例えば雲は水蒸気の固まりだから、立つこともできない。例えばドクダミはどれだけ綺麗な花を咲かせようと大地の栄養を吸い取ったとしても、ドクダミに薔薇のように派手で赤い花は咲かない。例えば子供の頃描いた将来の夢は、限りなくゼロに近く、大きくなっても叶わない。例えば雨粒は大気中で凝結した水蒸気だから、誰かが泣いているわけではない。例えば、例えば、例えば――…。
私が子供の頃に描いた想像は、大きくなればなる程それが絶対的な拒絶となってやってきた。
地学だとか物理だとか化学だとか。空が青いわけも雲が浮いているわけも秋の空が遠いわけも、夏が暑いわけも冬が寒いわけも雪が雨が降るわけも。みんなみんなそれが現実なんだよと教えてくれる。
でもそんな下らない知識を覚えていくたびに、私が私でなくなってしまうような気がしたのだ。それらを巧く言葉にする方法なんてものを知っているならば、私は今口ごもることなくすらすらと言えている。
――世界の全ての現象にはそれに見合った理由があるからこそ、存在しているのだと。
真横に引いた唇がわなわなと震え、右手のシャーペンを握り締めた。
綺麗なものを綺麗という心が、言葉が、理由だとか意味だとか現象とかそれによって起こる二次被害とか。そんなものによって素直に口から出てこなくなってしまう。
「勉強したくないっていう口実にしか聞こえないんだけどね」
目の前のそういった空想やら幻想に程遠いこの男は、手の中にある気色悪い色をした試験管をゆらゆらと混ぜ合わせていた。そうすることで物質同士がより結びつき化学反応を起こすのだ。
私は目の前の参考書を見遣りながら、黄色いクッションを抱きかかえた。L字型ソファの角に首をもたらせて、室内を照らす蛍光灯を見上げる。
この光には、とてもとても微少な電子がふよふよと漂っている。
眩しい、明るいとその言葉だけではきっと大人には理解できない。
「……夢とか、見ちゃいけないんだって。それは非現実的で、ちっとも見合ってない。
でも私にはそれが一番の現実なのに、そんなんで生きてけないでしょだって」
まるで貴方の生きている足元を、安心な道へ照らしてあげますよと諭すように。それが現実的思考であって万人共通の感性であるとおしつけて。
でもそれはやっぱり、目の前に見える道を暗くさせているだけのような気がした。
「わかんないよ、秋。わたし、どうやって生きていけばいいのかなあ」
秋はぱちんと指を鳴らせると、試験管をどこかへ消し去った。それをファンタジーととるか科学ととるか、それすらも下らないと追いやられてしまうのだ。
ストーブの温風がぺらぺらとノートをめくっていく。びっしり書き連ねた反応式は、この先私に何を教えてくれるのだろう。
「暗がりに迷い込んでしまった小さな子供を、誰が温かい小屋に招きいれてくれる?
小さい頃童話で読んだだろう、ヘンゼルとグレーテルは自力で見つけ出すんだ」
彼がソファに身を埋めれば、スプリングがギシと鳴いた。その所為でずりと頭が落ちるも、秋は気にした風でもなく座木が置いていった雑誌を読み始めた。
手の中にあったシャーペンは、柄が擦れて透明の味気ない姿になっていた。高校に入ったときに、秋に買ってもらったお気に入りのもの。それもきっと、ペンの先のプラスチックが欠けたり歪んだりして、いつしか壊れてしまうのだろう。
私は何枚もページをめくり、罫線だけが並ぶ紙面に空を描いた。
次に花を描いた。雨粒を描きこみ、水溜りを描きいれる。
きっと雨があがった後の空には虹がかかって、この花は赤く、奥の小ぶりの花は薄桃色と黄色をしている。
そしてこの雨粒と水溜りを覗けば、光に反射する水の街が広がっているんだ。
「それでも、私にはわかんないや。わかんないのに歩けるほど、自分の選択に責任が持てない。わかんないのに歩けるほど、秋みたく強い思いも持ってない」
「……出逢いと自己の問題だよ。意志が強いから何かを選べるんじゃない」
ただ自分の思い描く――きっとそれすら違う何かに毒されてしまっている――世界は、誰かにとって見てみれば幼稚園児が描くようなお得意の"現実味"のへったくれもない空想。でも、その幼稚園児が描くような感性が。その見る世界が。
今の私にとって焦がれてやまない初めての視点。
私は徐に天井に向かって手を伸ばした。その手の中には窒素と酸素と二酸化炭素と、ヘリウムや水素などが詰まっている。
「意志の強さが無関係って言うのなら、私と秋の違いは何だろう」
「さあ、考えてもみなかったな」
少しだけ怒ったような口調で、こちらを見ていた視線を再び雑誌に戻した。
どの公式に当てはめたとしても、彼の思考が読めるわけでもなければその理由を知ることは出来ないのだけれど。
(ああでも、そんな公式があるんだったら、必死に覚えるんだろうなあ)
なんて現金な。
そう思って心の中で笑う。描き途中のノートの上にシャーペンを置いて、消しゴムで一直線の白線を引いた。
「私のほうが、先に死ぬくらいかな」
「名前」
「あとは、秋が季節を巡る長さかな。
あ、でも自転が傾く前の歴史もあるね」
怒らないでと眉尻を下げながら言えば、秋はしかめっ面をして頬杖をつく。
「でも、秋が傍にいてくれるなら」
それを人は他力本願だというのだろうけれど。
「下らないこと考えずに済むのかも」
「そしたら道端に捨てるから」
言い切らないうちに突っぱねた言葉は、誰がどう見てもそれが正しいのだと分かっている。そんなことを言わせてしまった私が一番厭な奴、であるというのも。
「一応、名前がヘンゼルになれるように願ってるよ」
秋はク、と喉で笑うと、仰向けに寝転がって顔の上に雑誌を広げた。
ストーブが石油切れを訴えて、不完全燃焼のまま停止した。ひんやりとした空気がじわりと足元を襲い、私はくしゃみをする。
テーブルに広がる参考書を閉じて、ノートの赤い花を見た。
小さい頃には確かに、赤い花も黄色い花も紫の花も。
どれも同じように見えていたけれど。
管理しきれない情報の中で、私はこの花の名前を知っていた。