バイバイ

ぐ、と握り締めたのは、白いボール。いや、今は薄汚れてしまったため、白いという表現は間違っているかもしれない。
どちらにせよ、今はそんなことどうでもいい。そうだ、今は、目の前のことに集中しないと――。
手のなかのボールが、目の前にあったはずのミットではない底無しの暗闇に吸い込まれた。


「――み、…たくみ!」
「……、ん」


眩しい。
でもそれはマウンドを照らす太陽じゃない。自分の部屋の、ただの電気。脳がゆっくりと動きだし、彼に自覚を促した。


「……名前」
「……どうしたの、最近らしくない」


どうしたの、なんて理由はわかってるくせに。
そういいたくなるのを呑み込んで、目を閉じた。
ベッドが少しだけ湿っぽいような気がする。巧はこめかみを伝った冷や汗ごと隠すように、目元に腕をあてがった。


「……嫌な夢、見た?」


流石だと、思った。
名前は入学してからずっと一緒だったから、いい意味でよく見ていてくれた。逆に分からないなんて言われたら、それはそれで不安になるけど彼はぼそと唇を動かした。


「……ミットが、見当たらない」


どこに投げればいいのか、分かんなくなった。
らしくもない弱音を零してしまうのは、目の前にいるのが名前だからということと、精神的に苦しいから。衣擦れの音がして、彼女が息を詰まらす声が聞こえた。


「……野球部、ないんだってね」
「……ああ」
「、もう、要らない?」


名前の冷たい手が巧の腕に触れて、また煩わしい蛍光灯の光がちらつく。彼女の右手には、夢に出てきたあのボールが握られていた。
息が、とまった気がした。


「……巧、要らないの? もう、マウンドに立たないの?」


彼女の大きな瞳が、らしくもなく揺らいでいた。

――あの場所に、立ちたい、投げたい。
まだ、自分には必要なんだ。

そう言いたいのに、喉の奥が張り付いて声が出ない。上体を起こせば、ギシとスプリングが悲鳴を上げた。
言葉が出ない代わりに、そのボールごと名前を抱き締める。


「……ごめん」


名前は肩口に顔を埋めて、くぐもった声で呟いた。


「名前」


視界の隅でボールを持つ手が震えていて、巧はその手を包むように握り締めた。
俺と名前の手の隙間から、焦がれてやまなかったボールはするりと落ちていった。