ぼろぼろに踏み潰された踵が、蓋の開いた下駄箱から顔を出している。
少しだけ格好つけたくて、入学したての頃真新しいローファーも上履きも踏み潰して歩いていた。それが不恰好だと分かったのも、全然どこも背伸びなんてできてないと知ったのも割と最近の話。明るかった髪を暗くして、じゃらじゃらとつけていたアクセサリーの類はもう友達にあげてしまった。
――少しでも何かを変えれば声をかけてくれるのが、嬉しくて。
どうでもよかった世界が色を見つけて輝いていた、そんな表現が、いまきっと一番しっくりいく。
ふわりと、黒染めしたセミロングの髪が風に揺れ、ふさがりかけたピアス穴が顔を出す。
私は視界の先で見つけたその色に、満面の笑みを湛えて走りだした。
「左之せんせ!」
その大きな背中に抱きつけば、彼は「うお」と一瞬驚いて、それからいつものように困った笑顔で振り向いた。
「名字じゃねえか、」
――困らせるつもりなんてないのだけれど、眉尻を下げる表情がこれまた格好いいからつい。
先生は巻き付いた私の腕をやんわりと解いて、近所の子どもにでも話し掛けるようにぽんぽんと頭を撫でながら口を開いた。
「職員室でも有名だぞ。あんなに問題児だったお前が、今じゃすっかり静かになったもんだってな」
「ほかの先生なんてどうでもいいし、ねえもういいよね先生!」
「だから言ってんだろ、俺は教師で名字は生徒だって」
先生と一緒にいるうちに確かに募った想いは、今じゃしっかりと明確な意志を持って私を突き動かしている。
髪も黒くして手首には一つの時計を付けはじめた頃、一番最初に告白したときに言われたことは、毎日学校にきたら考えてやる、というものだった。だから毎日頑張って遅刻もせずに学校に通い、二月がすぎた頃にもう一度告白すれば今度は、学年最下位から脱すること。まあそれもなんとか学年で真ん中より後ろの位置で合格したのだけれど。
結局最終的にはさっきのように、教師と生徒という線引で断られてしまった。
「ああ、そういえばお前総司と幼なじみなんだろ?」
挙げ句の果てに、最近ではこうして沖田総司の名まであげてくるのだ。
「先生に比べたら総司なんて米粒以下寧ろ比べるほうが間違ってる」
「……そうか」
私の幼なじみの沖田総司という男は、剣道部の所謂イケメンと呼ばれるものの類で、毎日可愛らしい女生徒からの黄色い声援を浴びるような容姿をしている。だからといって私には沖田総司にたいして何の感慨もわかないのだ。
この目の前の原田先生以上に、私の気を引いて止まない異性などいるはずがない。
彼はきっぱりと断言した私から視線をそらし遠くを見やると、再び私の頭をぐしゃりと乱暴に撫でるとひらりと手を振った。
「あんまりんなこと言ってやんなよ」
――きびすを返して歩き始める背中が、遠い。
私のこの黒く染めた髪も、塞がりそうなピアス穴も、指先から消えた指輪たちも、
全部全部、なによりもあなたのためだというのに。
「……好きです、左之せんせい」
振り返らない、背中は私を笑う。
握り締めた拳がわなわなと震えはじめ、私はきつく唇を噛んだ。
「っ、なかったことにしないで、よ」
溢れそうになる視界が切なくて、それの所為で自覚しそうになる心を否定したくて。
ねえ、先生。
私のこの、行き場のない淡くて痛い気持ちの丸ごと全部を、どうか。
「……卒業しろよ、ちゃんと」
最後の条件だ。
今にも泣きそうな私にくれた嘘なのかもしれない。
先生は誰よりも優しいから、きっと。
私に笑いかけてくれるでもなく、おそらくそれは早くあきらめてくれという最後のお願いだったのかもしれない。
それなのに、私の心は馬鹿みたいに嬉々として微笑んで、頬を撫でる横髪を耳に掛けた。
「ちゃんと、卒業するから!」
――それから数週間後。
彼の薬指に静かにそっと、柔らかな陽光に反射するそれを見つけた。
相変わらず私の髪は黒く、靴の踵はぼろぼろのままで。
先生を思う気持ちばかりがあふれすぎてどうにもならなくなって、結局意味もなさずにすぎてしまっている日々。最近じゃあ擦れ違うことさえなくなりかけているけれど。
零れそうになるぜんぶを呑み込んで、私は右手の人差し指に捨て切れずにいた指輪をはめた。
唯一あの人が、似合っていると誉めてくれたそれは、少し見ないうちに錆びれてしまったようにも見えるけど。
「……っ大好きでした」
いつか本当にちゃんと、過去形にできるように。
いまだけは。あとすこしだけ。
先生を好きなままでいさせてください。