名前しか知らなかった

「かっこいいからじゃない?」


そう笑いもせずに至って真面目そうな顔をして、彼女は言った。
――名字名前というその人は中学二年と三年、高校二年と同じクラスで、席が近ければ話す程度の距離感のただのクラスメイトという奴だった。彼女も同じバレー部ではあったけれど秀でて上手いわけではなく、高校でも相変わらずベンチを温めている選手だった。
二週間前に三年から主将の座を譲り受け、意気揚々としていたつい昨日に四ヶ月付き合っていた彼女と別れた理由をそんな彼女に聞いたのは、単純に授業終わりに後ろを向いた及川と目があったからだ。それ以外の理由などなく、強いてあげるのであれば今まで及川の周囲にいた女子生徒の誰よりも、良くも悪くも平凡と評するに値する彼女の意見を聞きたかったのかもしれない。
昼食の弁当袋を掴みながらそれじゃあと席を立った名字は、友人に呼ばれてすぐにいなくなってしまった。


「――岩ちゃん、かっこいいとフラれる原因になるの?」
「知るか」


彼女の斜め後ろの席にいた幼馴染みでチームメイトの岩泉に聞いたところで、予想通りの言葉が返ってきた。

結局、その日は後ろに本人がいるにもかかわらずその真意を聞くことができずに部活の時間になった。
青城はそれなりに偏差値も高いが、勉強には置いて行かれていない。全国にはまだ一歩及ばずの戦績ではあるが、及川のいるこのチームはどこよりも強いと自負している。そして何より、顔がいい。大抵はこれらをまとめてかっこいいと表現しているようだが、これらのどこにフラれる原因があるというのだろう。

まったくもって混線極まる思考に、三日が経ってようやく振り向いた先で彼女がぼうっと座っていた。


「ねえ名字さ、この間言ってたのってどういう意味だったの?」
「この間…あ、フラれた原因の話?」


手持ち無沙汰に机の上の消しゴムのカバーを付けたり外したりを繰り返す名字は、視線を右斜め上で固定させて少し考えると、やはり笑うでもなく言い切った。


「及川君は、うーんと、多分周りの女の子が求めている言葉を、求めている顔と仕草で返せるじゃん」
「まあ俺の顔がいいのは知ってるからね」
「そこはなんでもいいんだけど」


ぴしゃりと突っぱねた彼女は消しゴムで遊ぶのをやめたようで、背中を深くもたれて足を浮かせていた。


「要はさ、アイドルと同じなんだよ。顔もいい頭もいい背も高い、ついでにバレーも上手っていうカッコいい人をみんな求めてて、彼氏になっても崩れずにこういうことしてくれるんだろうなって思っちゃうんじゃない?」
「うんうん、俺は女の子の要望全部にできるだけ応えようと思ってるからね」


恐らくまだ純粋に褒められているのだろう状況に悪い気はしない。及川は彼女の机に肘をつきながら、疎らに空いていた席が徐々に埋まり始めているのを視界に入れる。彼女も時折及川の背中越しに時計を確認していた。


「でも、本当はバレーしてる及川君は結構泥臭いよね。試合は爽やかなんだろうけど、バレー一筋で努力の人っていうのが、試合の時の及川君のイメージと違くて、彼女の思う涼しい顔したかっこいい及川君じゃなくなっちゃうんじゃない?」
「なにそれ」


試合だろうと練習だろうと、バレーをしているならばそこに違いなど微塵も感じたことはない。勿論試合特有の緊張感はあるがそうだからといって仲間にかける言葉も自分に対する暗示も大きな差異はないはずだ。基本的に歴代の彼女は練習風景も公式試合も見にきてくれるような子達ではあったので、そんなようなことを言われたことはあっただろうかとなけなしの記憶を探ってみる。うーんと考えていれば、彼女は薄らと笑っていた。


「――及川君が追い詰められながらバレーしてるの知ってる身からすれば、外部で試合してる時が爽やかすぎて気持ち悪いけど」
「なんか俺褒められてる? 貶されてる? っていうかそんな追い詰められてないけど」
「なら、よかった」


――平凡で、特に突出した何かもなくただ同じ空間にいただけの人だった。
よかったと笑う顔はひたすらに穏やかで、それでいてどこか泣いてしまいそうな気がして、言葉を継ごうと口を開いた刹那にチャイムが鳴った。数学の担任がいきおい開けたドアに名字に肩を押され、仕方がなく前を向き直す。
頭の中で、中学の頃の彼女の姿を追いかけていた。



***

中学三年に進級したと同時に、新一年生が入部してきた。そこにいた天才にじわじわと背後にまで詰め寄られていた頃には、目の前いるはるか高みの牛若との間で逃げ場を絶たれていた。もがくようにバレーに明け暮れた。
どれだけの努力を尽くしても、牛若には勝てず天才が忍び寄ってくる。腹の奥に積もりに積もった鉛が重たく、跳ねる身体が重い日々。オーバーワークだと知ってはいた。だからといって、この吐き出せない鉛と向き合うにはバレーを続けていくほかなかったのだ。


「…重そう」


水道で頭から水を被っていれば、背後から唐突にそんな声が上がった。振り向くとそこにはクラスメイトがいて、そういえば彼女もバレー部だったなと思い出した。それくらいには、なんの関わりもない相手だった。
だというのに、彼女はスクイズを片手に握り締めて顔を僅かばかり歪ませてそう言ったのだ。


「…なにが?」
「すごく、重そうだなって。ごめん、私なんかが」


彼女は小走り気味に走り去って行った。
あれ以上会話を続けていれば、何がわかるんだと冷めた言葉が口をついて出てしまいそうだった。
髪の先から垂れる水滴をぼうと眺めながら、ああ彼女を傷つけることはなくてよかったなと、ぼんやりと思った。



***

微積分の過去問を開いたページが風にめくれる。
そうだ、あの時の彼女は名字だった。
それからしばらくもないうちにとうとう腹の奥底から溢れ出したものを岩泉に叱られたのだ。あの日から随分と身体は軽くなっていた。時折感じる重みはあれど、一人ではないから何ともなかった。
あの岩泉の頭突きが衝撃的すぎて、今の今まですっかり忘れていた。いや、彼女もあれ以来クラスメイトとして当たり障りなく接してきていたので、思い出すこともなかったのだ。
授業終わりを告げるチャイムと同時に、教室の空気は一気に開放感に満ちていた。昼食で賑わう環境音に、意を決して後ろを向くと名字はまだ数学と睨み合っていた。


「ねえ」
「ちょっと待って、ここだけ、あとここ解いたら終わりなの」


ノートにシャーペンを走らせて、正しい解法に近づいていく焦燥で文字が乱れている。数字の羅列を目で追いながら、彼女が終わるのを眺めていれば数分としないうちに頭が上がった。


「――やっと解けたぁ」
「うん、すごい遠回りな解き方してるよ」
「え、どこ」


再びノートに張り付いてしまいそうだった名字の前からそれを取り上げて、立ち上がる。目を瞬かせて小首を傾げる彼女の顔に、思わず笑った。


「お昼付き合ってくれたら教えてあげる」
「――……はい?」


思うところが多々あるのか百面相を始めた名字は、熟考した後渋々といった様子で腰を上げた。いつものお弁当を手に提げて、及川の後ろをついて歩く姿が家鴨のようで、また笑えばじとりとした目を返された。
適当な空き教室の窓際の席に腰をかける。机の上に広げたノートは、勿論ただの口実だ。


「…さっき、思い出したんだけどさ」


及川は昼用の牛乳パンを齧りながら、向かい合って座る名字の目を見た。


「今もまだ重そうに見える?」
「!」


お弁当の蓋を開けながら目を見開いた名字は、手元からそれを取りこぼしそうになって下を向いた。
少しの沈黙が降り落ちる。彼女は箸を持ち直して、たしかに、笑った。
くしゃりと目元を緩めて笑う人だったのだと、初めて知った。


「――見えないよ?」
「だよねぇ」


口の中で広がる仄かな甘みに頬を膨らませる。彼女はまた表情に乏しい顔をしてご飯を口に運び始めた。
――この顔しか知らなかったから、名字は周りの女の子とは違う子だと思っていたのかもしれない。


「名字て、よく見てんだね。俺のこと」


彼女はばっと顔を上げて、それから一際嫌そうな顔をした。――本当に、心外だとでも言いたそうだ。


「やめてそういうの」
「えー、違うの?」


好意が見え隠れしていたような気もしたのだが、気のせいだったのだろうか。
すっかりご機嫌斜めといった雰囲気を醸す名字に、お詫びに今度何か買ってあげるよと提案すれば、新作のコンビニスイーツで手を打とうと返ってきた。
交わす言葉が重なるほどに、彼女のアイロンがけの終わったシャツのような硬さがなくなっていく。忘れ去っていた数学の話をしながら食べ進めていくと、咀嚼の遅い彼女の弁当がようやく空になった。


「でも、まあ、うん」


思い出したかのようにふいに曖昧な言葉を吐きながら、弁当を包む。ノートをさらって立ち上がる名字は、少し天井を仰いだあと、にしと悪戯っぽく笑った。


「及川君は前からかっこよくて、バレーの人だよね」


先に教室に戻ってるねと背を向ける。
――名字名前という人は、どうやらただのクラスメイトではないらしい。
今にも笑い出してしまいそうな心持ちをパンの袋と一緒に括って投げれば、ぽすんとゴミ箱に収まった。