視界はいつも不鮮明だ。凹レンズの曲面が矯正した世界ははっきりとしたまやかしで、縁取られた境界を目で追うたびに落胆する。
二学期に入ってから隣の席になった眼鏡をした長身の彼は、そんな世界をどんなふうに見ているのだろうなと思っていた。もしかしたら、名前よりは一等綺麗な世界を見ているのではないかと思うほどには彼の瞳はひどく真っ直ぐに前だけを見ている。そんなふうに彼を見ているこの双眸でさえ、本当に正しいかなんて分からないけれど。
ただ、世界を背景に浮いている彼を成す境界だけは、もしかしたらこの先も変わらないのかもしれないと思っていた。願っていた、に近いのかもしれない。なにせ、この薄いレンズを隔てた世界はまやかしなのだ。
十月三十日。月曜日の空気は乾いていて、冷たい風が枯葉を撒き散らしていた。先週の水曜日からバレーの宮城県代表決定戦なるもので公休をしていた隣の席は、今日はカバンを引っ提げて埋まっている。
――ヘッドフォンを耳に当てて携帯の小さな画面で何かを見ている彼の瞳に、ああ、矢張りそうなのだと突きつけられた。
「…月島くん、全国おめでとう」
机に腕を乗せて彼を見上げる。同じ座面に座っているというのに、目の高さのちぐはぐさがおかしかった。
彼はよく聞こえなかったのか、名前側のヘッドフォンを浮かせながら横目で「何?」と一言だけこぼした。
「んー、おめでとって。全国」
「ああ、ありがとう」
彼はそれだけを言うと、ふいと視線を画面に戻した。なんとなく視界に入ってしまったその画面にはバレーの試合が映っていて、もしかしたら全国行きの切符を手にした金曜の試合なのかもしれない。
――どちらがまやかしなんだろうなあと、見上げてしまった視線に、彼は眉根を寄せながらもう一度何か用、と呟いた。全然、と笑えば、訝しげな表情をした後、何かを言いかけてやめた。
そのあと始まったホームルームによりこの言葉のない視線の応酬は終えた。その横顔は、先週の彼と少しも変わりはなかった。
放課後になると赤いカバンを担いで教室を出ていく後ろ姿を眺めながら、部活に行く準備をする。彼らが使っている体育館とは別の場所で勤しんでいるバドミントンの練習時間に追われながら勉強をする毎日は充足感に満ちていて、何の不満のひとつもなかった。いや、たったひとつだけある。ひとつだけ、中学生の頃からずっと思っていることがある。
あのバレーのネットなどより遥かに低い、紫の糸を撚ったそれを挟んで打ち上がっていくシャトルを目で追いかける。体育館の照明に一瞬見えなくなる白。彼も、こんなふうにボールを見失うこともあるのだろうか。
きっと、彼のレンズは歪んでいない。実像だけを結んでいる。そうだろうと思うのは、矢張り、あの澄ました瞳が迷っている様を見たことがないからなのだろう。
なんとなく、その日は教師が見回る最後の時間まで、残っていた。
九時も近くになってようやっと部室棟の鍵を閉めて校門を抜ける。吐いた息はまだ白くはないけれど、既に首筋から入り込む空気は氷のように冷たい。
同じ方向に帰る友人も居らず、とぼとぼと携帯を弄りながら帰っていれば家からそう遠くはない場所で背の高い後ろ姿を見た。ヘッドフォンをつけている様を見るに、後ろの音など聞こえていないのだろう。無言で脅かして笑うほどに仲は良くないけれど、このままストーカーのように背後に張り付いているのも気が引ける。
わざと一際大きな砂利を踏みつけて音を鳴らせば、僅かに後方を確認した彼の瞳が見開かれた。
「…名字さん」
「お疲れさま、月島くん」
ひらりと手を振ると、少しだけ右下を見つめて立ち止まる。
思わず名前も歩みを止めてしまったせいで、どちらとも進まなくなった距離に彼は聞こえるほどのため息を吐いて家はどの辺なのかと言った。角のコンビニを曲がったあたり、と驚いてしどろもどろになった返答に目を眇められたけれど、どうやら近くまでは隣を歩いてもいいというようだった。
そろりと教室の机ほどの隙間をあけて隣に並ぶ。交通量がさして多くはない通りは、寒さに鼻を啜る音ばかり響いてしまう。
気まずさに隣を見上げれば、彼は前だけを向いていた。
「…月島くんって、いつから眼鏡してるの」
「何、急に。…小学生の頃からだけど」
「へえ、私も、眼鏡してたよ。高校入ってコンタクトにしたんだけど、」
ふうん、と興味もないような相槌に、口を閉じかける。けれど、もうこの瞬間にしか、聞くことができないような気がした。
「中学の時の理科で、凹レンズの焦点の話、あったの覚えてる?」
彼とは違う中学ではあったけれど、必修授業でしていないわけはないだろう。想像もしていなかった問いかけに、眉間に皺を寄せて頷いた。
「あのとき、眼鏡が結ぶ像は虚像ですって先生が言った言葉がすごいショックだったんだ」
眼鏡もコンタクトも結ぶ像に変わりはないけれど、少なくとも眼鏡と瞳との間にある僅かな差異でさえもなくしてしまいたくて、それらが遠いところに焦点を結んで実像とかけ離れたものを映してしまいそうで、嫌だった。
月島ははあ、と小馬鹿にするような間の抜けるような音を漏らして、立ち止まった。彼の足が動かなくなってようやく、そういえば名前の小さな歩幅に無理に合わせてくれていたのだということを知った。
「そんなの勝手に定義付けしてるだけで、網膜で結んでるのと変わらないのに?」
「そうなんだけど、でも、なんか虚像って言われると、すごい目が悪くて損してる気分にならない? 見てるものが嘘みたいで」
そうだ。だから、強豪白鳥沢を破った彼――正しくは彼らなのだろうけれど、バレーを映す彼の瞳の熱量に戸惑った。今までの、もしくは今見ているどちらが嘘だったのだろうかと落胆した。
彼は至極理解不能と評するに値する顔面を惜しげもなく浮かばせている。面倒そうな顔を前に向き直して小さな一歩を踏み出した。置いていかれないようにつられて右足を踏み出す。少し先にあった電柱を通り越したあたりで、頭上から声が落ちてきた。
「…目が悪くたって、見てるものが変わるわけないでしょ」
それから再び沈黙が落ちた隙間に、無意識に足を繰り出す速度が遅くなる。コンビニまで着いたあたりでもう大丈夫だと笑えば、彼はそれじゃあと名残惜しさも匂わせずに反対方向に背中を向けた。
「月島くん」
肩にかけたヘッドフォンに手をかけながら振り返った彼は、いつも見上げている瞳と変わらぬ声音で何と言った。
「送ってくれてありがとう。気をつけてね」
彼は少しだけ小さく笑って、そっちもねと残してすたすたと歩いて行った。比べ物にならないほど大きな一歩で、その背中はすぐに住宅街の夜に埋もれて見えなくなった。
それから、おはようとばいばいという挨拶を交わすようになって初めて、彼――月島蛍の交互に見つかる眼差しの変わりようのなさと少しの熱に、どちらも本当の彼だったことを知った。
十一月の中頃、最後の席替えで遠くなった月島とは挨拶だけはかわらずに交わしていた。この薄い凹レンズ越しに見る彼と、名前とはお互いに虚像で実物だ。
目に見えた色は網膜に映る。月島が名前と呼ぶ頃にはもう、仮令それが不鮮明な視界であったとしても、彼の境界は変わらずひどく綺麗なままそこにあった。
企画>> relief 様 いざよう睫毛 提出