もしも幸せになることに権利があるなら、きっと私には、私達には一生持ってはいけないものなんだろう。
縁側でお茶を啜って、世界を照らす太陽を一身に浴びて。
今日はいい天気だね、とそんな平々凡々な日常さえ、この両手には不似合いだと。
神様はいつだってそうやって、優しくしてくれないから。
それでも、誰かを愛しいと思える心だけは、どうか許してほしいのです。
不自然に聞き取りづらい足音は、誰かがこの部屋を訪れる合図。そうやって染み付いた普通の人とは違うものが、私たちにとっての普通だった。
「名前、いるか?」
久方ぶりに聞いたその声に、私は持っていた筆を硯に置き、紙面から顔を上げる。いますよと間延びした返事を返せば、控えめに障子が開けられた。
黒に浮かび上がる白。
返り血を浴びても目立たないから、と以前黒ばかりを身につける理由を教えてくれた。
だから、やっぱり。
「どうだった、今回は長かったね?」
座卓の下に放置したままの座布団を取り出せば、彼はそれの汚さに思わず眉をしかめた。――私の記憶が正しければ半年以上、いやもっと長い間使われなかった物。
真面目なつもりで汚れた座布団を差し出したわけではないので、それをまた座卓下に放り投げて畳を指差す。
冗談、と苦笑いで返してから正座していた足を崩した。
「……なかなか掴めなくてな。敵を撒くのがうまかった」
「バレてたの?」
「それほど慎重だったということだ」
どのみち今目の前に体があるのだから、失敗か成功かを聞くのは不粋だろう。ふぅんと一言返事をすると、彼は小さくため息を洩らした。
「なに、幸せが逃げるよ?」
「……少し眠いだけだ」
そういえばと彼の両目をよく見ればうっすらと赤く充血している。この一週間、ろくに眠れていないのだろう。
監察の任務は当たり前に徹夜をしなければいけないのだから、自然な反応ではあるが。
斎藤は二、三度目蓋を落としてから、名前と呟いて、
「っ、斎藤――」
「……雑魚寝は、辛いからな」
斎藤は私の左太ももに頭を乗せ、目元を腕で覆った。ちらと見えた耳が、ほんのり赤みを帯びていた。私があたふたとしているうちに、下から規則的な寝息が耳に届く。早、と呟いた声に勿論返事などなく、その代わりにしとしとと瓦をたたく雨音が聞こえた。
しとしと、しとしと、と。
他の雑音もすべてを吸い込む優しい音と、どこかで鳴き始めた蛙の声とが忙しなかった時間をゆっくりとしたものに変えていく。
ああ、きっとこれこそ。
「……雨が降ってるよ、斎藤」
ぼそりと呟いた声に、そうだなと寝呆けた声が返ってきた。
何が幸せとか不幸せとか、誰の物差しでもはかれないものだから。だからこそ、人はそれを幸せと感じるのだろう。
優しさも苦さも、知っているからなおさら。
「……私も寝ようかなあ」
するりと斎藤の髪を指で梳けば、腕の隙間から覗く目蓋がぴくりと反応した。それからむくりと起き上がったかと思うと、私の腰を引いて畳の上に横になる。
さながら抱き枕のようになった私は、彼のぬくもりにすでに微睡み始めていた。
斎藤は私の髪を何度か梳き、ぽつりと呟いて。
「おやすみ」
愛しくて優しくて温かくて。手放したくないと、離れたくないと。
きつく繋いだ右の手の温かさを感じながら。
明日の明日のまた明日も、君のために生きていこうと思うのです。
愛 し き 、
(君が隣にいるだけで)