※ コミックス二十三巻ネタバレ
ほんの数年前までは、誰彼の笑い声が響く教室で机を並べて授業を受けていた。世界は常に不安定で目まぐるしく変化していて、敵は凶悪さを携えて確かに存在していた。相反するヒーローもまた同じようにその世界線の中にいて、あの教室の中にいた三年A組二十二名は漏れなく何かしらと向き合い続けていた。
「――ただいまー」
夜の落ちる時間が早くなった。まだ五時だというのに空はどっぷりと暗闇を纏っていて、マフラーの隙間から吐き出された白い吐息がよく映えていた。
玄関のドアを震える小指で引くと、夕方の報道を告げるテレビのアナウンサーのくぐもった声が耳に入ってきた。それから、リビングのドアが開かれてひょっこりと紫が跳ねる。
「おかえり。言ってくれれば迎えに行ったのに」
「ヒーロー守ってどうするの」
「…彼女守らなくてどーするのさ」
両腕に悲鳴を上げさせるほどの買い物バックをどさりと床に置いてブーツのチャックを引き下ろす。冗談混じりに笑った言葉に、彼――心操は少しばかり不機嫌そうに言い返した。
それから、わずかな沈黙。これは、名前の失言だ。
リビングのドアが開かれたことによって、アナウンサーのはっきりとした声が廊下にまで届く。
『昨日未明、複数回にわたり強盗殺人を繰り返していた男四人が立て篭っていた雑居ビルに、プロヒーローチャージズマが駆けつけ敵は無事逮捕されました。その後チャージズマは病院に搬送されたましたが、命に別条はなく――』
雄英高校A組のグループメッセージが、昨日の昼頃久しぶりに通知を知らせた。送信者は耳郎で、合同任務にあたり"チャージズマ"こと上鳴電気が搬送されたとの旨を完結に伝えていた。A組初の搬送報道、と茶化すように続いた瀬呂の言葉に、二時間遅れで本人から"マジで聞いてくれよ!"という懺悔と愚痴が混じったメッセージが返ってきた。
翌日である今日がちょうど非番であった名前は、午前中に彼のいる病室へと見舞いに行ったのだ。予想以上に元気であった上鳴の左足は布団の下で異様に盛り上がり、その右腕は三角巾で吊られていて、話によるとどうやら足場の悪いビルでの戦闘に足を絡れさせ、敵に捕捉されまいと放電。足場の瓦解を招き階下に転落した次第だそうだ。
『まじ築四十年の放置ビルになんか引きこもんなっての!』
けらけらと笑いながらそんなふうに言った上鳴を、昨夜にでも耳郎が散々叱ってくれたであろう。大事に至らなくてよかったよと息を吐いて、見舞いの品を置いて世間話を少し交えさせて病院を後にしたのだ。
――ヒーローはいつだって命懸け。
オールマイトがよく言っていた。そうだろうなと思う。上鳴が今回こんな程度の怪我で済んだのは彼の運が良かったからだ。
ヒーローという職をしていると、時々分からなくなる。守ることが当たり前で、前線に立つことを基本的には良しとする。勿論無策は無謀だけれど、そこに守るべき他者がいるとしたならばそれは一様に背に庇うべきものだ。そのための足は竦まない。
心操は、それを否定する。
「あんたは戦うのに慣れすぎなんだ」
呆れるようなため息をこぼして近づいてきた心操は、ぐしゃりと髪を巻き込むように撫で回した。それから買い物バックを持ち上げて、重くないこれ、と怪訝そうな顔をした。何せ五キロの米袋入りだ。へらりと笑えば、なんのためのケータイなんだよと再度唇を尖らせる。
リビングの奥のキッチンに運ぶ背中を眺めながら、テレビを横目見る。
今週のヒーロー特番は『次世代を担う平和の象徴』と謳われた緑谷が対象のようだ。
冷蔵庫に物を詰める心操に「デク君が出てるよ」と指を指すと、前に会った時に言ってたなと知らない情報を出されて少しの嫉妬。緑谷はいかんせん忙しく、A組内でもレアリティが高いというのに。何となく心操に負けた気分だ。ソファに背をもたれながら私も会いたかったとこぼせば、彼の微妙な声が返ってきた。
「…また今度会えるだろ」
拗ねたような声に、薄く笑いながらソファから立ち上がる。彼の背中越しに腕を回せば、何だよと罰の悪そうな目が名前の口元を見下ろしていた。
「今度はちゃんと連絡するから、迎えにきてね」
「ん」
心操は名前の腹のあたりで組んでいた指を解いて腕を引く。誘われるように待っていた唇に、互いにかすかに笑いながら目を閉じた。
***
上鳴が搬送されたあの日から一月も経っていないと思う。事務所からチームアップ要請を受けて現場に赴くとそこには緑谷と心操の姿があり、思わず口元まである広い襟をぐいと引き上げた。
「…俺が先行する。無線で状況は伝えるから、合図があるまで待機しててくれ」
「そうだね。潜入は君の得意分野だし、任せるよ」
緑谷はグローブをはめ直しながら頷いた。
緑谷と名前が呼ばれたということは、この案件は戦闘を要するということだ。
了解の声をあげない名前を、心操が一瞥する。
――ぎゅうと、右手を握りしめた。
「応戦は私たちが。無線の状況から何かあったと分かれば突入するから」
「…了解」
何かいいたげな顔をしたあと、唇を結んでペルソナコードを装着する。
こういう任務は、嫌だ。彼のヒーローとしての役割を自覚させられる。相澤と同じく裏方に徹するべき個性の心操は近接と複数人の戦闘に適していない。それでも、単身乗り込むことが求められる。
「…名前ちゃ…ライン、見取り図、もう一回確認しよう」
「…デク、」
ライン。プロヒーローとして経験を積んできた名前のもう一つの名前。ここに立っているのは、名前ではない。
緑谷の大丈夫だよと笑う柔らかな丸い目に、瞬きを何度もしてから強く頷いた。
それから三十分としないうちに潜入していた心操から連絡が入った。
敵の数は合計三十人。三階まである雑居ビルに点在していて、警備の薄い最上階からの潜入が好ましいだろうとのことだった。
指先から出した糸を縒り合わせて配管に巻きつけながら隣のビルを駆け上がる。
屋上に到着したことを伝えると、三階の電気の付いていない窓が内側から開かれた。窓奥から心操の顔が見えて、進入を促している。二人でそこから入り込み、状況の詳細を聞いて作戦を立てた。
行こう、と立ち上がる緑谷に続く。心操は再び通気口に忍び込んでいった。
そして、敵との戦闘が始まった。縒り合わせた糸の強度はナイフで切ることなどできないもので、一人、また一人と捕縛する。応援を呼ばれる前に気絶をさせるか心操の洗脳により、比較的スムーズに二階層まで制圧した。
――油断はしていない。オールマイトの言葉がいつも胸に巣食っているのだ。迎撃性能の高いヒーローの油断は、心操のようなヒーローを危険に晒すだけだ。だから、十分に反応はできていた。
「名前!!」
前方には応戦中の緑谷。蜘蛛の巣のように張り巡らせた左方の糸。右方から突き出された刃物を糸で括りあげて腕を捻りあげる。後方で起きた発砲音。地面を穿つ一発。糸が、その銃身を捕らえる。弾けた銃弾が真っ直ぐに名前に向かう。右から振りかざされた別の強靭な腕を左指の糸で絡め取った。銃弾だけ、避ける術がない。頭上から黒い何かが落ちてくる。肉厚な何かを穿つ鈍い音。ぴしゃりと飛沫が上がった。
「――」
名前を、呼んだと思う。
黒い何かが紛れもない心操で、飛沫が赤い色をしていたのを数秒の間呆然と眺めていた。彼は体制を崩しながらも捕縛布で二人を締め上げて、振り返る。
「しっかりしろ!!」
「っ!」
緑谷の方から投げられた男が、名前に向かっていた仲間を下敷きに倒れ込む。数回、ペルソナコードから発された声に返答のあった敵が静止した瞬間に捕縛布で締め上げた。心操の捕縛布が絶えず部屋を縦横無尽に走っていた。足元の血溜まりだけが、彼の足を留めている。
――糸を、縒りあわせる。細い糸だ。集中力が切れると、練度がひどく下がる。細い糸をいくら編んでも、敵を押さえつけるには足りない。
『自分さえ守れないってのに、どうして他人なんて守れる』
相澤は終始、そう言っていた。俺たちのような個性のやつは、自分のことを守れないなら死ぬだけだ。ただそれはお前にだって当てはまるだろ。増強型でも広範囲型でもない、そんな個性でヒーローになろうっていうんだからな。
こんな時に恩師の顔を思い出すなんて。
気張れよ名字。ヒーローになるんだろ。
背中を叩く相澤の隣の、心操の顔を思い出した。
「――っ」
心操が、膝をついた。彼の背中を押しやって、カッターナイフのような敵の指先を掴む。皮膚が裂ける感触がしても、離すまいと強く握りしめた。それから右足を脇腹に叩き込む。左手から放出する糸で身体をくくりつけながら、蛇の顔をした男の顎を蹴り上げた。あと二人。奥の緑谷から発せられた軽い風圧に敵がよろめく。両手の平を合わせて十本の糸で二人をまとめて絡みつけた。暴れられるせいで細い糸はぶちぶちと切れる音を立てながらも出し続ければ、やがて身動きも取れないほどの繭状になった。
「心操君!」
緑谷の悲鳴じみた声に振り返る。
右の腹から流れる赤い血が、ただひたすらに床に滴り続けていた。
駆けつけた救急隊に搬送されている間、彼の意識はひどい出血のせいで朦朧としていた。
内臓にわずかに食い込んだ銃弾の摘出手術のあと、医者や看護師が出入りする病室で長い夜が明けても目を覚ますことはなかった。
一命は取り留めたそうだ。あとは彼の体力に祈るばかりだと、そう言って踵を返した白衣の翻る背中をぼうと見送った。心音を告げる甲高い音だけが静謐を湛える廊下に鳴り響いている。
名前ちゃん、とコスチュームのままの緑谷が名前の右手を持ち上げて初めて、傷があることを知った。もう既に血の固まった手のひらの一文字の傷を、緑谷はぐるりと包帯を巻きつけて、手当てをしに行こうと眉尻を下げた。
言われるがまま連れられて、傷口の洗浄のあと仰々しい手当のされた右手をぶらさげて待合室の長椅子に腰を下ろす。
朝の日差しが大きな窓から入り込む。壁にかけられていたテレビに表示される時刻は七時を回っていて、いつも出勤前に見ていた報道番組が流れていた。前日から起こった敵事件を取り上げる毎日のヒーローニュースには一向に心操の名前は上がらない。そのほかの速報は流れているのに、上鳴は搬送されてややもせずに報道があったのに。
――支度は済んでいるのかと、呆れたような声で行動の緩慢な名前を急かす。もうすぐと返す言葉が本当にそうであった試しなど少ない。そんな名前のことなど分かりきっている心操は、先に行くよと意地の悪い声で告げるのだ。
そんな日々が、絶え間なく続いていくと思っていた。いつかどこかで終わりを迎えることなどと、と悟った振りをして。
事務所先への連絡を済ませて帰ってきた緑谷が、名前の隣のひと席を空けて腰を下ろす。彼女の目線の先にあったテレビを見上げて、それから再び名前を見た。
「…人使君はさ、相澤先生とおんなじで、表舞台には出ない人だから、皆は知らないヒーローだから、だから、あんなに傷ついてもあんまり、報道ってされないんだね」
「名前ちゃん、」
「…ごめん、あの時、どうすればいいか分かんなくなって、デク君の足、引っ張った」
カタリと立ち上がる挙動に合わせて長椅子の足がわずかに動く。
――彼女守らなくてどーするのさ。
ヒーローとして戦うことに慣れすぎているのだと、そういえば何日か前にも言われた。前線に出ていれば今日のようなことだって起こる。あの瞬間必死に避ける算段を考えなかったのは、恐らくあれが致命傷にはなり得ないだろうと頭のどこかで踏んだからだ。だというのに、間に入り込んだ心操の右腹部を穿った銃弾は運悪く肝臓を傷つけた。
「…どこに、」
「目が、覚めるまでは…もう少しだけ、病室の前で待ってる。もう少ししたら、事務所戻るから、」
朝日を反射する白の床。あの瞬間の完璧な判断はなんであっただろう。柔らかく橙に染まる床を踏みしめる。
進むほどに、甲高い音が近づく。通り過ぎていく看護師を横目に、先程まで立っていた一室の前に着くなり名前に気づいた医者が薄く微笑んで入室を促していた。そろりと彼の脇を通って足を踏み入れれば、医薬品と血が混ざったにおいが鼻をつく。
ベッドに横たわる彼の腕には赤い献血パックと透明な輸液パックが揺れていて、窓の向こうをぼんやりと眺めていた瞳が入り口側に立っていた名前を映した。
「……っ、私、準備するのとか、すごい、遅くて、でも、頑張るから…がんばる、から、だから……置いて、かないで」
名前も心操も、おそらくは長く生きていられない職業だ。そんなものはとうの昔に飲み込んでいて、それでも、そんな瞬間が来るまでは。
ぼろぼろと瞳の縁から溢れ出る。顎をつたってコスチュームを濡らしていく。何度も何度も袖口で拭って、右手の包帯がしとどに濡れる。
ベッドの側にまで近づけば、一層血の匂いが濃くなった気がした。
――上鳴は笑っていた。ドジっちまってさ、聞いてくれよと折れた腕を掲げて笑っていた。そんな場所にいる。
だから、これは精一杯の我が儘だ。
「――馬鹿じゃないの」
掠れた声が弾ける。
心操も、笑っていた。血の気の失せた顔を、まるで白磁の陶器のようだと思った。いや――。
「――名前」
置いていかないよ。
絶対だとは言わなかった彼のそういうところが、完璧さを謳う白磁に似ても似つかない。それでも、オールマイトのような敵わない白磁を作り上げている。
点滴の刺さる腕で、心操は名前の右手を撫でていた。
企画>> remedy 様 永劫が淵 提出