手を繋いで

日本にきて数年。まだまだ知らないことだらけの異国の地で、彼女は初めて気の抜ける居場所が出来た。
――いや、彼女というにはあまりに幼すぎるのかもしれない。それは少女というには少し大人びて、けれど大人にはなりきれないとても小さな女の子だった。
少女の名は名前といい、とある薬店の前で人――といっていいものか――を待っていた。
黒ずんだ看板、客寄せをする気など皆無に思われる雰囲気。何度見ても、この店の佇まいにはなにか不思議なものを感じる。
ふと薬店の概観を見上げていれば、蝶番の軋む音とドアのベルがなる音が聞こえた。ちりりん、と柔らかく澄んだ音に目を細めながら、名前は視線を下のほうに向ける。
視界の端で、風になびく鮮やかな赤が揺れた。


「名前! お待たせっ」


少女と同い年くらいの、小学校低学年ほどの背格好をした少年はにこりと笑って、まだ踏み潰したままの靴のかかとにそわそわとしながら履き直した。


「時間は待ってくれるよ、リベザル」


慌てないでいいから、でも早く行こう。ころころと笑いながらそういうと、リベザルは少し照れ笑いをしてから頷く。とんとんとつま先を靴に慣らしてから、二人は坂を駆け下りた。
太陽は既に西に傾き、二人の長く伸びる影を地面に縫い付けて。



夕日が見たいと君はいった。そんなのいつでも見れるよと俺は笑った。今見たいと身を乗り出す君に折れて、少しだけどきりとした胸を握り締める。
夕日を見るために出かけるということは初めてだった。
だってそれはいつだって見れたし、いつだってそこに在ったから。灰色の雲に邪魔をされることもあったけど、いつだって存在しているのに。
夕日を見に行きたいと兄貴に言えば、兄貴は笑って「素敵だね」というんだ。きっと兄貴がそういうのだから、夕日を見に行くことは素敵なことなんだろうと俺は最初より断然わくわくした。
でもそれは多分、世界を冒険するよりも、見知らぬ土地へ行くよりも、ずっともっと綺麗で温かいんだろうとなんとなく思った。

陽が傾く。空は漆黒と朱色のグラデーションを作って世界を染めた。
二人は久我山駅とは反対側の、閑散とした住宅地を歩いていた。時折通る買い物袋をぶら下げた母親の後姿を眺めながら、その視線を空へと移した。


「見えないね」


背が小さすぎて、視界に広がるのは何倍も大きな家。左側にあるはずのそれは、未だ目にすることは出来なかった。リベザルは残念そうに声を落としてそう呟くと、隣にいた名前は突然走り出す。


「名前!」
「見えるよ! ほら、ほら!」


走って走って、左側の高い塀が途切れた。橋がかかっていて、手摺から下を覗けばそこには流れのない川があった。その川は少し濁っていたけれど、水面に反射する赤色がすごくすごく綺麗で。


「リベザル、」


呼ばれてゆっくりと顔を上げれば、今にも沈みかける夕日がそこにはあった。赤々と、丸くて大きくて。どんな色を混ぜれば、あんな色になるのだろう。
黄色、赤色、朱色、オレンジ色。
作られた色のどれを使っても、どれをあわせても。あんな色になるはずない。


「…きれい」


いつだってそこにあった。いつだって見れるから、立ち止まることもなかった。


「…ばいばい、また明日」


名前は夕日に向かって手を伸ばし、そう呟いて手を振った。明日も、明後日も明々後日も。いつだってそこにいるよ。

ゆっくりと沈む夕日にあわせて、空は濃さを増していく。暗い夜が迫り、そして唯一の明かりは家並みに呑まれた。まるで残像のように輝く向こう側の空は、足掻くように美しさを失わないで。長く見ていたはずなのに、いつのまにか紫色に侵食された。


「……帰ろ、リベザル」
「うん、帰ろう」


少しだけ吹く北風は、名残惜しさも浚っていって。
リベザルが躊躇いがちに伸ばした右手。それを握り返した名前の左手。
微かに冷えた指先と、確かな温もりを伴う心臓の奥のほう。
手を繋いで歩いた帰り道に、もう太陽の明るさはないけれど。二つの足音が家に帰るまで、優しい笑い声は高く高く空に吸い込まれた。


手 を い で