お酒には強い方だと自負していた。こんな後悔から始まるくらいなのだから、言いたいことはやはり酒に酔ってしでかしたという過去の話だ。
テーブルの上に散らかった空き缶に、かろうじて中身をしまいながらも開けっぱなしのチーズ鱈。チョコレートの包紙に描かれたにこっりとしたマークが、今はこの上なく腹立たしかった。
――雄英高校を卒業したあと、一人医療系の大学に進み、無事卒業して就職活動も終えたのが数ヶ月前。大概が皆、そのままヒーロー事務所に就職を進めていたので、これで晴れて全員が社会人となったお祝いを口実に、久方ぶりに高校の同級生たちと居酒屋で集まっていた。麗日や芦戸、耳郎などの女子メンバーは言わずもがな、驚くことに爆豪が切島の隣にしっかりと座っていたのだ。なんでも、仕事先が同じだったようで、そのまま引き連れてきたそうだ。
こういう同期会がいままでなかったわけではないのだが、基本的に爆豪はいつも不参加だった。緑谷や轟と合わせて今をときめくトップヒーローらしく私生活まで忙しいようだが、麗日曰く、そういうことだけではないようだと笑っていたのは記憶に新しい。
名前はといえば、今回のひとつ前に行われた同期会は国家試験も近かったことから不参加を決めていたし、なんならその前も、そのもうひとつ前も、というか卒業をしてから開催された会に参加した数は片手で足りる。それは純粋に、社会人と学生という単純で溝の深い問題があったからだ。
彼らはそんなもの全く気になどしないだろうが、やはり、会話は社会人然としていてのめり込むことなどできず、三年も苦楽を共にした仲だというのに疎外感が拭いきれなかったのだ。
だからこそこうして、晴れて何も気にすることなく酒を酌み交わせることが嬉しくて、上鳴に合わせてジョッキを頼んでは飲み干しまた頼んで飲み干しを繰り返していた。
その結果が、まさにこれである。
濃いブラウンのソファの上で目を覚ました。ソファなのになんて心地のいいことかと逃避した思考を引き戻し、俗に言う二日酔いらしい頭痛で起きることさえ億劫ではあったが、状況を把握するためにはまず起きることから始めなければならない。
背もたれに手をかけて身を起こせば、下着を身につけていることに気づいた。いや、それは勿論当たり前ではあるのだが、下着がまず目に入るということは、その上に来ていたトップスは取り払われているということだ。キャミソールの細い肩紐がずり落ちる。昨日着ていた服も最早思い出せないが、パンツ一枚で出歩くことはしていまい。腹にかかっていたタオルケットを持ち上げれば、そこにはかろうじてパンツを履いているのみだった。
――記憶がないこと自体が初めてだった。そこまで酒にのまれたことはなく、いつも見覚えるのある部屋でしっかり目を覚ましていたというのに。
オフホワイトのカーペット、ガラステーブル、その上に散らばるニコ顔のチョコレート、大きなテレビ、そこに映る自分の姿。
と、その後ろに立つ人影。
「――ようやく目ェ覚ましやがったな」
テレビの画面から目を離し、ゆっくりと振り向こうとした刹那、上から柔らかい何かが降ってきた。
「言っとくけどなァ、お前が勝手に上がり込んできて酒こぼしやがったから洗ってやっただけだからな」
「――たいへん、もうしわけございませんでした…」
白のブラウスを被りながら、ソファの背もたれに額を押し当てて謝罪をすれば服を着ろともっともな意見を賜った。
彼が背を向けてキッチンに移動したので、その隙にギャザーのスカートを履けば、ふんわりと柔軟剤の香りがした。甘すぎず主張もない、柔らかな石鹸の香りに似ている。爆豪でもこんな匂いをまとわせているのかと考えたところで、ストーカーのような思考に頭を振って打ち消した。
テーブルの上のものを片付けながらキッチンへと持っていけば、水の入ったコップを差し出された。
「仕事もねェんだろ、今日」
「あ、うん、ありがとう……」
「食ったらとっとと帰れ」
見上げた爆豪の顔は、卒業する時と少しも変わっていない。いや、変わってはいるのだけれど、鋭い瞳がこちらを見るたびにそらされていくのも、ラップで包んだサンドイッチの乗った皿を手渡してくる優しさも。
――変わらないから、驚きもしなかった。
「……とまと、入ってないね」
彼は曖昧な母音をこぼしてから、冷蔵庫になかったと言った。
――サンドイッチのトマトって、食べにくいから苦手なんだよねと、あの頃の自分の言葉を思い出して、笑ってしまった。
「……泣くな」
爆豪の手作りのお弁当が好きだった。高校生の頃は、もっと自分も輝いていて、何者にだってなれるような気がしていた。爆豪のお弁当をありがとうと言いながらも食べていて、その隣に切島がいて。自分で作らないのかと聞かれた言葉に、人には向き不向きがあるなんてそれらしく振舞って。
「……えいじろ、結婚、するんだって、知ってたの?」
黒い四角のお皿の上に、ぽたりぽたりと落ちていく。
――どうして、この記憶はなくなってくれなかったんだろう。お酒というのは、本当に都合のいいツールだ。ぐちゃぐちゃになってしまっても良かった彼の言葉ははっきりと覚えていて、爆豪が一生懸命付き合ってくれた愚痴の返答の一つも覚えてなどいない。
爆豪は冷蔵庫から取り出したやわいそれを、何も言わずに目元に押し当てた。あんまりにも冷たいから、押し込めたかった涙がまたぼろぼろと溢れ出して止まらなかった。
「知ってた」
視界は彼のせいで一面真っ黒だ。
だというのに、昨日のあの鮮烈な赤が、目に焼き付いてしまっていて離れてくれない。高校生の頃からずっと、あの赤が、離れていってはくれないのだ。
「…ばくごーのごはんは、いっつもおいしかった」
「当たり前だろォが」
おいしくて、おいしくて、爆豪のご飯を食べていないと、切島の前ではどんな甘いものでも味がしないのだ。爆豪の気持ちを知っていながら、爆豪の想いを食べ散らかしてしまいながら、切島の前に立っていたのだ。
するりと、爆豪の手が離れていく。彼はリビングに戻ってソファに座り込むと、場違いな程明るいお天気キャスターの声が響いた。
今日は一日お洗濯日和ですね、と朗らかな彼女の声に、この眼球も干してしまえば、もう一生、涙は出てこないだろうかなんて馬鹿げたことを考えていた。
「――」
素足がフローリングを歩く音は、彼にはうるさいかも知れない。
そっとお皿とコップをテーブルの上に置いて、両手を合わせてからサンドイッチにかぶりついた。
「鋭児郎、はやく離婚しないかな」
「黙って食っとけや」
頬杖をつく彼の両目が送る視線に気づかないふりをして、サンドイッチの最後のひとかけらまで飲み込んだ。