雪と抱擁

吐いた息は白く、爪先からじわりじわりと壊れていく気配がした。目の前の彼はあいも変わらず同じ眼を向けては歯噛みを繰り返している。彼と彼女の間には埋めようのないほどの隙間が広がっており、どう足掻いたところで不毛であった。
こんな世界に誰がしたというのだろう。
あの頃は、ただ煌めくばかりであった世界に漠然とした憧れがあって、それは惜しみもない程に綺麗な世界なのだろうと思い描いていた。こんな、冷たいばかりだとは知りもしなかった。


「行くな、名前…!」


浅瀬の海に似た彼の左目は、今にも燃え滾っては煤けてしまいそうな熱を孕んでいる。凍てついた爪先の感覚など疾うに手放し、彼女はパキパキと音を立てて広がっていくそれを遠目に眺めていた。


「……焦凍くんは、」


漂う冷気のせいで強張っていく口元は、笑っていた。そんな状況でも心情でもないというのに、笑うこと以外思いつかないのだ。
彼とはついぞ、分り合うことも出来ないままだったなどと思う頃には願ってもいない薄汚れた水分がつうと頬を伝って落ちていった。


「焦凍くんは、思ったこと、ない?」


膝から下が冷たさに呑まれていく。
轟の揺れる双眸が否定と受容を折り重ねながら、そうしてひき結んだ唇は、どうか震えているといい。


「こんなに誰かの為に頑張ったのに、ちょっとしたことで今までの全部がなかったことになるの。体にいっぱい出来た傷は勲章で、少しも恥ずかしいなんて思ったことなんかない、この傷の分誰かが負わなくていいものがあったんならそれでいい。そう思ってずっと頑張ってきたのに、」


そんな自己犠牲を吐いていく自己陶酔したヒーローなどもうどこにも必要ない。求められているのは屈強で剛健で無傷のヒーローだ。轟のような強個性が蔓延っていく派手なヒーローだ。
避けきれずに小さな女の子の頬を掠めた傷のような、心ない言葉に折れていくような、そんな出来損ないは、もういらない。
そうだと言うのなら、こんな輝かしい偽物の世界にいることも、そんな世界に憧れることも、そんな世界で生きている大切な人も、彼女にとってはもう、どうでもいいことなのだ。
誰一人として、粉々になった体の一部を振り返ってもくれないと言うのなら。


「ヒーローが誰かの代わりになんて世界、間違ってる。だからね焦凍くん、だから、そんなに苦しいんだよ」


青紫に染まる指先を持ち上げたところで触れられもしない果てしない距離は、どうしようもないほどに冷たい。彼が苛立ちを吐き出すように足元に作り穿った氷結を切り刻んでいく名前の風は、彼とは相性が悪かった。小さくなった氷の破片は強風の名残で上空からはらはらと落ちて、それらの光の反射がまるで、彼といつかに見たスノードームのようで。


「ーーあのままだったら、よかったのになあ」
「名前、頼むから、戻ってきてくれ」
「ーー焦凍くん、無理だよ」


名前の両足を搦めとる氷は溶けない。傷をつけないように自由な腕を凍らせようとしていく彼は、未だに昔の名前を映している。とっくに微弱になった風を吹き荒らしながら足掻いても、彼の力には到底及びもしないことは、もうずっと昔から分かりきっていた。
ついこの間にできた火傷の痕を覆うように、右腕が捕まった。


「ーー傷つけたくねえ」
「わたし、もう疲れた」
「この間まで、俺の隣にいるって、約束したじゃねえか」
「ごめんね。なんか、ヒーローの意味が分かんなくなっちゃった」
「だったら、もう頑張んな。何もしなくていい。ただ、傍に居てくれりゃあそれでいい…!」
「ヒーローがいて傷ついてく世界が、それが当たり前で、焦凍くんもいつかそうなっちゃうかもしれないのが、私はもう嫌なの……!」


もうあと少しで、こんなに広い空に落ちていけるのだ。たった一歩を踏み出せば、この錆びれて何もないビルの屋上から、世界は反転してくれるのだ。
動けない足をどうか溶かして、どうか。ここから空に墜落していきたいのだ。
寒さで震える唇は彼の名前すら紡げなくなっていて、少しずつ縮んでいく二人の距離は、漸くお互いの体温を教えてくれた。


「俺は、名前が好きだ。名前が今までずっと頑張ってきたもんも少しだけど分かってやれる。だから、名前がしんどかった分俺が、お前を、幸せにする。だから」


いくんじゃねえ。
彼の無意識の熱のせいで、纏わり付いていく氷から水滴が落ちていく。冷え切った体には熱すぎて、痛すぎて、身じろぎも出来ない身体が苦しい。
この熱さを、この冷たさを、余すところなく全て伝えきれたのなら、こんなことにはならなかったのだろうか。所詮皮膚と皮膚を隔てた彼とは、どれだけを共有したところで同じにはなれないと言うのに。このまま一人で落ちていくにはあまりに寂しい。この抱きすくめられた体のまま落ちていくには、彼を嫌いにならなければいけない。矛盾が、心臓を喰い散らかしていく。


「しょーとくん」


墜落するには重たい雲だ。吐いた息の白さが、彼の赤髪に映えた。


「……やめたっていうまで、続きは聞かねえ」


ひどく強い力で締め付けられる代わりに緩やかに溶けていく拘束は、傷だらけの足を晒していく。


「…一緒に、落ちてはいきたくない」
「……落ちんな」
「ヒーロー、やめてくれるの?」


誰かが傷ついていたら飛び出してしまうような人だと知っている。分かったと即決した声がなくてよかったと、思った心はやはり矛盾していた。


「……嘘だよ。でも嘘じゃない。これから先あとどのくらい焦凍くんが傷ついた話を聞けばいいの? 絶対死なないなんてないのに、わたし、」
「そん時は」


耳元で、躊躇する声が零れる。


「俺がもう駄目で、もうどうにもなんなくなったら……ここから、一緒に落ちてってやる」


肩口越しに見上げた空から、白い粒が降っていた。この緩やかな速度に合わせて踏み出すのなら、それはもっと雪の積もった晴れた日がいい。


「それまでは、一人で行こうとするな」


轟の右側のような白さに、右手のような冷たさに埋もれられるなら。
こんなに濁ってしまった世界でも、もう少し息をしていけるのだろうか。


「……しなないで」


彼と同じ白が積もっていく。彼女の体が白に埋もれていく。
彼の細胞が溶けて染みていくように、頬に温度だけを残して消えていった。

企画>> relief 様 執心刑 提出