人の感情や記憶というものは所詮脳の一部に留め置かれているだけのデータの山に過ぎず、それらは容易に壊れ、なくなり、果てはそんなことさえなかったことになる。健常な脳であったとしても、そういった処理能力は自然の摂理として常に働いているのだから、人が何かを忘れてしまうことは必然のことだった。けれども、忘れがたい記憶は脳に残り続け、感情が結びついた記憶は心臓に確かにその時の熱を伴って在り続けている。それも、大多数の当然のことであるといえる。
だというのに、それらの当たり前の事実は、全てに等しく与えられていたものではなかった。
――四歳までに発現すると言われていた両親の何かしらを継いだ個性は現れず、第五世代にして珍しい無個性という評価を受けた名前は、そうであるのだと信じてはなんてひどい神さまなんだと泣きじゃくっていた。すぐ近くに爆破する個性を有していた少年がいたからこそ、その明らかな違いはそのまま自身の価値だと思い込んでいた。今思えばその方が良かったのだろう。無個性である方が、幸せだった。五歳の誕生日の翌日を迎えるまでは。
――それが夢であったなら。目が醒めるたびに、祈りながら目蓋を開ける。
「名前」
見慣れた白い壁を目で伝いながら、ドアにもたれる姿を見つけた。高校のブレザーを羽織る彼は、その吊り上がった赤い双眸で彼女を映す。
息を吸う程に一瞬の間、瞬きをするような刹那。ただ言葉もないというのに、その赤が揺れては押し殺した声を聞いたような気がした。
「いつまでも寝てんじゃねえ、遅刻すんぞ」
「……っ今何時!?」
「七時三十二分」
ぬくぬくとした布団をめくりあげ、いつにない素早さで起き上がる。アラームは役目を終えたとばかりにスヌーズの画面で止まっていた。けたたましいアラーム音を無意識に止めても起きない自分と、清々しい程の呆れ顔で今もいる彼に寝起きの悪さが弾け飛んだ。
「着替えるから出てって!」
「感謝もねえブスに興味もねえわ」
ひらりと投げつけた枕を避けながら部屋を出ていった彼を見送るのは、日常茶飯事になっていた。
彼、爆豪勝己は数あるヒーロー科の中でも名だたる雄英高校に通っている。対して名前はというと偏差値もごくごく普通の高校に進学していた。小さい頃から何かと隣にいることが多かった爆豪とは家がとりわけ近いわけでもなかったのだが、何故かこうして朝は並んで登校している。いつの間にか、こんな奇妙な距離感が続いて一年は経つだろう。高校に入学したその辺りからだったかとは思うがはっきりと覚えているわけではない。彼も、大した理由など持ち合わせてはいないと思う。何か明確な気持ちを伝えられたわけでもなく、あの寝起きの布団の温度に似た関係の心地良さを、もしかしたら爆豪も感じているのかもしれない。
「まだ眠いんか」
電車に揺られながら、うとうととする顔を睨みつけるような視線に思わず苦笑いを零した。あれだけ寝ておいてと副音声が聞こえてきそうだ。
「いやあ、全然気付かないうちにベッドに入って寝てました」
「……そうかよ。あんま寝過ぎてっと豚になんぞ」
もうなってたか、と哀れみの目を向けた顔面に右拳を突き出せばぱしりと手のひらで受け止められる。余計なお世話です、と息巻けば、一拍の間をおいて柔く右拳ごと握り締められた。
――分厚い皮膚の下で、あの布団の中のような温もりを湛えた熱が流れている。まるで何度もその手のひらに触れていたような気がして、その行為に驚きながらも振り解けずにいた。
「体調は」
「へ?」
「何ともねえのかって聞いとんだ」
「え、なんもないけど……なんで、そんなこと聞くの?」
背筋に嫌な汗が流れた。爆豪の目から少しも離せずに、けれども彼ももう言葉を継げることはなく、中途半端に繋がった手だけが二人の間で電車の振動に揺れていた。
彼女、名字名前はとくに突出した特徴もない幼馴染で、平々凡々な高校に通うような所謂ところのただのモブ女だった。初めて会ったのは幼稚園の頃だったので、近所に住む無個性だった緑谷と同じくすごくもない周りの一人だった。それがどうしてだかこうして高校生となった今でも隣に居続けているのは、平々凡々な彼女だからこそ、過大も誇張もせずに"普通"に話しかけてきた奴だったから、なのかもしれない。そして、彼女の抱える秘密に最初に気付いてしまったからというのも、少なからずあるのだろう。ヒーローになりたいと考える自分自身にも、庇護欲はやはり、存在していたのだ。
――未だに、忘れられるはずもない。子供ながらにあの時の衝撃は、それ程までには大きかった。
明確に可笑しいと分かったのは彼女の五歳の誕生日の次の日だった。誕生日というから当日それなりの気遣いを持って五歳児ながらも祝ってあげたというのに。
彼女の中に、そんなことは一欠片も残っていなかったのだ。
誕生日にあった全てのことを、家族とも、幼稚園のクラスとも、――爆豪とも、ひと時を過ごしてよく笑ったあの日の出来事全てを、まるで何事もなく一日を何処かに置いてきてしまったかのように。それから、名前の忘れ癖は目につくようになっていった。とりわけ彼女が楽しげに笑っていた事が、次の日にはなかったことになっていた。当時はただ頭が悪い奴というふうに馬鹿にしていたが、小学校にも上るとその認識はそも間違いなのだと気付いてしまった。
『おまえ、どっか悪いんか』
『なんで?』
『昨日のことなのにすぐ忘れるのっておかしいだろ』
六年生の頃だったかは定かではないが、そう言って問い詰めたことがあった。名前は泣きそうに笑いながら、そういう個性なのだといった。
『めちゃくちゃ嬉しいこととか楽しいこととか、悲しいこととか、そういう時の記憶をなくしちゃうんだ。だから、覚えておけないの』
笑っていられなくなって次第にぼろぼろと落ちていく涙を見ながら、彼女がなくした記憶は、自分が持っていてやればいいのだと、そうしたらなくなったことにはならないんだと、今思えば馬鹿みたいな発想が、名前と爆豪を繋いでしまった。
彼女の代わりに見聞きしたものは覚えてやろうという気持ちに対して必然的に近づいた距離感は、徐々にそれを変容させていった。自然と視界に入る名前の姿は段々と少女然としていき、揺れるポニーテールの毛先や、夏の日差しに赤らむうなじや、冬の寒さにカサつく唇が、いつも思考の隅でちらついていた。
気づけば、幼少年だった頃の名前に向けていた哀れみに近かったと思う感情は、心臓を締め付けるものに変わってしまった。それが、どんなに苦しいものかなど、分かりきっていたというのに。
――中学三年生の冬も終わり、雄英高校の受験もひと段落ついた頃に、この燻り続けた想いは堪えることができなかった。
『…もうすぐ卒業だねえ』
校門の脇に立つ蕾をつけた桜の木を見上げながら、彼女は短かったなあと呟いた。楽しかったことも、嬉しかったことも、沢山あった日々の一体どれだけが、彼女の頭の中に残っているのだろう。――その僅かな隙間に、どれだけ自分のことは入り込んでいるのだろう。このまま高校が別れてしまうことは、ヒーローになりたい自分の夢と、彼女の記憶を記録し続けていたい願望が天秤にかけられた結果だ。爆豪自身の中で折り合いをつけたはずだというのに。寂しそうに笑う名前の顔が、どうしても離れがたい足を引き留めている。分かっている。どんなに不毛かも。分かっている。
『名前』
『どうしたの、勝己。顔が怖いよ』
自分のために他ならない。燻り持て余した感情の行方をただ押し付けてしまいたいだけだ。それがどんなに酷なことかも分かっているというのに、名前のその諦めた笑い顔を、晴らしてやりたいだけだというのに。
『好きだ』
言葉にならない彼女の声が落ちる。
『お前の傍で、お前の代わりに全部覚えててやる』
『……、無理だよ』
あの日のように、ぼろぼろと溢れていく涙が頬を伝う。その一つ一つを親指で拭ってやれば、もう一度無理だと強張った声が唇の隙間から転がった。
『…っうれ、しいこととか、全部、忘れちゃうのに……一緒にいても思い出せないのに……!』
『名前、』
『今日だって! 折角寂しいとか嬉しいとか感じないようにしようって、勝己といれるの最後だから、忘れたくないって、思って、頑張った、のに……! これじゃあ明日、全部忘れちゃうじゃんか……っ』
震えるまつげが濡れていく。拭ってもきりがない程にぼろぼろと溢れてはこぼれていく透明なそれらは、セーラーの襟に染みを作っていく。名前の震えた肩を腕の中に押し込めたところで、綯い交ぜになった感情は伝わることもなく、だというのに代わりに背負うこともできないのだ。
『明日忘れてんならまた明日も、何回だって言ってやるよ』
『……キャラじゃないくせに』
『嘘泣きかおい』
ありがとうと声だけが落ちる。最後まで、その顔は晴れることはなかった。
――結局、次の日にはそうして全てがなくなっていた。何か大事なことは、昨日の名前が明日の自分のために事実を置いていく。それがなかったということは、どうしたってそういうことだった。
だというのに、こうして毎朝隣に立ち、時間を合わせて帰りも送っていくほどには、離れることなど疾うにできなくなっていた。最初から自分自身の中に何重にも包み重ねて押し込めておけばよかったのだ。そうすれば、よかったのだ。
「……私、また、なにか忘れて、た……?」
電車に揺れながら震えるブラウンの丸い目から、顔を逸らした。
――一度流れてしまった声を塞きとめる術を知らなかった。何度も彼女に吐き出したところで、その想いを明日には連れて行ってくれないのだ。腕に抱き込めたことさえ、拒まないくせに繋ぎ止めておいてはくれないのだ。もう関わらないでほしいと泣きじゃくった建前の声をその度に噛み砕いて飲み込んで。
「……何もねえよ」
握りしめた手の温度が温かい。指の隙間から流れる熱の一つ一つが、思い通りにならない。この喉の奥で燻っている言葉は、同じ筈なのに。
「勝己…?」
今日も、昨日と同じ夢を見る。
「……授業終わったら迎えに行くから、動くんじゃねえぞ」
「なんか、すごい脅迫されてる」
ばいばいと先に降りる彼女を見送る。こうして、朝が始まる。あれからもうずっと進んでいない。日々は目まぐるしく変わっているのに、名前と爆豪の間だけは、いつまでもあの春で止まっている。
――不毛だ。彼女のような個性があれば、こんな気持ちなど疾うにどこにもなかったことになるのに。ちりちりと焦げ付いた掌が、痛かった。
またきっと、眠る名前の頭の中で、殺されるのだ。