冷たい水の張る田んぼに足を突っ込み、ずぶと沈んだ足をあげる。朝分の遅れを取り戻すべく足元を掬われないよう慎重且つ大股で進みながら、腰に提げた若緑色の苗を一つまみして泥に埋めていく。ぴょんと水面から顔を出した苗が風に揺れた。
「なんだ、この時分に田植えか? 終わるのかお前」
後ろの方で聞こえた声に振り返れば、畔道にたつ青年を見つけた。薬箱を抱え被り笠の下から覗くのは飽きる程見慣れた端正な顔立ちだった。
「歳三。そういうあんたこそ、石田散薬なんてまだ売ってんの? 諦めて農業に勤しむが吉とすすめるよ」
「言ってろ。口じゃなく手ぇ動かしやがれ」
不安定な畔に腰を下ろし、彼は重そうな薬箱を隣に置いた。商売道具がどうなろうが知ったことではないが、畔に座るのは危険ではないだろうか。そう助言しようとして頭を上げるも、彼はすでに目を閉じていたので止めておいた。あの歳三が畔から落ちて慌てふためく様を見るのもまた一興かと、内心くつくつと笑ってやった。
「あああ腰が……!」
泥まみれの素足で畔にあがればバキバキと背骨が泣いた。もう一度伸びをしてから手足を洗いに水路に向かう。途中歳三が何かしらを言ったような気がしたけれど、聞こえなかったので適当に相槌を打っておいた。
「洗いに行ったのに草履忘れちゃ意味ねえだろ」
ひょっこり後ろから顔を出した彼は水路に足を突っ込む私の目の前に草履を放り、手拭いを差し出した。
「おや、今日は機嫌がよきかな?」
茶化した風に言ってやれば、彼にはうるさいと一蹴された。
すでに陽は暮れ、雁の群れが茜色に染まっていた。
「どうしたの、いつもはさっさかいっちゃうくせに」
「あぁ? 別に、なんとなくだ」
歳三の高く結い上げた黒い髪がなびき、私は草履に足を突っ込んで歩きだす。薬箱を再び背負い、彼もあとに続いた。
「歳三さ、惚れ薬とか売ってないの」
「はあ? 誰に使うんだよんなもん。第一ねえよ」
砂利を踏む音が響く。あえて沈黙を選んだ私に、彼は早口に問い掛けた。
「好きな奴でもできたのかよ、誰だそいつ」
「いや、歳三に使おうと思って」
「は?」
一瞬歩みを詰まらせた彼は被り笠をくいとあげて私を見やる。先制したのは私のはずなのに、なんだか負けたような気がした。
「は? じゃなくてさ、もっと人間らしい反応見せようよつまんないの」
「…てめぇ、はっ倒すぞ」
力の抜けた脅し文句ほど情けないものはない。私はくすりと一笑して振り返る。それと同時に、彼の被り笠を頭に乗せられた。いきおい下げた視線の先で、二人分の伸びた影を見た。
「寝言は寝てから言え」
「ばか」
「どっちがだよ。……そういうのは俺が言うもんだろ」
ばこっと弾かれた笠の所為で再び見上げた視線の向こうで、今度は歳三が手を差し出していた。
「帰るぞ」
手を繋いで帰るなんて、誰かに見つかったら怒られそうだなんて呟けば、素っ気なく知るかと返ってきた。
「どうでしたか私の口説き文句は。薬売りさんにはぴったりでしょ?」
「だめに決まってんだろ」
唇を尖らせた私に、彼は足を止めて振り向く。がぷりと鼻の先を噛まれたかと思えば、憎たらしいほど綺麗な微笑を浮かべ、
「名前、好きだ」
なんて呟くものだから、私は被り笠を目深に被るより他になかった。
「……真っ直ぐ過ぎるよ」
「着飾んのは苦手なんだよ」
指先まで熱くなったような気がして離れたかったのに、強く手を握られるものだからどうにもできなかった。少し先で鍬を振る近藤さんの姿を見つけて、漸くするりと離れた指が愛おしくて追い掛けていれば、笠を目隠しに唇を噛まれた。
「いらねえよ、そんなもん」
くっと笑った彼に当てられて、私はその場を勢い良く走り去った。弾丸のごとくぶつかるように、近藤さんの腰に抱きつけば、後ろで呆れた笑い声が聞こえた。