鉄錆の呪い

血の臭いにはもう慣れた。どれだけ水を浴びて、こびり付いた血の塊を洗い流しても、洗い立ての着物に袖を通しても、どこからともなくそれは鼻を衝くのだ。
戦場からは幾分か離れた場所を駐屯地としてはいるのだが、風で流れてくるのか、はたまた、そういう呪いなのだろうか。どこにいても、ご飯を食べるときでも、混ざっているのだ。
――休まることなく嗅いでいるからだろうか。慣れたとは思っていたのに、ひどく疲れてしまった。井戸水でひたすら手を漱いだところで、意味もないと分かってはいたけれどやめられない。水の跳ねる音を聞きながら、どれほどの間そうしていたかはわからないが、落ちない臭いにこの言いようのない靄を覚えて、水の張った桶ごと蹴り飛ばして襤褸の屋敷を後にした。
すぐ脇の森の中を少し歩けば、開けた場所に出る。断崖のそこにはいくつもの土まんじゅうと申し訳程度の卒塔婆が立っている。名前を刻んだ板は、日に日に朽ちていっていた。
盛土の下に、骸がある者もいれば、何もない者もいる。暫くたっても帰ってこれなかったものは、認めたくはないが、やはりそういうことなのだ。帰りを信じていることができるのは、数日だけだ。それ以上は、根拠のない希望論の所為で、皆の心がつぶれていくから、形だけでもこうしておくしかないのだ。
彼らを前にして、彼女は空を仰ぎながら寝ころんだ。
空は昏い。深い深い青だ。今日の月はやけに明るく、彼女の影が地面に落ちている。
――疲れた。最近、戦は激しさを増している。おされている。このままでは、いずれ――。


「…名前か?」


喉元を逸らして後ろを見れば、月の光を反射する髪を揺らしながら近づく男がいた。


「銀時」
「……何やってんだ、こんなところで」


彼は、そう呆れるようにして笑いながら、隣に腰を下ろした。
相変わらず、夜が似合う。とびっきりの月夜が、よく似合う男だった。


「……今日は、目の前で三人だった」


目蓋を下ろすことは、叶わない。そうしてしまえば、焼き付いた苦悶の顔と共に叫び声に負けてしまう。けれど、閉じなければ、薄らと張った膜が溢れてくる。戦場で、その弱さは許されざるものだ。誰かの死を呼ぶのだ。
ひたすらに虚空を見つめているしかない双眸を、銀時の手が覆い隠した。


「……駆ければ、間に合ったのに、いけなかった……!! 足が、もうついて行かなかった、縺れて、すぐに、行けなかった……ッ」
「……お前のせいじゃねェよ。仕方なかったんだ、ここじゃ、そういうもんだ」


言い出せば、そんなことは誰にだって切りのないことではあった。誰もが似たような境遇を経験し、誰もが、救えずに見捨てていくしかなかったこともある。
――銀時にだって、あるのだろう。彼はそういう弱音は吐かないので、わからないが、これだけ長い時を戦っているのだ。これだけの仲間を、失っているのだ。


「名前」
「……銀時、もう、わた、しーー」


銀時の手が濡れていく。土くれの下に眠る仲間は、もしかしたら、笑っているかもしれない。そういう人たちだった。死んだら形を残さないでくれと言い遺していた人もいる。戦場に捨てていかないでくれと酒を飲みながら泣いた人もいた。けれど誰もが、その時はしょうがないから、せめてみんな笑ってくれよと、酔いに隠れながらそう言うのだ。
呼吸が詰まる。涙は、枯れてはくれない。
――不意に、銀時が唇に噛みついてきた。嗚咽ごと食らうように、呼吸ごと、呑み込むように。彼の舌が歯列をなぞり、名前の舌をさらい、すべてを食らったそれに、言葉も継げない程だった。吸い込む呼吸すら許さない口づけに、喘ぐしかない。目を覆っていた銀時の手が離れていったとき、彼の赤が目に飛び込んできた。


「……っん、ふ、あ」


名前の唇を柔く噛みながら離れていった彼の顎を、糸が伝う。手の甲で乱雑に拭い取った銀時は、うまく息も吸えない彼女を抱き上げた。


「……もう、言うな」


彼の大きく傷だらけの手が、背中を握る。あやすような優しさとは程遠い、掻き抱くというにふさわしい力だ。


「ぎ、んとき」


恐らく、彼も分かっている。だからこそ、言葉にすることを恐れている。こうして誰かを塞ぐようにして求めてしまうほどには、欠け過ぎたどこかを埋めたくて仕方がないのだ。
心臓の音が響く。着物越しの体温は、ひどく安堵した。


「…し、なない、で……」
「ああ」
「明日も、がんばるから。明後日も、守って、みせるから」
「……ああ」


この戦は、もうすぐ終わる。そんな感傷を、皆が抱いている。それが明日か、明後日か、半月後かは分からない。仲間の疲弊も、摩耗も、今が最大だった。
背中に回る両腕が震えているのには気づかないふりをした。銀時でさえも、明日を恐れることがあるのだと、少し笑えた。


「……名前」


視界の端で、月の色が揺れる。ふわふわと柔らかに、風に遊ばれていた。


「生きろよ」
「…うん」
「そんで、一緒に帰んぞ」
「っう、ん…」


約束だ。
この戦場を駆り、そしてまたこの場所で逢うための、錘だ。明日にすがるための、糸だ。
――疲れてしまったのだ。守ることも、傷つけることも、傷つくことも、見送ることも、悲しむことも、苦しむことも、夢見ることも。それらすべてに疲れてしまって、けれど、誰かと、銀時と、まだ生きていたい。まだ、ともにいたいのだ。
肩口に額を埋めれば、彼からも、同じ血の臭いがした。