無念
「終わった?」
女の問いかけに、脹相は応えなかった。手についた血は乾いている。握って、再び開くと、手の皺に張り付いたそれが少し剥がれ落ちた。
「迎えは頼んでいないが」
「そんな格好で歩かれたら困るから。一応これ着てね」
目の前に立った脹相にアウターを押し付けながら、なまえは彼の血みどろの法衣にうえ、と顔を顰めた。茶化すわけでもなく、本気で嫌がっているらしい。しかし、まるでそれが然るべき距離であるように、なまえは脹相の近くに並んで歩いていた。吐きそう、と文句を言うくせに、わからないやつだ。渡された黒いコートに袖を通してみると、自分の体と同じ匂いがする。甘いような苦いような、煙の残り香。体の持ち主の物だと直感してしまうと、脹相はあまり良い気分がしなかった。
深夜の駐車場に他の車はないが、奥の方に一台だけ無難なシルバーの車を見つけた。ちり。仄暗い電灯となまえの靴音に誘われて、ぼんやりと映像が浮かんだ。またこれか。脹相はうんざりとして鼻筋に皺を寄せた。この頃は少なくなっていたが、未だに肉体に刻まれた記憶が脳裏を掠める時がある。かつかつ、というヒールの音が、脹相にとって途端に耳障りに感じられた。
「…車か?」
「イヤ?」
「あれは好かん」
「そう言われてもね」
ポケットをまさぐって、なまえが鍵を取り出すと柱の影で、鉄の塊の後ろが二度、ちかちかと光った。「ちゃんとxxxして」。女の声が蘇ったが、聞きなれない単語はうまく再生されなかった。
「術式は掴めそう?」
「まだだ」
「そんなに簡単にはいかないよね」
「この肉体は術師だったのか」
「違うよ。見える人ではあったけど」
「親しい間柄か」
「まあね」
なまえが運転席に乗り込む時、何か呟いたように見えたが、脹相にはよく聞こえなかった。助手席に乗り込むと、また同じ感覚。”知っている”。座席の感覚、カップホルダーの丸い染み、フロントガラスの視界、そして、
「ちゃんとシートベルトしてね」
「黙れ」
「は?」
なまえはエンジンをかけようとした体勢のまま、脹相をふり仰いだ。鋭い語気が車内の空気を冷やす。自分の声のようで、そうではないような。脹相は額を抑えた。その手も不自然に震えている。神経を、意識と肉体が取り合っているためだ。ぐ、と手のひらを握り込む。今度はどんどんと力が篭って、開くことが叶わない。血管が浮かび上がり、ぎりぎりと食い込む爪は今にも皮膚を破りそうだ。
「この肉体、お前といるとまるで言うことを聞かん」
「大丈夫?」
「自分の心配をしろ。お前を殺す気らしいぞ」
「物騒ね」
呑気な女だ。もし脹相が肉体の支配を少しでも誤ろうものなら、この手は荒ぶるハブが如く、その首に食らいつくというのに。
ひやり。するりと細い女の手が伸びて、脹相の手を包んだ。冷たくなる拳の表皮。それをきっかけに、催眠が解けるように、ようやくふっと力が抜けた。血の気がなくなっていた指先が赤みを取り戻す。三日月型の爪の跡が、掌に刻まれている。その手を、脹相は何度か握り込んで確かめた。
車体が小刻みに揺れた。なまえがエンジンをかけたのだ。空調がごうっと音を立て、冷たい風を頬に吹き付けた。
「…おい、何を待っている」
「脹相のこと」
「構うな。早く出ろ」
「そうじゃなくて」
ふわりと空気の流れに乗って、女の匂いがした。なまえが運転席から身を乗り出し、脹相の肩口に手を伸ばした。ひくりと脳髄が疼いた時には、脹相の手がなまえの手首を捉えていた。左肩の方で、ベルトが巻き戻る音がした。驚いて見開いた女の目の中に、自分の姿を見る。それは、まるで傍観者のような顔をしている。慌てるでもなく、愉しむわけでもなし。
「…なに、急に」
「わからん」
「あなたの身体でしょ」
身を乗り出したままの体勢で、なまえは脹相の瞳の奥を見透かすように言った。温まってきた空調の、生暖かい風が二人の間を吹き抜ける。フロントガラスが白く濁り出した。鉄筋の造りから差し込む月明かりが、窓越しにほの明るい光を晒している。丑三つ時の静寂。
なまえの顔が近付いて、唇を合わせたのを、脹相はただ見届けた。唇に触れた温度が、自分のものとは違う。煽るように、なまえはわざとリップ音を立てて顔を離した。脹相は眉ひとつ動かさないまま、視線を逸らそうとしないなまえと数秒見つめ合った。陶酔するような顔だった。
ひとしきり温まった車内に、エアコンの風が止む。脹相はなまえの手首を解放した。うっすら手形がついていたがすぐに消えてしまうだろう。少し惜しいような気がした。
なまえは脹相の左肩からベルトを引くと、留め具に挿した。かち。金具の音と同時に、脹相はなまえの首根を捉える。強引になまえの体を助手席の方に引き戻し、噛み付くように口付けた。小さく息を飲む声はしたが、抵抗はなかった。どちらともなく角度を変えては深く味わう。舌を絡ませる音が車内に響く。荒くなった女の呼吸が重なる。じりじりと、記憶ともいえない模糊とした写像が浮かんでは消える。遠くの方で女の声がノイズのように聞こえてくる気がした。
ひゅ、と悲鳴になりきらなかった息遣いを聞いて、脹相ははたと意識を戻した。なまえの首の後ろに回していた手は、いつしか正面から喉元を締め上げている。脹相は不機嫌を隠すことなく唸った。
「お前、やはり相当な恨みを買ったらしいな」
「…っ、脹相、はなし、て」
「俺ではなくこの身体に頼むことだ」
「ばか、言わないで…!もう、コントロールできて、んでしょ」
「離そうと思えば可能だが、少しの間好きにさせてやろうと思う」
「脹相!」
指先までびりりと刺激があった。見たところ、この体はその名前で呼ばれるのを拒絶している。驚きはない。ある日突然、魂をすげ替えられたのだ。細胞に染み付いた記憶が全霊で拒否反応を示すのは当然といえば当然。ましてや、九相図という呪物を身に宿したとなれば。
肉体と意思の狭間で、女の命が宙にぶら下がっている。生かすか殺すかは、ある意味で脹相のさじ加減だ。死んだって構わない。この煩わしい発作はこの女相手にしか起こらない。ここで殺しておけば、脹相は完全に身体を支配できることになるのではないか。非情な考えは、しかし思いつきというわけでもない。何度となく脳裏をよぎったことではあったが、それを行動に移すことはついぞなかった。
答えを聞いてからでもいい。手を不自然に痙攣させながら、脹相はなまえを解放した。咳き込んで、なまえは倒れるように座席に戻った。涙の粒がシートに染みをつくった。
「この身体はお前の何だ?」
「…まえの恋人」
「生涯を誓ったか?」
「そうなってもおかしくなかった」
「裏切ったのだな」
「仕方なかったの」
「大層なことだ」
疼く手を握り込んで、脹相は皮肉を言った。哀れな男だ。愛した女はとんだ不義理者だったというわけだ。
「この身体の無念はいつか晴らしてやってもいい」
「まだあなたといたい」
「どの口がそれを言う」
「すこしでも長く、一緒にいたいの」
鏡越しに視線をやったなまえは、あたかも被害者であるかのように憐れみを誘おうとする。
脹相自身に憎しみはないが、肉体の借りは、無念の肩代わりで返してやろうと思った。
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