携帯のアラームはしばらく鳴っていない。夜のうちに設定をオンにしておくのに、目が覚める頃には消えている。彼が数年ぶりに烏野高校に通うようになってから、もうずっとだ。ずっと、目が覚めるたびに縒れたシーツを見ている。
薄い夜を被る空に、紫煙がたなびく。東からぼんやりと、それでいて目も冴えるような鮮烈さを孕んだ赤が馴染み始めている。
彼は軽トラックのバンパーに身をもたれさせながら、移ろう様を見上げていた。
「繋心」
じりじりと炭化していく煙草を唇に挟ませて、彼は小器用に「名前」と呟いた。
柔らかくはない眦が細められ、煙草をポケットから取り出した携帯灰皿に押し潰す。太い白の筋が手元から数本伸びて、消えた。
「まただ」
「いらねーって言ってるだろ。そんな広くもねえんだ」
「いやだっていつも言ってる」
彼、烏飼はヘアバンドで留めた髪を掻き毟り、隣に並ぶ名前の頭を二度ほどぽんぽんと叩いて手を置いた。寝起きの簡素にまとめた黒い髪を梳くように撫でたあと、ぎこちなく手を離してスウェットのポケットに手を突っ込む。
「…いっつも起こしてくれない」
離れていった指先を追うように下を向けば、二人の隙間を埋めるように彼は名前の肩に身体を寄せた。暑いよといえば、まだ六月だと端的な言葉で返ってくる。
――こういう時ばかり、言葉を探すように黙りしてしまうのは狡いと思うのだ。どんな言葉も遮ることができなくなってしまう。烏飼の顔を見上げれば、きっと罰が悪そうに上を向いているに違いないのだろう。
ふんわりと香る土の匂いが、鼻の奥でつんとした。指先を辿っていたところでポケットから出てくる素振りもなく、諦めて視線を持ち上げれば、土の上に広がる緑の群れがその輪郭を染め始めていた。
彼と付き合うようになってから、こんなふうに日が昇っていくのを静かに見るようになった。
まだ微温さの残るシーツを手繰り寄せて、誰もいないことを知る朝はいつまで経っても慣れそうにない。彼は元々朝は早起きだったので、ひっそりと起きてはいなくなっている。寝る前に明日こそはと意気込んで、しかしいなくなる音もないので温かさがなくなって初めて目を覚ますのだ。もうすぐ夏だというのに、ベッドの中は冷えている。
身支度をして追いかけても彼は仕事終わりの一服で満たしていて、そのまますぐに朝ごはんを詰め込んで出ていってしまうのだ。
「気持ちよさそーに寝てるやつ起こすのも悪いだろ」
「起きたらいないのやだって言ってる」
「…それはまあ、でもお前起きる必要ないし」
寄りかかるのをやめてようやくポケットから出てきた手はうなじに置かれ、中途半端に期待した左手が落ちる。隙間は一向に埋まらない。もうすぐ、家に帰らなければならない時間に差し迫っていた。
役目を思い出したアラームが唐突に騒ぎ出す。身に覚えのない時間に設定されたアラームの犯人など、分かりきっている。
彼は言い淀んだ後、帰るかと背中を向けた。
ずっと、胸が
放課後の練習も終わり、家に帰ってきたのは九時も近かった。いつもよりは幾分か早かったのは、烏飼なりに今朝のことを引きずっているのかもしれない。バレーのことであれば的確な言葉を吐けるのに、二人のことになるとその前頭野は破滅的になるらしい。
腹が減ったとキッチンに立つ名前の背後に立って、暫くあーだのなんだのとうめき声を僅かに漏らしながら、それでもやはり明確な言語を繕うのをやめて頭の上に顎を乗せた。申し訳程度に腹に回った手は浮いている。ここにも、まだ隙間があった。
「明日も早い?」
「おー」
気の抜けた声は何かしらに思考回路を奪われている証拠で、仕返しに茶碗にこれでもかというほど米を押し込めば呆れ笑いを溢された。
こうして一日が終わってしまう。また明日の朝は静かな携帯に置いていかれて、一つ分の体温ばかり残される。寝る前まではきちんと二つ分があるというのに。
薄い布団を腹までかけて、やはり未だに言葉を探している烏飼の胸に収まって目を瞑る。ベッドの上ばかりはいつもの浮いた隙間は消えてくれるけれど、これでもまだ遠いと思う。
「なァ」
寝る前の低く掠れた声が耳元で弾ける。返事の代わりに額を埋めた。
「俺がやってることはさ、言うなればボランティアみたいなもんだろ。金が出るわけでもねぇし、好きでやってることだ」
髪を梳いていく手つきは柔らかい。
心臓の音はゆったりとしていて、彼の身体の中からも声が反響しているような気がした。
「お前朝弱ぇし、そういうのに付き合わせるのは嫌なんだよ」
「あと何回言ったら分かってくれるの」
何回言っても、とあやすような声音が背中を撫でる。
「次やったらもう私実家帰る」
「…それは困る」
「やだ」
「俺も嫌だ」
平行線を辿る応酬に、どちらともなく吐息が漏れた。呆れではなく、相手に伝えるべく言葉が互いに宙に浮いていたのだ。
――この隙間を、彼はどう思っているのだろう。
めくれたシャツと肌の間に手をやれば、冷たいと非難の声が降ってくる。背骨の辺りを一つずつ確かめるように撫で下せば強く抱き竦められた。
例えば、こうして肌が触れ合っていれば隙間は埋まるだろうか。彼の底知れない熱量を帯びたそれが腹の奥で蠢くたびに、こうして漸く隙間はなくなるのだと思ってはいたけれど、おそらくそういうことではなかったのだ。
胸が空く。同じ空隙を、分け合いたかっただけなのだ。
「…お願い、繋心」
一人にしないで。
朝になれば消えてしまう声に、烏飼はもう何も言わなかった。
いくつかの心音を喰みながら、微睡んでいく夢の中で朝焼けを見た。彼の派手な髪色が柔らかな赤に染まりながら、あの時浮いた左手が指の間まで絡み合った夢。名前と呼ぶ声は半透明で、聞こえないよと笑う。指先から滑り落ちていく熱。白んでいく景色。聞こえない声。
「――」
何かが頬を撫でた。次いで焼けた臭いが鼻をつく。
薄らと目蓋を押し上げて、白いシーツの波に埋もれる姿がないことに息を詰めた。
「――泣くなよ」
カーテンが揺れて、開け放たれた窓の先で彼は眉尻を下げて笑っていた。ベランダの手摺りに肘をかけて、まだ紫がかる空に向かって白煙を燻らせる。
「…おはよう、繋心」
窓枠の隅に置かれていた灰皿に煙草を押し潰して、サンダルを放るように脱ぎ捨てた。後ろ手に窓を閉めると、ベッドの上で手をついたままの名前の頭を撫でる。
「おはよ」
眠りにつく前に見た同じシャツを握りしめる。烏養の腹に顔を埋めて息を吸えば、朝の匂いがした。
「あー…」
床にしゃがみ込んで彼は名前を見上げると、一瞬だけ唇をさらって困ったように笑った。
「俺が、行きたくなくなるんだよ」
置いてくみてェで寂しいだろ。
寂しい。彼も、同じ空隙を抱えていたのだろうか。埋まらない皮膚を隔てた隙間に、もどかしさを覚えていたのだろうか。
「わたしも、さみしい」
彼の肩口に額を埋めるとそうだよなと、ごめんなが落ちる。
「でも、朝、おはよって、行ってくるって、返ってくるだけで、いい」
声も姿も熱も残さずに消えていく朝が嫌いだった。
分かったからもう泣くなよ、なんて子供のように背中を撫でる彼が、冷たくはない朝を引き連れてきた。