目覚めても醒めない夢

目が覚める。太陽は既に昇っていて、カーテンで閉め切った部屋は仄暗い。
今日も、朝の音は、聞こえない。

ロフトのある部屋を探していた。ただあの日々に固執する私は、僅かでもいいなにか似通った類似点を無意識的に追いかけていた。もうあの日々に戻れないことなんて、分かりすぎているのに。

昼間は茹だるような暑さでアスファルトを焼き尽くしているのに、朝は少しだけ冷える。すっかり縒れたTシャツの上に床に放り投げていた上着を羽織る。同居人の計らいによって通わせてもらっていた高校のハーフパンツは、もう何度洗ったことか、名前の刺繍が解れていた。
備え付けの簡易なキッチンはリビング兼ダイニングと向かい合わせに作られていて、申し訳程度に狭いシンクとガスコンロがあるばかり。隅に追いやられた私の腰ほどの背の低い冷蔵庫を開け、昨日買ったペットボトルのお茶を飲み干した。
テーブルの上に置かれたカレンダーに目をやる。あの日からちょうど八年が経っていた。

ねえ、秋。私は、なんにも変わってない。なんにも、変われてないよ。

秋が笑う声も聞こえない。座木が作るご飯の匂いが懐かしい。リベザルが走り回る後ろ姿が、目にしみた。
不意に歪む視界に気づきたくなくて、洗面所に駆け込む。水道から流れる冷たい水で顔を洗った。指先に、かすかに温かな温度を見つけてしまって、私に自覚を促す。
もう、朝起きて誰もいないことに慣れた。冷たいリビングにも慣れた。自分で作る可もなく不可もない普通の料理にも朝晩自炊することにも慣れた。

それでも、いつでも不意に、この胸の奥にしまいこんださみしさは声をあげて私に訴えるのだ。

――風の噂で、赤い髪の少年が営む妖怪探偵所があると聞いたことがある。それは紛れもないリベザルであるとすぐに気づき、いますぐにでも会いに行きたいと思った。
でも、自分ひとりで決断してたったひとりでも秋の跡を追いかける、そんな彼に私なんかが会いに行ってもいいのだろうか。
ため息が漏れる。そんな疑問自体が、何より私のこの自覚を守るためのものであると気づいている。
歩き方を忘れてしまった私は、どうやって踏み出せばいいのかもわからなくなっていて。
ふらふらと立ち上がってはいるけれど、その一点から動き出せずにいた。


(八年も…経ってるのに、いい加減女々しいやつ…)


ばかみたいだ、もう見えない影を追ってもどうにもならないのに。
ぺたんとへたりこんだ私は、遠くで聞こえる雨粒が窓を叩く音を聞いていた。隣人の下手なギターが、懸命に音を探して弦を掻き鳴らしている。すぐそばの道路で車が走るたびに軋む部屋は不気味な音を響かせ、雨音と二重奏を奏でていた。

ぽつり、ぽつり。

音は徐々に激しさを増して行き、ついには雨戸ががたんと暴れだした。


ピンポーン。


聞き間違いだ。この雨の中外をうろついて、挙句私の部屋のインターホンがなるなんて。新聞は取っていないし通販もしてなければ家賃もきちんと払っている。誰かが訪ねてくる予定も理由もない。


ピンポーン。


私を呼ぶ音に、顔を上げた。棚の中からタオルを取り出して、顔に張り付く水滴と髪を拭う。ひんやりと頬をなでた冷気が、気持ちよかった。玄関までゆったりとした動作で歩き、あわよくば帰ってくれないかななどと引きこもりまがいの考えを浮かべながらドアスコープを覗く。
――はた迷惑極まりない。あろうことかそれは向こう側から何か紙のようなものを貼り付けられていてなにも見えなくさせていた。
これでは外に出なければ次誰か来た時に困る。向こう側に人の気配はとくに感じなかったので、ため息をつきながらノブをひねった。外開きのためにわざわざ玄関の外に出て、ドアに張り付いた迷惑物に手を伸ばした。
伸ばしかけた手を、一瞬にして白くなった思考回路がせき止める。


「…っ」


なぜかはわからない。それでもこみ上げてきた笑いに口元を抑えて忍び、セロハンテープで止めた紙を丁寧にはがした。


「……相変わらず、汚い字」
「――汚くて、悪かったな」


雨が降っていた。足元をわずかに湿らせる雨が、少しずつ弱まる。
下唇を噛み締めて、ふわりと風に流れて香るミントの匂いに目を瞑った。私はドアに額を当てて、しゃがみこむ。右目の視界に、だれかの足が見えた。


「…ばっかじゃないの」


ねえ、私八年も、待ったんだよ君のこと。
喉が詰まって、思うように声が出なくて。ぶつけてやろうと思っていた言葉は声にもならずに舌先で落ちる。代わりに乾いた唇から漏れたのは、泣くものかと意地っ張りなせいで苦しく細々とする呼吸。
ふわりと、頭を撫でてくれる手とともに、香りが一層強くなる。


「ばか、ばか! なんで、勝手に……っ! 置いて、かないって……いった、のに」


ばか。もう一度こぼした声に、パチンと音がはじけて強く香っていた煙草が消える。
ぽろぽろと意思に反してこぼれ落ちる涙を、彼は親指で拭って頬に手を添えた。


「っ」


セピアの髪が揺れる。その奥に潜む暗い茶の瞳が、細められた。
また幼くなったんじゃないの、と呟きそうになった声を呑み込む。


「あ、き」
「名前、」


そして、少しだけ表情を歪めて笑った。


「ただいま」


触れるだけのキスはほんのり涙の味がした。