どうかその指先で

ふわりと柔らかな風が頬を撫でる。風に誘われて漂うのは何かの花の香りで、鼻を利かせながらその匂いを辿っていればふいに声が落ちてきた。


「そんなとこで寝とると風邪を引くぞ」


花の香りが途切れて煙ったい臭いが鼻を衝いた。言わずもがなそれは煙管から立ち上る紫煙の臭いで、彼女は目を開けることなくごろりと寝返りを打った。
春の穏やかな昼下がりとはいえ時折吹く風は冷たく、日陰ともなればまだまだ寒い。それでも、縁側で寝転んでいると気分がいいのだ。ぎしりと床の軋む音と共に頭のすぐ横に腰を下ろした彼は、名前の頭をひょいと持ち上げ自身の太股のうえに乗せた。突飛な行動ばかりするこの男に今更何を驚くことも咎めることもしないけれど、強いて言うなれば筋肉質すぎて固く寝心地が悪い。彼女は漸くうっすらと目蓋をあげ、呑気に煙管を蒸かす彼を睨めあげた。


「……その臭い嫌いなんだけど」
「襟がはだけとるぞー、手ェ突っ込まれる前に直しとけ」
「まだ昼間よ帰れ」


悪態を吐きながら襟を正せば彼、ぬらりひょんは残念とおどけたふうに笑った。彼は燻る火種を外へ捨て、放り出していた足で踏み潰す。僅かに尾鰭を残して漂う臭いに顔を顰めると、彼の長い指先が眉間の皺を伸ばした。その手は少しだけ冷たかった。


「なんじゃ、そう拗ねるな」
「何に拗ねるっていうのよ、ここ暫く来なかったくせに」
「ほら、拗ねてるのう」


くくくと喉をならせて笑うぬらりひょんの視線から逃げるように彼の腹に鼻を埋めた。――花の匂いがした。微かに、酒の臭いを引きつれて。


「……どうせほかのとこ行ってたんでしょ」
「何いっとるんじゃ、花見じゃ花見」


そう言うと彼はふわりとなにか柔らかくとても軽い小さなものを頭のうえに降らせた。視界の端で薄紅色が風にさらわれ流れていった。
桜の匂いだ。確かに香っていたのは、いつぞやに二人で見に行った桜の匂いである。暫し動かなくなった名前をどう思ったのか、ぬらりひょんはまた小さく笑いながら彼女の黒髪に指を滑らせた。


「見に行くか?」
「いい、私はここに貴方がいればそれがいい」


指先で桜の花びらを撫でればそれごと大きな手が包み込んだ。相変わらず冷たかったけれど、相も変わらず、優しかった。


「名前」


耳元で揺れた囁きに顔を向けると彼にしてみれば珍しく柔らかな口付けが落ちた。彼女の唇を撫でるように触れるぬらりひょんの丸めた背中を指でなぞれば、ただただ愛おしさばかりが溢れていく。そっと離れぎわ名前の口紅に彩られた彼の唇に噛み付けば、少しばかり苦かった。


「素直じゃねえな」
「あら、お互い様」
「嘘を吐け、わしはお前よりこんなに素直じゃぞ」


溜め息混じりに呟いた言葉に笑い返す。もう一度ぬらりひょんの体に顔を押しつければ、優しい匂いがした。猫のように丸めた背中に手を置いた彼は、ぼんやりと呟く。


「あったかいのう」
「年寄じみてきたわね」
「お、それじゃあお前に世話してもらわんと」


楽しげに笑う声に目を細め、背中を撫でるぬらりひょんの手を胸元で握り締めた。握り返してくれる手が、抱き締めてくれる腕が温かいから。


「…そうね」


明日もそのまた明日も、こうして縁側で寝そべって君を待つのだろう。彼が囁いた愛おしい声は、緩やかに微睡む意識の中で溶けて消えた。