夏の跡は残らない

頬を撫でる風は湿っぽく、滲むように掻く汗はとめどない。白い半袖のシャツから伸びる腕をジリジリと焦がす日差しに嫌気がさして歩道脇の日陰に逃げたところで、風もない空気に変わりはなかった。両腕に下げるビニール袋から落ちる水滴が道端に跡を残していて、昔に聞いた童話を思い出した。


「すごい、迷子にならなかった」


振り返れば、黒い日傘をさした幼馴染みが立っていた。彼女は右手にあった袋を勝手にさらうと、心操の空いた右手に日傘を押し付ける。彼女なりの気遣いというか何というか、言葉をいつもどこかに置いてきてしまうのはもはや癖のようで、十四、五年程にもなる日々を重ねれば慣れるものだ。


「名前。…後ろにずっといたの?」
「その言い方はなんかいや。向こうの二個前くらいの横断歩道のあたりから、なんか水滴の跡があるなあって思って辿ったら人使がいたの」
「なんか中身こぼれてんのかな」


名前の手にある袋にバラエティパックのアイスと冷凍食品と水物は入っていて、心操の左手には豆腐パックや白滝なんかがごろごろと入れ方もたいして考えずに入ってはいるが、どれも溢れている様子はない。ただ、アイスは中で溶けてはいるかもしれないが。
彼女はよくアイスなんか買ったねと袋を握り直して見上げながらそう言った。今日はこの後に彼女が家に来ることを知っていたので、つまりはそういうことだ。どうせ家に入るなり開口一番にアイスとでも言いそうな気温だったので、冷凍庫に何もない様を思い浮かべて手を伸ばしてしまったのだ。スーパーから家まで心操の早足で十分の道くらいは形状を保つだろうと思っていたのだ。


「ちなみに早歩きしないとアイスは溶けるから」
「え! もう汗かきたくないんだけど!」
「出会したタイミングが悪い。…っていうか、何で後ろから?」


名前の家は心操の家の二軒隣で、スーパーとは反対側だ。前方で見合わせることがあっても後ろから追いつかれるはずがない。
日傘を彼女の方に傾けながら横目見れば、言葉を濁して笑っていた。心操の母からスーパーに行かせたという話を聞いたのだろうことまでは想像がつく。そうだとしても携帯を忘れていたので待ち合わせるには不確かで、会えない確率の方が高いような、しかもただでさえこの茹だるような暑さの中で名前が無駄な出歩きをしたがるはずがない。


「…それはさあ、ほら、ねえ」


流石に何の言葉も伝わって来ない。
名前はここぞとばかりに、見えてきた心操の家に向かって駆け出した。少し高いヒールのサンダルでよくあんなに走れることだ。ネイビーのワンピースの裾が翻る。右手に提げた袋から、ぱたぱたと水滴が落ちていった。

そうして結局かきたくないといった汗を浮かべながら、名前は冷房の効いた心操の部屋のビーズクッションに身を沈めて棒アイスを黙々と食べていた。夏休みの課題をやるはずだったのにも関わらず彼女は手ぶらで、この感じでは日が沈んで日差しが落ち着くまでは家から一歩も出ないだろう。本当に何をしにきたのだろう。ただお喋りをして時間を過ごすには彼女の姿は眩し過ぎて、無意識にテーブルを挟んで距離をとってしまいたくなる。
ソーダ味のそれを前歯で噛み砕けば鈍い冷たさが染みて痛い。しゃりと口の中で溶けていく氷の食感に、じわりじわりと下がっていく熱を感じながら平常心を保っていた。相変わらず、クッションに背をもたれて膝を抱える名前は自分が着ているワンピースの丈を考慮してくれない。心操の背後にあるベッドに頭を乗せながら、冷たい痛みを頬張った。


「…来週にはさ、もういないじゃん、ここに」


唐突に言葉を吐き出した名前は最後の大きな一口を口に詰め込んで顔を歪ませた。想像以上だったのか冷たさに声も出ないらしい。もごもごとさせて飲み込んだ名前の手から棒を受け取ってゴミ箱に投げ入れる。彼女は冷た過ぎと青くなった舌先を僅かに出して息を吐いた。
――その呼吸に触れたら、凍れるほどには冷たいだろうか。夏が終わらないように、留めるように凍らせてくれるだろうか。いや、嘘だ。
名前は息を飲み込んで尚更小さくなって膝を抱えた。目のやり場がなくなるからやめてほしい。ただその一言を言えば済む話なのだが、ずっと言えなかったのは何だか自分が見ないようにと反対に意識しているような気がしていたのだ。彼女はこれからもそんなことなど露知らず、目の前に誰がいようと膝を抱えて座るのだろうなと思うと湧き上がるものには気付いている。


「…全寮制になるからね」


夏休みに入ったすぐに、心操が通う雄英高校ヒーロー科は敵の襲撃を受けた。十数名の重軽傷者に一人の行方不明者を出したその事件はオールマイトの引退で幕を閉じることとなり、今後の襲撃に対して生徒の安全面を考慮して全寮制という選択を迫られることになったのだ。担任がその話をしにきたのはまだ記憶に新しく、心操の両親も心配はしていたが彼の気持ちが揺らぎようもないことを知っていたので何も問題はなかった。家族としては、間違いではない。
名前は雄英高校には通っていない。県内の高校に通っている至って普通の女子高生で、ヒーローだ敵だと、そんな世界とは無縁の場所で生きている。心操が寮に入れば、休みのたびに入り浸っていたこの部屋に彼女が訪ねることはなくなる。彼女の白とブラウンと少しの薄いピンクに彩られた部屋に行くこともない。
心操は、紛れもなくヒーローになりたかったのだ。


「……土日に帰って来るのも、できる」
「それは、分かってるから、そういう言い方するんでしょ」


ヒーロー科に編入したい話も知っている。名前はこの個性とどう向き合っていけばいいのかを、ずっと隣で聞いていてくれていた。どうありたいのかを、一緒に悩んでくれていた。雄英に入るために積み重ねた勉学の努力を知っていて、ヒーロー科に入るために増えていった傷を知っている。それらを全て考えた上で、そんな余裕などどこにもないことなど分かりきっていた。


「人使は、」


そう紡いだ名前が宙に浮く。名前は何度も瞬きを繰り返して、ようやく膝を伸ばした。彼女の頭の辺りを漂っていた視線をそのブラウンの瞳に移せば、弱くはない双眸がこちらを射抜いていた。


「……ヒーローになるんだよ」
「――まだ、編入できるか分かんないけど」
「そうじゃなくて、」


もたれていたクッションから身を起こして、膝をついてテーブルに手を置いた。日に焼けてもなおまだ白い腕が、そこにある。手を伸ばせば届かない距離ではないけれど、ベッドに預けた背中はそこから離れてはくれない。


「絶対、誰も傷つかなくて済む優しいヒーローになるの」


ふるふると瞳の縁が波紋のように揺れていて、それでも目を逸らすこともできずに奇妙に歪な笑い顔を浮かべるほかなかった。


「私は、そんな背中をずっと追いかけてたいの」


言い切った彼女の言葉は人よりも選び方が不器用で、彼女の心象を理解するにはあと何が足りないだろう。


「――名前さ、」


残り二年と半年もある高校生活で、お互いの部屋で名前と過ごす時間は両手両足で足りるほどになるのかもしれない。それでも、彼女のあの柔らかな部屋に入り浸っていたい。この部屋のあのビーズクッションを占拠するのは彼女がいい。


「膝抱えた時に毎回見えそうになるからやめてほしい」
「んん!?」
「あと俺は追いかけられたくはない」


テーブルから両手を浮かせて膝立ちになったまま、名前はもうすぐ生温い透明なものを目の縁から溢してしまいそうな顔をして口を噤んだ。心操はゆっくりと上体を起こして、記憶よりは夏らしく少しばかり焼けた彼女の頬を両手で挟み込んだ。


「俺はちゃんと立派なヒーローになって、そんで隣にいるのは名前がいい」


あの童話の終わりが何だったかは知らない。夏が終わるより前にこの部屋は片付いている。
彼女のはらはらと落ちた水滴も、ビニール袋を伝う水滴も、そんなものの跡はどこにもなくなってしまうだろうけれど。ただ跡を辿ってきた彼女の小さな姿が、後ろに連なるでもなく前を駆けていくでもなく、ただ同じ歩幅で隣に並んでいるほうがずっといい。
それがいいと、今年最高気温の暑さにふやけた顔で彼女は笑った。

企画>> remedy 様 きみが熱帯の中心 提出