毒空木の味を知る

※ 裏とは言えないですが匂わせていますのでご注意。



冷たかった布団が温もりを帯びている。雨粒が窓を叩く音をぼんやりと耳に入れながら、何度目かもわからない深呼吸を一つした。
――最近、眠れない日が続いている。
文化祭も終えてとうとう十一月も残すばかりとなった近頃の訓練内容は熾烈を極めていた。おそらく来月のいつかに迫っているのであろうヒーロー科への編入試験のため、相澤が心操を最早親の仇かと思うほどには攻め立てている。毎日擦り切れていく皮膚に割れた爪が痛いなどという暇もなく、明日の訓練でもしかしたら死ぬかもしれないなんて思わせられるほどには彼の追い込みようは凄まじかった。だから、夜になっても心臓が戦慄く。あの時はこうすれば良かった、こうしなければならなかったと頭の中で日中の戦闘が繰り広げられ、気づけば朝日に部屋が焼かれていることも少なくはない。最近の隈はいつにも増して、と声をかけられることも増えた気がする。
――はあ、とため息を一つこぼした。腹の奥の熱が冷めていかない。常に身体が迸っているかのような状態で、交感神経の昂りを自分でも感じている。吐き出したい。
だめだ。今日もまた、眠れそうにない。

C組に着くないなや、顔色最悪だねと隣の席の名前が苦笑いを浮かべた。


「…一週間くらいはまともに寝れてない」
「疲れてるはずなのにね」


金曜日ということも相まって、身体は疲労を訴えている。腕一つを動かすことにも困難で、鞄を机のフックに引っ掛けて倒れ込むように突っ伏した。――彼女の少し低い落ち着いた声が、神経の一つ一つを閉ざしてくれればいいのに。
付き合い初めて半年以上経っている名前の声は、今の心操にとってはある意味猛毒だった。指先もまともに動かせなくなるほどの猛毒。名前はそんなことなど露知らず、おやすみ人使くん、と頭上で微かに微笑んでいた。

今日も今日とて放課後に扱かれ尽くした心操は、相澤の足元で膝をついていた。


「寝不足か? やけに精細にかけるな」


緑化地区の木々は随分と物寂しい雰囲気になっていて、相澤は捕縛布を剥き出しの枝から垂らして地面に着地した。ひどい心臓の鼓動に息を吐き切らしながらそんな相澤を見上げれば、彼はいっそう目を眇めてため息を溢した。


「焦るなよ、心操。お前のやるべきは決まっているが、今クリアしなければならないと逸るべきものじゃあない。思考する頭を整えることも立派な訓練だ」


熱が溜まっていく。腹の奥からぐらぐらと、煮え滾った熱。
今日はここまでにしようと、彼は心操の肩を叩いて踵を返した。
遠ざかる足音を聞きながら、時間をかけるように立ち上がった膝から砂粒が落ちていく。こんなふうにこの熱も乾いて落ちていってくれるなら、夜も眠れるようになるだろうか。
ずっと、疼いている。はあ、と盛大な溜息をこぼして寮への道を辿っていった。

翌日が土曜なこともあってかリビングにはクラスメイトの大半がいて、ボロボロの心操の姿を見て皆口々に相手はどんな敵なのだと笑った。勿論嘲笑ではないその声には頑張れよという背を押す言葉が含まれていて、心操はくたびれた顔で「めちゃくちゃ強い敵」と返してエレベーターに乗り込む。自身の部屋の鍵を開けて暫くもしないうちに、インターホンが鳴った。
ドアを開ければそこには名前がいて、手にはプロテイン入りのチョコクランチバーを握りしめていた。


「差し入れです」


あと今日の課題、と恐る恐る背後に回した腕が提げていたバックの中には数学の教材一式が入っていて、思わずどちらが本音かと笑いながら問いかけてしまうほどにはその顔は絶望的だった。
もう幾度となく招いた彼の部屋には慣れたようで、スリッパを脱いで窓際に鎮座するビーズクッションに身を沈める。心操の誕生日にプレゼントされたそのブラウンの大きなクッションは「人をダメにする」シリーズのもので、当の心操ではなく買った名前がダメにされていた。ずぶずぶと大きなクッションに包まれるように沈んでいく彼女の姿が寝床で丸まる小動物のようで、そういう姿にまた吐き出せない熱が籠もっていくのを彼女は知らないのだろう。


「課題、やるんじゃないの」
「そうなんだけど…ちょっとお休みしてからでもいいかなって」


だってひどいよ、と名前は自分の目の下を指差してから膝を抱える。


「何で寝れないのか、聞いてもいい?」


こてんと首を傾げた名前に、ぞわりとした。心操はできるだけ彼女から距離を取るように対面のベッドに背をもたれて座り込む。立てた両膝に腕を置いて、チョコクランチバーの銀の袋を指先でつまみ上げながら言葉を探した。


「…いや、まあ、これといって理由はあんまし」


小さなテーブルを挟んで向こう側にいる彼女の顔など見なくても、むくれていることくらい分かる。すっとクッションから立ち上がるなり、いきおい心操の隣に腰を下ろした。ふんわりと香った甘い匂いは、もしかしたら外で盛りを迎えている金木犀のものかもしれない。そういえば先程も僅かに残る木々の隙間に並ぶ葉の群れに、控えめに咲く黄色があったなと思い出したのは意識的な思考の逃避だ。
ずりと腰を浮かして二人の間に隙間を作ろうとしたのを、名前は許さなかった。


「なんか、最近避けてないですか」
「そんなわけ、」
「…心操くんがしたいこと、もし邪魔してるんだったら私ちゃんと考える」


何度か目を瞬かせて俯いた名前の項がワイシャツの襟から覗いた。床に突いていた心操の指先を握るように、彼女の細い指が乗せられる。綺麗な指が、割れたばかりの爪を撫でていた。


「…ごめん、そうじゃない」


皮膚に触れる感覚が、背筋を粟立たせる。
多分、この感覚はどれだけ言葉を尽くしたところで到底彼女とは共有できそうにもない。いや、言語化しようとも思わないけれど。何せ、この熱は熱すぎる。


「…名前、」


――毎日、今日こそ殺させるかもしれないと思っている。そんなはずがないことは分かっているけれど、相澤の獰猛な目に睨まれるたびに其処にいるのは師ではなく、なんて相性の悪い敵かと思い込まされる。そういう思い込みが強い夜ほど、ひどい熱に魘される。これの正体は、分かりきっている。笑えるほどに、心操の視床下部は本能に忠実だ。
俯いた名前の頬を覆って指先に当たる耳をなぞる。弾かれたように顔を上げた彼女の柔い唇に噛み付いた。
吐き出したい。このどろどろに昂った熱を吐いて、楽になりたい。
息を吸い込む隙間から舌をねじ込む。
死に至らしめる猛毒は時にひどく甘いものがあるそうだ。彼女の歯列をなぞるたびにわずかに漏れる呼吸が、また神経を焼いていく。焦げつかせていく。
いつもあのクッションに身を沈める時はスカートはやめてくれと言っているのに今日とて懲りずに制服のままやってきたのだから、もう文句の一つも言わせまい。そろりとプリーツの波間から伸びる白い腿に指を這わせれば、びくりと大仰に名前の肩が震えた。人使君と辿々しい声が余計に神経を燃やしていく。逃げ場がないのはお互い様というやつで、反対の手で彼女の背筋を確かめるように上へと持ち上げてから、唇を離した。


「っ、こういう理由、なんだけど」


言葉にする声もなく名前ははくはくと何度か口を動かして、心操の胸元に顔を埋めた。
そういう理由ですか、と不服じみた声をくぐもらせて訴える名前にふっと小さく笑いをこぼした。結構一大事、と背中まで上がりそびれた手を腰のあたりで持て余しつつ呟くと、酷く熟れた頬を余計に胸に沈め込む。


「…そういうのは、とても、狡いと思います…」


ぎゅうと心操の背中にまで回された腕に、彼女と穏やかな秋を過ごす夢が残りますようにと今日の夜を想像した。本当は目を閉じかける間も隣にいてくれるならその方がいいけれど、そういうわけにはいかないことなど分かりきっている。
じりじりと、焼けていく。散らばっていく制服のひとつひとつに、最後まで残っていた神経がぶつんと焼け切れた。