせている。ゆっくりと彼が振り向いたとき、赤い瞳と目があった。
「よお」
「どうしたの? こんな時間に…って、妖怪なら"こんな時間"でもないね」
くすと一人笑えば彼も笑みを零して、太ももに肘を突いて下から見上げるように視線を寄越す。楽しげに弧を描く唇が、「名前」と声を紡いだ。
「いや、なんとなく会いに来ただけだ」
「ふうん…? 明日も学校あるのに?」
「…それは昼の俺だけだろうに」
リクオが左寄りに座っているために空いた右隣へとちょこんと腰を下ろせば、くくくと笑う声が頭上から落ちる。それにつられて見上げれば、ぽんぽんと大きな手のひらが頭を撫でた。
「変なリクオくん。今日はどうして玄関なの?」
「あー、…そろそろけじめつけようと思ってな」
がしがしと後頭部を掻きむしった彼はひとつ瞬きをすると、熱に浮かされたときのような双眸で私を射抜く。
――ゆらりと、いつも隣で笑う彼女の影が頭の隅で揺れた。
「…お前はいつも勘違いばっかしてやがるから」
「勘違い?」
「昼に限ったことじゃねえ。好きでもないやつなんかと帰るときも今みたいな時も、一緒にいるかよ」
ぱちんと耳元でシャボン玉のようななにかが弾けた気がした。赤い瞳は尚も逸らされることはなく、私は瞬きを一つする。
「……よかった…私、いつもみんなに迷惑ばかりかけてるから、」
嫌われたくなんてないもの。仮令相手が見知らぬ人であろうと、愛おしい人たちであろうと。顔を歪めて背を向けられることなんて、耐えられるわけがない。
杖を強く握りしめる。目の前の彼は眉間に皺を深く刻んで、初めて顔を逸らした。それから二度ほど下唇を噛んだ後、不意に私の右手を握りしめてその端正な顔を寄せた。
――ちゅ、とほんの小さな音を残して、柔らかな感触が唇に触れる。驚いて思わず身を引けば、彼はぱっと離れて立ち上がった。
「…悪ぃ」
「っリク、――!」
ぴしゃりと閉じられた引き戸に映る影が消える。砂利を踏む足音が遠退き、私は急いで立ち上がるけれど力の入らない左足がもつれて小さな段差しかない式台から躓き落ちた。ガタンと派手な音がして、じんじんと痛む膝に視界が歪む。
――だって、カナも大事な幼馴染なのだから。彼女の笑顔が、脳裏に過ってしまったから。だって、だってと浮かぶ言葉が心臓をえぐる。
好きだった。カナが本音を教えてくれるより前に、気づかなかっただけで。この淡い思いはいつだってここにいたのだ。
柔らかな温もりが触れた唇を噛む。
もしも息が切れるほどに走ることのできる足があれば、すぐにでも追いかけていけるのに。もしもあのとき身を引かなければ、彼はきっと告げてくれていただろう。もしも、もしも、カナがあの日好きなんだと言わなかったら、私は今こんなにも悩む必要なんてなかったのに。
「っ」
ぽたりとこぼれたそれが、灰色の三和土に丸い染みをつくる。
「り、くお…くん」
好き。眼鏡を上げる仕草も私の名を呼ぶ声も笑う横顔も、夜になって見た目が変わっても何も変わらない。そんな君が、好きなんだ。
「名前! どうしたんだい…!?」
物音に駆け付けてきた二口女が私の肩に手を添えのぞき込むように屈んだ。頬を伝う涙に気づいておろおろとした彼女にようやく笑いかけて、私は一緒に転がり落ちた杖を掴んだ。
私はまだ、伝えていないことがあるから。どうしても、今じゃないと。今じゃないと、きっともう変わってしまう。
おはようと笑いかけてくれる声を、なくしてしまいたくない。
ぐ、と右手に力を込める。彼女の手に頭を振り、よろよろと一人で立ち上がる。もう、本当は一人でだって立ち上がれるのだ。君の手が、愛おしかったから、甘えていただけで。
「名前…?」
「わたし、もう、言い訳しないから」
いってきますと伝えれば、彼女は引き戸を上げて目元を細めた。
「リクオ、くん!」
慣れているはずの玄関先で何度も躓きそうになりながら、見えない彼の背を探していた。古い門を抜ければ、わきの壁に背を預けて立っている彼がいた。静かに目を閉じて、袖に両手を突っ込んで黙り込んでいる。私に一瞥もくれずにそうして背を向けて歩き出してしまった。
「まっ!」
爪先がつんのめって膝からくずおれれば、彼の歩みが止まった。
「ごめんなさい、リクオくん…!」
「……」
ただ謝るために、追いかけてきたわけじゃない。それでも伝えたいことが多すぎて、言葉が声になり切れずに唇の隙間から零れていく。
――違う、言いたいことなんて、ひとつしかない。
ぎゅうと拳を握れば、尚更弱虫な涙腺が水気を帯びた。
「――き、なの」
冷たいコンクリートが手のひらから伝わってきては、声を噛む。何度も何度も噛んでは飲み込んで、意を決して顔を上げれば彼は振り向いてただ見下ろしていた。
「好き、リクオくんが、好き」
ぐにゃりと歪みそうになる視界に右手で目元をこすれば、ふわりと桜の香りがした。背中に回された腕にまた泣きそうになって、彼の肩口に顔を押し当てる。「馬鹿」と耳元で呟かれた声が、たまらなく愛おしかった。
「気づくのが遅い」
「だ、だって」
「さっきのすげえ傷ついた」
「…ごめんなさい」
名前、と囁かれる声に顔を上げればリクオが目尻の涙を唇でなぞる。頬をなぞり、唇に触れて私は息を止めた。とても長かったような、一瞬だったような口づけにそっと離れて息を継ぐと、彼は淡く微笑んで額に唇を押し当てる。
「けがは?」
「ううん、大丈夫」
ゆるく頭を振り、杖を支えに立ち上がる。彼は私の左手を包み、そのまま私の頬へと宛がった。こつんと触れ合わせた額に少しだけ恥ずかしくて目を伏せる。「名前が好きだ」と告げた言葉に目を閉じて、うんとか細い声で返した。
「…歩くのがゆっくりでも、いい?」
「ああ」
「私いっぱい、迷惑かけちゃうよ」
「迷惑なんかじゃねえさ」
お前がいいんだと笑った声に、微笑む声を重ねて。鼻筋に小さく触れたあと額を離し、左手を繋いで帰ろうかと目を細めた彼に頷いた。