極寒の地、遠野では、暦のうえではもう春を迎えるというのに凍てつくような寒さが続いていた。
寒さだけではない。
底冷えするような寒さの中では栄養価のある食物は育ちにくく。一日中腹が満たされているなどという状態はあまり望めない。妖怪の世界にも縦社会というものは存在しており、弱いものは生きていることさえやっとで。
強くなりたいとは思う。
でもいつまでたっても実力と想いとが交わらず、最近はそれさえ仕方のないことと諦めることを覚えた。
悔しいと思うけれど、思っては次に羞恥に駆られるのだ。それに何より、この手で誰かを傷つけてしまうことが怖くて。
澄んだ川の中に汚れた着流しを突っ込みよくもみ洗いをする。こうでもしないと、こびりついた"赤"は拭えないのだ。指先はとうにかじかんで、最早何も感じない。川の水の冷たさも、服の感覚も、何も分からなくなっていた。
右手に置いた籠の中から山が消え、太陽も位置を変えた頃。暖かいはずの日差しは周りに広がるけむりの所為で寒くて。はあ、と大きな溜息を吐いてから、洗濯物籠を横目見ては眼前に流れる川を眺める。静かに流れる水面は、第三者によって乱された。
見上げれば、葉の落ちた枝に腰を掛けている彼。その右手は何かを投げた動作のまま。
「……イタクさん、」
そう呟くと彼は目を細めて名前を見つめる。何ですか、と少し声が低くなったのは悪意の欠けらもなく、ただこの寒さに嫌気をさしたからだ。
イタクは身軽な動作で木から飛び降り、なんとも微妙な表情を浮かべながら彼女に歩み寄る。
「なんでいつもお前がやってんだよ、なまはげは?」
「…一番弱いからですよ、あとじゃんけんで負けました」
じゃんけんかよ、と溜息を一つ零してから川岸に座る名前の隣に腰を下ろした。ひゅうと冷たい風が吹いて彼女の長い黒髪をさらっていく。風に煽られた水面は僅かな波を作り、足元の足袋を湿らせた。
「…そういえばイタクさん、用でも?」
「いや、淡島がな。呼びにきた」
「淡島さんが? …分かりました、もう終わりましたしすぐ行きます」
そう返してからすぐ立ち上がり、両手で籠を抱えて川岸から離れる。動く気配のない彼に名前は首をかしげ、また数歩戻った。
「イタクさん? 行かないんですか?」
覗き込むように上体を屈めれば、イタクは振り向いてからゆっくりと立ち上がる。それから徐に手を伸ばして、籠を抱える彼女の指先に触れた。
ぴくと指先が震えて、伝わる体温の違いに思わず声が漏れた。
「……あったかい」
「冷たいな」
重なった互いの言葉に目を合わせてから、イタクはその両手の中から籠を奪う。包み込むような形のまま反応できなかった左手を、彼の右手が握り締めた。
「っイ、イタクさ…!?」
いつも無口で無愛想で、こんな手を繋いだりとは無縁な彼が。
夢でも見ているのだろうか。ああでも、もし夢なら。
(……覚めないでいいよ)
繋がった左手はどうしようもなく熱くて、寒くて白くなっていた頬はいやなくらい火照った。冷たくて何も感じなかった指先に、じんわりと彼の温もりが伝わってくる。
「…冷てえ」
イタクは独り言のようにぽつりとそう溢して、ぎゅと力をこめた豆ができてかたくなった手のひらはごつごつしてて、大きくて。すっぽりと包まれた名前の手は、それに比べて酷く小さくて弱々しかった。
「イタク、さん……?」
「――冷てえし、荒れてんな」
名前は今度は別の意味で顔が熱くなって反射的に手を引っ込めようとしたが、更に強く握り締められて叶わなかった。今まで下を向いていた目線があがる。
「……洗濯物とか食器洗いとか、冬場はとくに酷いんです。私は、下っ端だか――」
「…強くなろうとか、気張んなくていい。こうゆう方が、お前に似合ってる」
「――どういう、意味ですか」
弱いから、何もできないから。だから、そんなことを言うのだろうか。
唇を噛み締めて絞りだすように呟いた言葉は、自分が思っていたよりもずっともっとかすれていた。
「名前の手は、このままがいい」
飾りもせず、ただ真っすぐにそう言うものだから。見開いた両目は交わった視線から逸らすことはできなくて。
「…水にさらして荒れた手のほうがオレは好きだ」
ふいと目線を逸らして、片方の手で額のバンダナに触れると気持ち深く下げた。横を向いたイタクの目元は少しだけ赤らんでいた。
イタクは、意味を理解したのとつられたのとで彼以上に赤くなった名前を横目見て、するりとその手を離す。
離れたその手で乱暴に頭をぐしゃぐしゃと撫でてから、まるでタイミングを見計らったかのように屋敷の廊下から淡島が顔を出した一瞬顔を歪めたイタクは、そのまま籠を持ったまま淡島の近くに早足で近づき、
「オレんだから」
と宣言してから物置のほうへ帰っていった。
彼女ははねた前髪を手で梳きながら、今更ながら頭を撫でられたことにかっと火照る。
「なあにが「オレんだから」だっての」
「……っ」
顔が一気に熱くなって、名前は両手で顔を覆って俯いた。横でちょっかいを出してくる淡島の所為で耳まで赤くなった名前は、心の中でぽつりと言い返した。
き み の 手 と 、
(豆ができて大きなきみの手の方が好きだよ)