ひとりひとつ
夏油傑を見かけた。東京と隣県の県境、片田舎。団地があって、十数メートルの桜並木が綺麗なところ。小さい女の子を、二人も連れていた。桜を眺める親子のようなその三人を、犬を散歩させる年寄りが微笑ましそうに通り過ぎていった。
自然と、足が向かっていた。しかし、近づくにつれ、足取りは重くなった。一歩、二歩。それだけ進んで、ついに止まってしまう。目の前の光景が、あまりに平穏で、私の存在がそれを壊すのが恐ろしかった。
「綺麗だね」。子どもに語りかけるようにそう言った夏油は、桜なんて見ていなかった。私を見すえて、目には警戒を宿して。小さい二人は気づいていない。「ね」、と瓜二つの顔を見合わせてはにかんでいた。
やはり、辛抱たまらなかった。
「ねえ」
「…驚いたな。久しぶり。元気だったかい」
白々しく、彼は再会を喜んでみせた。
彼の左右の脚に、子どもたちがぎゅ、と寄り添う。それだけ見れば、人見知りの可愛いらしい女の子たちなのに、その丸くて大きな瞳は、安全を犯す私にきつい敵意を向けている。無垢な子どもには、到底似合わない。
「大丈夫だよ」。そう言って諭すと、夏油は屈んで、二人の視線を私の背後にある公園の方に誘った。
「あっちに小さな看板があるだろう。
朝、小学校に行く時は、あそこに集まるんだよ。
見ておいで。
なんて書いてあったか、私に教えて」
顔を見合わせ、そのあと頷いた双子は、一度夏油の後ろに回った。駆け出した姿を見た時には、お互いの手を固く握り合っていた。
少しの間、その小さい背中から目が離せなかった。夏油の声に、意識を引き戻された。
「高専に報告する?」
「したく、なくなっちゃった」
「頼むよ。あの子たち、学校に行くのを結構楽しみにしてるみたいなんだ」
看板とにらめっこする二つの影を、遠く見つめて。いつの間に、そんなに大人になってしまったんだろう。
「私のこと、もう好きじゃない?」
「好きだよ。でも、二つも三つも手に入るほど、世の中は易くない」
「私は、自分にも大義にも、簡単に嘘をつけるのに。誰かと違って」
「言わないでおいてくれる、と受け取っていいんだね」
「今日だけ。今日、見たことだけ」
「助かるよ。…ちなみに、それって24時まで有効だったりする?」
わがまま言うな。間髪入れずに、そう跳ねつけるべきだったけど、迷ったから駄目だった。何か言おうとしたのに、すぐに口を閉ざすことになった。軽い靴音が、舞い戻ってきたから。ぴったりと、また夏油の横に張り付いて、聞いて聞いて、と彼を見上げている。
片方の子が、ちらり、とこちらを見た。微笑んでみたけど、すぐにそっぽを向かれてしまった。
「お姉さんとおはなししてるから、少し待ってて」。
そう言って、私に向き直ると、そこには親の顔が後を引いていた。
「23時に」
ここで、と口の形だけで言った。目を閉じると、すぐ脇を親子の気配が過ぎていった。
甘いものでも買って帰ろうか。何が食べたい?
たぶん、二人は、夏油の腰の後ろで顔を見合わせている。食べたいものは頭の中にあって、でも口に出せないでいる。そんな間があって、助け舟を出す夏油の声が遠ざかる。
お団子がいいかな? 今の時期は、苺大福も美味しいだろうね。お店に着いてから決めようか。
でも、一人一つまでだよ。
・
昼には淡い桃色だった桜は、今、月明かりに白く浮かび上がっている。木々の間に巡らされた電球が、ほんのりと灯っていた。
子どもたちが駆けていった公園にはのぼりが出ていて、桜だか春だか、そんなような文字がはためいていた。
煌々と灯る街灯の下に、子どもの背丈に合わせた看板がある。それは通学の案内で、あのそっくりな二人の少女が、一生懸命になって読んでいた。
ひらがなは、夏油が教えたんだろうか。
あさ7じ45ふん しゅうごう
あさ8じ50ふん しゅっぱつ
二つ目の「ふ」の文字の右肩に、マジックで丸が書き足されている。下の方に小学校の名前があった。漢字の読みは難しそうで、一度見ただけでは覚えられなさそうだし、初めから、ふりがなだって読む気もない。
「お待たせ」
いつの間に来ていたんだろう。足音もなく現れた夏油の、暗闇に溶け込む黒いジャージは、見覚えがあった。昔の思い出が引きずり出された。
「少し歩こうか」
並木に沿って、歩を進める。隣を歩くのは三年生の、いつかの夏が最後だった。あの時は、同じ方向に向かっていると思っていた。今、彼は、私の残る世界に背を向けている。
「綺麗だ。」
「…自然を慈しむ心もまだあるんだ」
「君が、って意味なんだけどな」
「そういうの、もういらない」
「まだ好きだと私に言わせておいて、それはあんまりじゃないか?」
狼狽えたような顔で笑って。私を捨て置いたのは、そもそもあなただっていうのに。
咲き誇る桜が私を見下ろしている。儚いはずのそれは、しかし、昔から人を狂わすとも言われる。
途端に怖くなった。私が立ち止まると、一歩先で、彼も歩くのをやめた。
「忘れようとしてるの。もうやめて」
「じゃあ、最後に。なまえ、キスしようか」
風が吹いた。喉の奥の方が、捻り切れそうに痛くなった。花びらがいくつも舞っていたけど、足元に落ちてきたのはぼろぼろ溢れてくる自分の涙だけだった。
こっちへおいでよ、という言葉を待っていた。私がはねのけるってわかってたって、私の手を引っ張る真似だけでも。諦めて伸ばしもしないなんて、それじゃあいつまでもあなたの姿が忘れられない。
滲む視界に、あなただけが昔のように立っている。
「そのまま、桜に攫われてよ」
「なまえは優しいね。消えてなくなれ、って言わないんだ」
風が吹いている。濡れた頬が冷えた。揺れる枝葉の音に紛れて、地面を踏み締める靴の音がした。
唇のうえに、吐息の気配だけいつまでも残った。かさついた親指の感触は忘れてしまったのに、乾いた右の頬は、確かに彼の仕業のはず。
目を開けたら、あなたはもういない。
地面に散らばる花びらは、一人分の靴の形だけ残していて、私だけ、夜の並木に取り残されている。
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