いっそのこと、すれ違えばいい
“秩序風紀を著しく乱す行為”。なまえの停学処分を知らせる張り紙を見た時のことを、七海はよく覚えている。七海が卒業を間近に控えた時分だった。
「七海さんがご卒業された後も、何度か停学処分を受けていました」
「彼女、今は?」
「…私の方からはなんとも」
伊地知は言い淀んだ。彼は相変わらず、気弱そうだ。七海が社会人になって、早数年。伊地知は今は補助監督として奔走しているらしい。休日の街で偶然にも伊地知と数年ぶりの再会を果した七海は、ちょうど昼時ということもあり、流れで食事を共にすることになったのだった。
「級は」
「…それが実は、つい先日、準1級の昇級申請をしていました」
「は?」
七海は炒飯を掬う手を止めた。昼時の中華屋は、がやがやと騒ついている。そんな喧騒が、一瞬遠のいた。
彼女はもうそこまで力を上げたのだろうか。伊地知と同輩の彼女は、学生時代、よく見積もっても準二級。こと戦闘に関して、特別秀でた学生ではなかった。聞けば、彼女は二級を飛ばして準一級を申請しているという。
「私も少し気掛かりで…なんと言いますか、自暴自棄というような…」
「君の目から見ても、彼女は準一級の実力ではないと?」
「ほ、補助監督の私がどうこう言えるものではありませんが…でも、おっしゃる通りです」
「推薦者は?」
「冥冥さんと…」
そこまで聞けば、十分だった。学生時代から、なまえは何ら変わっていない。
・
なまえの高専入学当初から、彼女にはよくない噂がつきまとっていた。言ってしまえば、異性関係。教師に代わる引率の術師と軒並み寝た、というものだった。
もっとも、当時の七海はほとんどそれを信じていなかった。
彼女が実践に多く駆り出されるようになった頃。その頃には七海は単独任務を任させるようになっていて、ある日、初めて彼女と二人きりの任務を割り当てられた。正直いって、目をかけてやらなければいけないと思うと少し煩わしかったが、当時17.18の若い男子であった七海は、わずかな好奇も覚えていた。
やはりあれはタチの悪い噂なのだ。その日の任務終わり、早くも七海はそう結論づけていた。
高専にもどり、報告を終え、それぞれの寮に別れる時には、七海は彼女のことをむしろ好ましく感じられるほどだった。「今日はお疲れ様でした」。言って、缶コーヒーを差し出すくらいに。
今思えば、それは希望的観測だった。結局、そのわずかな期待は彼女自身によって否定された。
「なかには覚えのない人もいますけど、大体ほんとです」
それから七海の卒業まで、なまえとの間に必要以上の会話はなかった。どちらも口数の多い方ではないこともあり、特にそれが悪く目立つことはなかった。自習室で顔を合わせる機会は多かったが、ただお互い黙々とそれぞれの勉強に没頭していただけだった。
なまえとの関わりは無味乾燥に終わった。灰原は亡くなり、夏油は呪詛師に堕ちた。七海を呪術界に引き留めるものは何もなかった。
・
伊地知から聞き出したなまえの電話番号を見つめ、七海はすでに少し後悔していた。彼女が望んで呪術師になったのではないことを、七海は知っていた。一般社会の歯車になった七海が、呪術界であがくなまえに何を手助けできると言うのだ。“七海さんのことを尊敬していたようですよ”。伊地知は別れ際にそんなことを言ったが、彼女の真意など誰にもわからない。しかし、躊躇いつつも番号を教えてくれた伊地知のことを考えると、これでなまえに連絡を取らないというわけにもいかないのだった。
4、5回のコールが鳴り響く。そろそろ切ろうかと思っていた時だった。はい、という訝しむ声色で、なまえが応答した。
「……七海です。お久しぶりです」
「え? 七海さん?」
声が昔のままだった。アーチ型の眉を引き上げて、目を瞬くなまえが脳裏に浮かんだ。
「伊地知くんからこの番号を」
「えっ、伊地知ですか。…ちょっと驚きましたけど…えっと、お元気でしたか?」
「それなりに。あなたは」
七海のそれと同じように、元気だ、と言う彼女の言葉は形式的なものだった。おそらく電話口では、この調子で当たり障りのないことしか言わないだろう。食事に誘えば、なまえは少し戸惑った様子だったが、せっかくだし、と七海の提案に賛同した。
・
「あなたは全く変わっていませんね」
「七海さんは、少しお疲れみたいに見えます」
「…老けたと正直に言ってくれて構いませんよ」
「まさか。そんなこと思ってない」
彼女はあまりに変わっていなかった。伊地知と同い年なので今は23になるか。元々大人びていたので、逆に今は年相応とも言えそうだ。当時の彼女は憂いたような横顔が印象的だったが、今はどこか晴れ晴れとしている。が、七海はそれを肯定的には捉えてはいなかった。自暴自棄、と伊地知が評価した理由がわかったからだ。
「伊地知くんがあなたのことを心配していましたが」
「…なにか聞いてますか?」
「昇級のために金を積んだことくらいしか」
サラダをつつきながら、なまえは顔を上げなかった。目を合わせてこないあたり、よほどこの話題に気乗りしないとみた。七海が斬り込むと、ようやくなまえがフォークを置いた。顔を上げると、困ったフリをして眉を下げた、うわべだけの笑みだ。この表情には見覚えがある。かつて噂の真偽を問うた時に、なまえは今と同じように、七海を虚しくさせた。
「…ほとんど知ってるじゃないですか」
「あなたが死に急ぐ理由はまだ聞いてませんが」
「生き急いでいる、ではなくて?」
「否定的なニュアンスを込めたつもりです」
「…せっかく久しぶりに会えたんですから、もっと楽しい話をしましょうよ」
まるで、懇願されているようだった。なまえも十分、自身の行いが無謀なものだとわかっているのだ。
「あなたがそうしたいのなら…まあいいでしょう」
「やったあ」
努めて明るく言ったなまえの声は掠れていた。
ディナーを終えると、二軒目を誘ったのは意外にもなまえの方だった。
酒が入ると、なまえはもう少し気の抜けた雰囲気になり、軽い愚痴も、主に五条のだが、言うようになった。七海はブランデーを舐めながら、学生時代を懐古した。
「…でも私、呪術師になりたくなかったんです」
「そんな気はしていました」
なまえは度数の低いカクテルを飲んでいた。あまり酒に強くらしい。それでも七海と酒を交わす気になったのは、七海が呪術師を辞めたからだろう。彼女には、まだ復帰については伝えていない。
「辞めようとは?」
「辞めたら結婚しないといけないから」
「では、死に急ぐ理由はそれですか」
「はい」
「辞めずとも、任務から一時的に距離を置くくらいはできるでしょう」
「そんなの無理です」
「なぜです」
「…なんででしょう」
なまえが黙ると、店のBGMがやたらと大きく聞こえた。なまえは呪術界に疲れ果てているのだ。かつての七海がそうであったように。
「…結婚は家の意向ですか」
「そうです」
「呪術師としろと?」
「はい。先祖返り的に呪力を持って生まれたのだから、それを繋げ、と。できれば良い家と、とも」
「当時の素行はそのためですか」
なまえが喉元に手を当てた。三年のあいだ学生生活を共にしていれば、人の癖は見抜けるようになる。七海のクールな視線に射られ、なまえは取り繕うように喉元にやっていた手を頬づえに直した。その横顔が、十六の時のなまえのそれだった。
「あのあと、私のこと嫌いになりましたよね」
「少なくとも、親しくしようという気は起きませんでしたね」
「ならいいんです」
「何が」
「あの時はちょうど、距離を置きたかったので」
「私は私で避けられていたと?」
「いえ。ただ、慕ったところで、って思って。七海さんはきっと呪術師をやめるって気付いていたから」
「…あなたらしい考えですね。いや、私たち、と言うべきか」
「何がですか?」
「見切りをつけるのが早すぎる」
なまえは七海を見ようとして、結局諦めたようにバーカウンターの木目を指でなぞった。カクテルは半分以上残っているが、耳が赤い。なまえがゆっくり瞬きをしているのが、言葉を探しているからなのか、それともただアルコールにぼうっとしているだけなのか、七海は少しの間判断がつかなかった。
「見切りをつけられていたのだと改めて言われるとちょっとショックですね」
「当時はあれでも精一杯だったんですよ」
「術師でいると、辛いことがたくさんありますからね」
「…お疲れなのはあなたの方では」
七海には、なまえの憔悴が痛いほど理解できる気がした。詰まるところ、お互い悩みを溜め込みやすいたちなのだ。七海よりも、呪術界におけるしがらみが多いらしいなまえは、抱えるものが大きい。ふとしたなまえの表情からも、押しつぶされかけているのが目に見える。助けを求めないものに進んで手を差し伸べることはしない七海だが、そうでもしないとなまえが取り返しのつかないことになってしまいそうな予感があった。
「戻ってくる自信がないのでしょう」
「…そうかもしれないです」
伊地知と再会を果たした翌日、あるきっかけで七海はついにそれを決意していた。今日までに再転向の段取りは進めてきた。なまえと会う約束を取り付けたのも、七海の呪術師復帰のための手筈の、ある種の動機付けになっていた。止まっていた時間は動くだろうか。わずかな期待があってのことだったが、どうやらまたすれ違うのかもしれない。
「やはりあなたは一度休息を取るべきだ」
「考えておきます」
グラスを空にした時には、なまえはすっかり酔いが回っていた。帰ります、と席を立つとふらつくので、腕を掴んで七海はなまえを支えた。「送りましょう」。その申し出を、なまえは断らなかった。
キャッチの勧誘を掻い潜り、駅に向かう。覚束ない足取りのなまえに、タクシーを呼ぼうかとも考える。七海の家は歩いて一駅程度。そして、七海も大人の男だ。少しの間とはいえ、かつて思いを寄せた相手を家に招くところを、想像しなかったわけではない。が、ワンナイトといくには、なまえの存在は七海にとって慎重になるに十分すぎた。
道の端で、なまえは気分が悪いと言って立ち止まった。その体を自分にもたれかからせ、結局タクシーを待った。頼りない重さだった。これで呪霊を払うだというのだ。いつか儚く散ってしまう。なまえの肩を支える七海の手に力がこもった。
タクシーは来た。それは結局、他の客に譲ることになった。「やっぱり、車に揺られたら吐いちゃうかも」。すみません、と弱々しく呟いたなまえを、七海は仕方なく自宅で休ませることにするしかなかった。彼女も それ でいいと思っているのだろうという気はした。
酒の力は侮れない。七海のように、自制心の塊のような男でもってしても。扉を解錠し、七海に力無く身を任せていたなまえを玄関に招き入れる。演技などと野暮なことを言うつもりはない。扉が閉まり切るのを待たず、振り向いたなまえが首に腕を回すから、七海が理性を捨て去っても構わないのだった。甘いカクテルの後味が、なまえを求める七海の男の部分を駆り立てた。
濃密なキスでお互いを翻弄しながら、七海はバスルームの扉を後ろ手に開く。気づいたなまえは七海のベルトに手を掛けて、七海は彼女のトップスの裾を掬い上げる。腕を上げてされるがままに脱がされたかと思えば、彼女は七海の胸板を手のひらで押し、シャワールームに押し込んだ。なまえの腕を取って引きずり込むと、バランスを崩したふりで、彼女は蛇口を捻った。
「…こら」
なまえは子供のように屈託なく笑う。そんな顔は初めて見た。降り注ぐ雫が温もりを帯びた頃には、残した衣服がじっとりと濡れる不快感も忘れて、また熱い口づけを繰り返していた。
数年間の燻りを洗い落とす雨だろうか。二人の足元を固めるそれであればこの上ない。熱に浮かさせるままに、張り付く衣服をようやく取り去る。七海が待ち侘びたなまえの素肌は、暖かいシャワーの下でふるりと震えた。
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