かくもよく似た

目の前に広がる最後の書類に目を通し、彼は息を吐く間もなく立ち上がる。おそらく何処ぞに歩き回っているであろう王を探しだしてこの書類を突き出し、それから引き続き溜まった仕事を捌かなければ今夜も眠ることができなくなってしまう。いくら徹夜に慣れているとはいえ、四日目に突入するのだけは避けたい。もはや慢性的になった頭痛と肩こりに歩きながら首を回していれば、後ろで少しだけ掠れたアルトの声が弾けた。


「ジャーファル、今回は何徹目?」


眠気の所為でぼやけた視界でセピア色の髪がふわりと揺れて、どきりとした。
そう言って彼女は彼、ジャーファルが抱えていた高く積まれた書類の半分ほどを攫って行って、はあと笑いながら溜息を零した。


「あんまり無理しちゃだめだよ。徹夜続きじゃ仕事の効率も悪いでしょ」
「大丈夫ですからあなたはご自身の仕事を終わらせてください」


既に両腕に抱えられたそれらのせいで彼女の手の内に収まる書類を回収することはできず、ジャーファルは無意識に尖らせた言葉を吐き出した。彼女は微塵も気にする素振りを見せず、また朗らかに笑って歩き出す。彼女の歩幅は小さくて、遅れて歩き出した彼はすぐにその背に追いついた。


「大丈夫。シンはちゃんと部屋に放ってきたし、冒険書の複製も三巻分終わらせたし。取り敢えず今は休憩中だけど――」


頭一つ分背の低い彼女――名前が不意に顔を顰めてぐいと寄せてきたので、ジャーファルは睡魔に思わず閉じそうになっていた瞳を見開いて顎を引いた。何です、と僅かに開いた口から声をもらせば、彼女は眉根を寄せてその形のいい唇を歪ませる。


「朝ごはん食べた? ちゃんと休んでるの? 徹夜しなきゃ終わんないのはわかるけど、一人で背負い込みすぎだよ」
「…そういう名前こそ、声が嗄れてますよ。どうせまた風邪でも引いたんでしょう? 休憩の合間に武官との稽古に励むのもいいですけど、あなたこそ休んだほうがいいのでは?」


横目でちらりと名前を見れば、彼女は丸い瞳を細めて顔を逸らした。心配してるんだよ、と呟いた声は小さくて、ジャーファルは一瞬息を詰めた。きつい言い方をしてしまった自覚はある。だからこそ何か言葉を重ねなければとは思ったけれど、どうにも上手い言葉が出てこなくて結局押し黙ってしまった。
少し気まずい雰囲気をぶら下げながら王の部屋の前につくと彼女から書類を預かり、ふさがった両手の代わりに扉を開けてもらった。それじゃあねと手を振った彼女に短くお礼を伝えれば、名前は柔らかく微笑んで踵を返した。
彼女のおかげで探す手間が省けた我らが王ことシンドバッドはジャーファルに気づくと「やあ」などと微笑を浮かべてくるものだから、とてつもなく腹立たしくなって彼の目の前に乱雑に書類の束を置く。びくりと震えたシンドバッドは書類と彼とを交互に見やりながら、小さく笑った。


「何だ、名前と喧嘩でもしたのか?」
「してませんし無駄口叩く前に印鑑下さい」
「全く、お前ももう少し素直になったらどうだ? 拗ねてたぞ」


一番上の書類を手に取り眺める彼は、案の定思い切り顔を歪めるジャーファルにもう一度笑った。


「…あいつは昔から鈍いし、お前も変わらないな」
「……あの人が変わらないだけですよ」


失礼しますと一言残して、部屋を後にする。これ以上シンドバッドと話していれば、どうしようもなく焦がれて焦がれて、自分の弱さを暴かれてしまいそうになるから。だからいつも、彼の口から名前と紡がれるのは苦手だった。――ジャーファルよりも早くに知り合ったからなのか彼女の名を柔らかく呼ぶことに、毎度のことながら沸々と込み上げてくるものの理由も、わかっているから尚更。
官服の袖の下に隠れた唇は、少しだけ苦い味がした。




彼は誰もいなくなった執務室に一人残り、ひたすらにペンを動かしていた。カリカリとこすれる音ばかりが響き、ペン先にインクを浸らせ最後に一文を書き足す。机上にうず高く積まれた書類の塔を見上げて、漸く息を吐いた。


「はあ…寝れる…」
「お疲れ様、ジャーファル」


椅子にもたれかかって目を閉じていたジャーファルはその声に勢いよく振り返ると、そこには盆を提げた名前が立っていた。彼女は隣の何も置かれていない席にそれを置き、腰に手を置く。


「翌日も仕事なジャーファル君に、ハーブティーを淹れてみました」


彼は席を立ってふふふ、と笑っている彼女の隣に並び、カップを受け取る。ふわりと仄かに香る匂いに思わず頬を緩め、まだ少し熱いハーブティーを一口、口に含んだ。隣でにこにことしている名前は「どう?」と身を乗り出してくるものだから、ジャーファルは一歩引いて頷いた。


「美味しいですよ、とても。有難うございます名前」
「本当? それなら良かった」


唇を引いて微笑んだ彼女は、そういえばと言葉をつづける。


「シンが、明日は午後からでいいよって」


良かったね、と名前はジャーファルの背を叩いた。反動で中身がこぼれそうになるのをなんとか保ち、それから細く溜息を吐いた。

名前はシンドバッドと年が近いため建国前から仲が良く、王となった今でも八人将の前ではその接し方は昔と少しも変わらなかった。彼女がシンと呼ぶたびに、言いようのない不安と羨ましさを覚えていた。
二、三の年の差といえど、名前からしてみればジャーファルなど小さくて幼く、おそらく弟のように思っているに違いない。昔から優しかった彼女を姉のように慕っていた時期は確かにあったけれど、それも彼が名前の背を追い抜いたころには別のものに変わっていた。――きっと、その頃から彼女はちっとも気が付いてなどいやしないのだろう。彼が名前を呼ぶたびに、落ちては重なっていく言葉を知らないで。


「…名前」


唐突に名を呼べば、きょとんとした顔で見上げてくる彼女に向き直り、柔く手のひらに爪を立てた。


「好きです」


何度も目を瞬かせて一瞬の沈黙を挟み、名前は口元に笑みを浮かべた。


「うん、私も好きだよ?」


――彼女がこういった類のものに鈍いのは昔から知っていたけれど、流石にここまで率直に伝えてこの切り返しをされるとは思ってもみなかったジャーファルは、僅かに開いた唇を噛むことで間を置いた。その鈍感な言葉ばかりを吐く唇をいっそ塞いでしまおうかとも思ったけれど、嫌われるのが怖くて、ああ情けないなんて心の奥の声を聞き流した。
はあと一つ溜息を零してその肩を抱きしめれば、肩口で困惑した声が漏れた。


「だから、好きだって言ってるんですよ馬鹿ですか」
「…え…、えっ!?」


漸く言葉を飲み込んだ彼女は一気に耳まで赤く染めると、言葉にならない声をあげながら顔を上げる。いつも余裕綽々とする名前がここまで戸惑っている様子が珍しく、唇がわなわなと震える彼女をいとおしいと思えた。


「…わ、わたし」


彼女のダークブラウンの瞳が揺れる。細い指が官服を握りしめた。


「…昔はもっとちっちゃくて幼くて弟みたかったけど、でも、今は違うよ」


シンドリアのよく熟れた果物よりさらに赤くなった彼女に、堪えきれなくなってその唇にかみついた。ゆるりと解けていきそうになる思考を繋ぎとめて、あともう少しだけと肩を抱く腕に力を込める。それでも彼女が苦しそうに鼻にかかる声をもらした後胸を叩いたので、仕方なく離れてその肩に顔をうずめた。


「鈍すぎて頭に来て、つい」
「だ、だって、あまりに突然だったから…! 年は上だし姉みたいなものだと思われてると……、」
「二つ三つくらいしか変わらないじゃないですか」


そう言ってから、似たようなものだと笑った。近すぎて、ただ気づかなかっただけなのだ。
ジャーファルは名前の頬に手を添えて、耳元で囁いた。


「名前、」


好きと呟けば、指先に触れる彼女の頬が熱を帯びた気がした。
――いくら言葉を重ねても、この人には到底伝わり切れそうにないのだから。小さく笑ったその声を飲み込むように、柔らかな唇に触れた。