君を追う声に哭く

なんてことない相手だった。我らが王シンドバッドが国を建国した当初から年に数度、他国からの密偵が紛れ込んでくることがあった。それらは大概八人将総出で剣を交えずとも容易に捕縛することができたほど弱かった。勿論彼らの母国ではそれなりの強さではあったのだろうが、言ってしまえばそんな程度の相手だったのだ。
彼は数年前に文官として働きたいと志願してきた。あの時はたいして珍しいことではなく、能力さえ備わっていればあとは簡単な審査を通るだけで誰でもなり得ることができた。勿論、素性の信用程度で行う仕事も振り分けられる。ただすべてを疑っていたわけではなく、かと言ってすべてを信じていたわけではなく、こんな事態が起きることはある程度予想はしていた。

だから、実際本当に、なんてことない相手だったのだ。どれだけの大人数で応戦してこようと、遅れを取ることなどありえないはずだった。


「名前!」


赤い血飛沫が舞う。握り締めた眷属器が手から滑り落ちそうになるのを堪え、左腕で崩れ落ちる彼女の肩を抱いた。右腕に絡む赤いそれで、ナイフを握る彼の腕ごと縛り上げる。
ぷつりぷつりと思考回路が一つずつ切り落とされていくように、らしくもないほど頭の中が真っ白になった。誰かの荒い呼吸ばかりが耳を掠める。左手の指先がぬるりとした生温い何かに触れた。


「じゃ、ふぁる」


いっそ殺してしまおうかと呟いた声が、彼女の声に隠れて消える。ひとつ瞬きをすれば、鮮やかな世界が視界に映った。くたりと膝を折り白目を剥いた男に、仄かに温かな指先が右腕に触れたのに、気が付いて。乾いた唇が震えた。


「ジャー、ファル」


彼を呼ぶ声に引かれて視線を下げれば、彼女は血のはねた頬を歪ませていた。



駆け付けた武官に気絶した男を任せ、名前を連れて医務室へと駆け込んだ。幸い切り付けられた傷は浅く、安静にしていれば直に傷口も塞がるだろうとのことだった。
処置を終え医務室のベッドに横になっていた名前は彼に気付くと起き上がろうと身じろぎしたので、彼はその肩を押し返した。シャツのボタンの隙間から肌の白さとは明らかに異質なものが見え、ほんのりと口の中で鉄の味がした。
あははと頬を引きつらせて笑う彼女は、ぎゅうと布団を握り締めている。ただ無言を貫いたまま立っているだけのジャーファルに耐えられなかったのか、恐々と擦れた声で呟いた。


「……えっと、あの……きょ、今日は良い天気ですね」
「今日は曇りですけど」


馬鹿じゃないですかとはき捨てた言葉に彼女は黙り込み、ひたすら視線を彷徨わせていた。医務室の白さが、気持ち悪かった。


「――あなたに庇ってもらう必要はない。これからも、ずっと」


びくりと名前の肩が震える。握り締めすぎた手のひらが痛かった。


「二度と、あんな真似しないでください」
「……、どうして」
「どうして? 言ってるでしょう、あなたが私の前に出る必要がないからです」


喉の奥で尖る声を吐き出すたびに、彼女は眉間の皺を険しく寄せた。焦げ茶の双眸が見たこともないほどに酷く揺らいでいる。言葉を探しては噛み締める唇に赤い斑点が残り、わなわなと微かに震えていた。


「どうして、私がジャーファルを守っちゃいけないの。確かにさっきのは考えなしだったかもしれない自覚はしてるし反省もしてる。でも――」
「考えなしで突っ込んで死なれたら迷惑だって言ってるんです。それに、私はあなたに守ってもらうほど弱くない」


ひゅ、と息を吸う音が聞こえた。ひくついた喉を横目見て、握り締めた拳を両袖に突っ込んだ。


「かっこつけてんなばか! 」


言葉とともに襲い掛かってきたのは柔らかな枕で、反射的にばっとよければ上体を起き上がらせた彼女が目尻にわずかに涙を浮かべているのが見えた。薄く開いた唇の隙間から本当に小さく苦悶の声をにじませ、それでも彼を睨む双眸ばかりは鋭く張り詰めていた。
――今すぐにでも、その涙を拭って抱きしめてあげたいけれど、言いたいことは山ほどある。ジャーファルが言葉を発しようと口を開いたそれさえ遮るように、名前は言葉を吐き出した。


「私はジャーファルの隣にずっといたい。守ってあげるとか庇い合ったりとかじゃなくて、ジャーファルが好きだから、ジャーファルが大切だから……! 弱いとか強いとか、そういうのじゃなくて、」


真っ直ぐに絡む視線の先で、ぽろぽろと静かに透明な雫が落ちた。目元を赤らめる彼女はただの一度も目を逸らすことなく、そして次に続けるはずだった言葉を呑んだ。ジャーファルが名前の肩口に額を押しあてた所為で、もう何を言うこともできなくなってしまった。彼は布団を握り締めていた彼女の手のひらを包むように手を重ねた。震えていた彼女の手の温かさが苦しくて、ぎゅうと指先に力を込める。
――怖かった。目の前で誰かを失うことが、愛おしい人を失うことが。ただ、怖くて。


「…名前」


どんな言葉を呟けば、伝わるのだろうか。ぐちゃぐちゃと混ざり合って分からなくなった塊を解していこうとするけれど、どの欠片もお世辞にもきれいとは言えない声をしていた。ふわりと彼女の指先が頬を撫でる。喉の奥に詰まった声が、ただひたすら彼女の名前を零していた。


「……私も、名前が好きだよ」


頬に触れる名前の手を握り、彼女の頬に宛がった。ぎしりとベッドが軋みを上げる。柔らかな彼女の赤い唇にそっと触れて、こつんと額を押し当てた。


「だから、無茶だけはしないでください」


頬を染めた名前が笑う。親指で拭った涙が渇いて、そうして漸く気が付いた。