ただいま。
後ろ手にドアを閉めるのと同時につぶやいた声は、誰もいない部屋によく響いた。ふらふらとした足取りでリビングのソファに飛び込めば、古く軋んだスプリングが悲鳴をあげる。
放り投げた鞄が落ちる音が、どこか遠くに聞こえた。
「……おかえりー」
一人二役の会話は尚更寂しさを呼び寄せて、クッションに埋もれた頭を持ち上げ反転する。
真っ暗な空間が、笑ってた。いつもならドアを開ければ電気がついてて、お帰りと返ってくる言葉があって。
あの時と同じ場所なのに、こんなにも温かくない。
どれもこれも、一週間前にいきなりいなくなった彼奴の所為。気紛れに二週間ほど居候したと思えばふらっといつの間にかどこかに帰っていったのだ。しかもそれが今回の一度きりではないのだから、自己中と気紛れにもほどがある。
それにいつも付き合ってしまう彼女も彼女だと言われてしまえば返す言葉がない。惚れた弱みだと、何故か彼に言われたのだがそれも図星すぎて何も言えなかった。
「……ほんと、なんでいつも待ってんだろ」
「なに、もう待つの疲れたの?」
「うわ、っ」
にょきと効果音を引きつれて現れた件の彼は、つまらなそうに溜息を吐いた。
「名前」
それから彼女の名前を呟いてからにっと笑って名前の鼻に牙をたてた。やわく噛み付いた八重歯の感触に、痛いの「い」の形を作ってはみたが口を閉じる。
それから名前の前髪をさらって額に小さくキスを落とした。
「明日引っ越しだから」
「…っは?」
「だから、こことはさよなら」
右手を振ってばいばいと笑顔で告げる秋の言葉に、なんでと言葉になりきれなかった声が舌の上で転がった。
「もう待つ必要なんかないだろ?」
僕のとこに来るんだから。
にっこりとまたしても暴論を投げ付け、マンションの契約書をテーブルに置いて名前の印鑑をお馴染みの手品で召喚させた。
鼻歌でも聞こえそうなくらいの笑顔を浮かべながら、彼は朱肉に一度押しあててから捺印する。そのまま必要事項をさらさらと記入をしはじめたとき、止まっていた思考回路が復活した。
「っちょ、私まだなにも言ってな……!」
「この期に及んでここに残るなんて言い分通るわけないだろ。
何のために僕がわざわざ大家のとこまで行ったと思ってるのさ」
誰もそんなこと頼んでない。
そう反論しそうになったのをこらえ、秋の手からボールペンをさらった。セピアの髪の下から覗くダークブラウンの瞳が、名前を捉えてすっと細まった。
「――僕は君の弟らしいね」
「は? なんの冗談」
「それ貰いに行くときに言われたよ」
そう漏らした彼は唇を尖らせて、名前はその光景を思い浮べて思わず吹きだした。確かに、兄には見えないが弟ならば行ける気がする。
「っ、じゃあ次はお姉ちゃんって呼んでみる?」
「鳥肌たつんだけど。だったら今度は旦那ですとでも言ってみるか?」
「……秋、変なもの食べた?」
「いたって正常デス。ほら早く荷物整理しなよ」
彼女が奪い取ったボールペンを取り返すと、人差し指と中指で挟み込んで追い払うように縦に振る。
名前はむっとしながらも立ち上がり、リビングを出ようとドアに手を掛けた。
「…いやなら別に良いけど?」
振り返ればどこからともなく取り出した香りタバコを銜えて、視線は窓の外の青に向けていた。
「――行く気も迷惑掛ける気も満々ですよばかやろー」
べーっと小さな子供みたいに舌を出してやれば、後ろに目でも付いているのだろうか、彼は肩を震わせて笑いはじめる。
「perversity」
笑いを耐えながら掛けられた言葉は、いつのまにかいなくなった寂しさごと空気に溶け込んで消えていった。
自 己 中 心 的 願 望 論
(結局やっぱり、大好きだってこと)