発信履歴、いちばん上


例えば、この人は毎回レシートをもらっていくとか、支払いはクレジットだとか、おにぎりひとつなのにお手拭きは2枚欲しいだとか、顔馴染みのお客さんだと、そういうのを大体覚えてしまう。
煙草は特にわかりやすい。顔を見ると、すぐにパッケージが結びつくようになった。ぱっと見、無愛想な人でも、言われずともその人の煙草を取ると、なんとなく嬉しそうに「おっ」と反応してくれたりする。それが結構嬉しいのだった。
「ありがとうございました」とレジ袋の持ち手を差し出して渡してしまうと、水曜10時半のコンビニはようやく落ち着いた。早朝から品出しをしていたおじいちゃんオーナーは、この時間になると店舗の2階にある自宅へ引っ込んでしまう。基本は二人体制でなければいけないらしいが、私は一人で入ることの方が多かった。高齢のオーナーが店を切り盛りするこのコンビニは、チケット発券ができるような大手の店でもなく、最寄りの駅からも少し距離があるから客層も一定で、出勤のラッシュさえ終わると静かなものだった。都心に近過ぎないここは、自分にとっても働きやすかった。午前中に授業のない曜日は水曜と金曜。朝のシフトをこなして、廃棄のサンドイッチやパンをお弁当がわりに昼から大学に行くのがルーティンだった。
カウンターの割り箸やホットドリンクを補充したり、コーヒーメーカーの辺りを掃除しながら少しゆっくりしていると、すぐ後ろで来店を知らせる軽快な音が鳴った。
あの人かな。かすかな期待を込めて振り向くと、果たして黒いスーツのその人だった。

「おはよ。あー、とりあえず一つでいい」

人差し指で「1」の形を示すその人に、サービスの一環で浮かべる営業スマイルにちょっとばかりの愛嬌を加えて返事をしながら、私は再度カウンターに回った。
スーツに、無精髭を生やしたその人は、いつも黒い車で来ている。大抵、一般的な出勤の時間を過ぎた、朝とお昼の間くらいにやってきて、煙草を買っていく。なんとなくだけど、普通の会社員ではなさそうだと思っている。
本当は話をしてみたい。でも「今日は暖かいですね」とかそんな中身のない会話をしたがるタイプにも見えなくて、いつも淡々と、でも他の人よりも少しだけ、明るくレジ作業をこなす。
一見、怖そうに見えるこの人はお会計の後にちゃんとお礼を言ってくれる。「ありがとな」とか「どうも」とか、低いのに心地よい声で。あと、去り際にちょっとだけこっちを見て、に、と口の端だけで笑ってくれたりも。
今日もかっこよかった。密かに、ステキなおじさん、と呼んでいるその人の後ろ姿を見送ると、今日も午後からの授業が頑張れそうな気がした。



「コンシウ」

いつものように私に煙草の数だけ伝えてカウンターに来ると、ぴり、と携帯の音が響いた。「はい」でも「もしもし」でもない。表示された年齢確認の画面を曲げた人差し指の関節で押しながら、彼は電話に応えた。さっぱりとした応答にさえ、大人の余裕を感じてドキドキしてしまうから、私はまあまあ末期だ。
「コンシウ」は、彼の名前だと思うが聞きなれない響きに、さっぱり当てはまる漢字が浮かばなかった。電話の邪魔にならないように小声で値段を読み上げると、彼はお財布から一万円札を取り出す。それから、小さく手刀を切って、片目を細めた。「悪いな」の仕草。小銭がない時に彼はいつもそう言うのだ。私は口の形だけで小さく「いいえ」と答えた。お釣りが多いと、ちょっとだけでも会計の時間が伸びるから、むしろ嬉しいくらいだった。

「そろそろ仕事がほしい頃だと思ってな」「悪くない案件だろ」「依頼人、この前の。お前の仕事がいたく気に入ったらしいぞ」

お札を数えて渡す間に聞こえてくる会話を、脳内で文字に起こしてみるが、やはりどうにも怪しげだった。なんてことない学生生活を送る私には、縁遠い世界に住んでいそう。電話口に軽く請け合いながらレジを後にする後ろ姿に、声を潜めて「ありがとうございました」と呟いた。今日はたくさん声が聞けて、耳が覚えているうちに何度もその声を反芻する。
胸がそわそわした。鼓動はゆっくりだけど、いつもよりずっと軽快に弾んでいる。でもそれは恋みたいな可愛らしいものじゃない。あの人はどうやって女の子に呼びかけるのか、とか、どんな甘い言葉で誘うのか、とか。褒められた話じゃないが、そういう、ちょっと背伸びしてみたいという好奇心が、もうしばらくずっと、私の心に巣食っている。



その日は朝からずっと曇り空だった。降りそうで降らない宙ぶらりんな天気が、夕方になっても続いていた。祝日の今日はお客さんも少ない。小学生のお子さんのいるパートさんの代わりに入った夕方のシフトは、かなり暇だった。
いつ降り出してもいいように、売り物のビニール傘は入り口すぐ横に出してある。商品の前出しも、煙草の補充も、一通りやってしまった。あんまり忙しいと嫌になるのに、手持ち無沙汰なのもそれはそれでなんだか。
不要レシート入れから一枚拝借して、課題の締め切り順に書き出してみたり、レポートに書く内容を箇条書きに洗い出したりしてみるが、時計を見ても10分と経っていなかった。シフトが終わるまでには、まだあと30分。レシートとボールペンを投げ出して、後ろの台にもたれかかった。105番。ちょうど左手を突いたところの近くに、あの人の煙草があった。朝しか来ないのかな。そんなことを考えながら外に目をやろうとした時、示し合わせたかのようなタイミングで自動ドアが開いた。

「お、珍しいな。朝だけかと思ってた」

黒いスーツの肩に、小さな粒がきらきらとしている。いつの間にか降り出していたみたいだ。雨粒を払いながら、彼は私に話しかけてきた。

「代打なんです。祝日だからパートさんがお休みで」
「大学生?」
「はい」
「へえ、若いわけだ。…あー、じゃあ今日は3つ」

そう言って、彼は奥のレジに向かった。入り口に近い方は、防犯のために基本「レジ休止中」の札を立てている。たまに、そんなのは見えていないとばかりに頑として入り口前のレジでの精算を譲らない人もいる。
年齢確認のボタンを押してもらって、乗数ボタンで掛ける3。ぴ、という入力音と同じタイミングで、自動ドアが開く音がした。
ぞわりと全身に鳥肌が立った。なにかが、かたりと音を立てる。スキャナーが、それを置こうとしていた私の手と台の間から滑り落ちていた。
悪寒の正体がなにか、わかっているのに、顔を上げずにはいられなかった。

「待て」

その私を制したのは、彼だった。左手に3箱まとめて煙草を持ったままの私の手に、ずっと大きい手のひらが覆いかぶさっていた。

「振り向くな」

すっ、とその派手じゃないのに色気のある顔が近付いてきて、三白眼に絡め取られる。間近で、そう耳打ちされた。低い声色とかすかな煙草の匂いを感じる時間が、心なしかゆっくり過ぎていく感じがした。ぼうっとしていて、気付くと、「わかったな」と念押しするように見据えられていた。
考える間もなく頷いていた。

「いい子だ」

わざと悪ぶった調子で言うのを見て、彼がどういう人となりなのか、なんとなくわかる気がする。いつの間にか、ワタシの手は自由になっていた。私も無理やり口元だけで微笑んでみせ、途中になっていた会計を再開する。
その間も、目の前の彼と、恐ろしい気配を引き連れた客の間で、注意が行ったり来たりした。「xxxx」。肩に憑いているそれが言葉の体をなさない濁った唸り声をあげる。肩がびくりと跳ね、ついそれを目で追おうとすると、くす、と含み笑いが聞こえる。顔を向けると、ゆっくり首を振って、「やめとけよ」と言うように、呆れたような嗜めるような、そんな顔で彼が笑っていた。
結局、その悪いモノに憑かれた客が精算を終わるまで、彼は店に居た。

「お疲れさん」

ホットドリンクのコーナーから様子を伺うようにレジの様子を見ていた彼は、缶コーヒー2つを持ってこっちに戻ってくる。買って、一つを私に差し向けた。
いただけません、とか形ばかりの遠慮をする余裕はなかったので、戸惑った後、それを受け取った。間近で接した瘴気に、すっかり気が滅入ってしまっていたから。両手で缶を包むと、保温器から取り出したばかりのそれは熱いくらいで、でも、血の気のなくなった指先にあっという間に熱が伝わった。

「なまじ視えるってのも厄介だろ」
「そう、ですね」
「ああいうのには目を合わせるな。でなけりゃ、何されるかわかったものじゃない」
「お客さま、は、お詳しいんですか?こういうの」

彼をなんと宛てるべきか困ってぎこちなくなった。彼はそれに笑った。

「シウでいい」
「シウ、さん」
「おう。…で、まあ、あんまり深入りするのはやめとけ。ロクなことないぞ」

じゃあな、と呆気なく、彼は行ってしまった。あっという間に温くなったアルミ缶を握ったまま、シフトの終わるあと10分の間、しばらくぼうっとしていた。
2階の自宅から降りてきたオーナーが姿を見せると、ようやく交代の時間だった。もらった缶コーヒーは、なんとなくやましく感じられたから、後ろ手に隠した。
クリップで留めた髪を下ろして、パウダーとリップだけ重ねて、上着を羽織る。ちょっと疲れてるから、甘いものでも食べたいな。夜には飲みに行かなきゃいけないから、課題も進めないといけない。そんなことを考えながら、店裏に置きにいくためのゴミ袋片手に、お店を出た。

「なんだ。今上がりか」

裏口の手前、喫煙コーナーには、さっきのシウさんがいた。指の間からは煙が立ち上っていて、私に気付く直前は、雨を降らせる灰色の雲を、何をするでもなく鬱陶しそうに見上げていた。海外のサスペンスドラマ、一匹狼の刑事役として、その瞬間を切り取ってもいいくらいだと思った。
軒先からしとしとと雨水が滴っている。それが地面に打ち付けて、シウさんの革靴を濡らしていた。こんな日だと、喫煙スペースはあまり居心地がよくなさそうだった。

「シウさんは休憩中、ですか?」
「そんなとこだ。人を迎えに行くんだが、連絡寄越さねえから待ちぼうけってわけ」
「じゃあ、私も、少しだけここにいてもいいですか」
「いいけど、若い女の子に遠慮して煙草消してやるとかできないぞ、俺」
「気にしません」
「あっそ」

裏手口にゴミだけ置いて戻ってくると、シウさんは灰皿を挟んだ反対側に移動していた。遠慮しない、なんて言うけど、そっちは風下だ。譲られた風上に立って、もらった缶コーヒーをカバンから取り出す。財布と家の鍵に混じって、折り畳み傘と目があった。使ってほしそうに見てくるのを無視する。今しかないんだから。
勇気づけるように、缶のタブを開けた。雨にしっとりと冷たい外気には、喉を通るコーヒーはまだほんのりと暖かく感じられた。

「シウさん。シウさんと、仲良くなりたいんです」
「…こんなおじさんやめとけよ。お前、かわいいんだから」
「連絡先、だめですか」
「大胆だな、なまえチャンは」
「あれ、名前、なんで」
「店のじいさん。孫の店長はボンクラだけど、バイトの大学生は気立がいいって」

そう言うと、シウさんは煙草を持ち替えて、空いた方の手で携帯を出すように示した。慌ててロックを解除して渡すと、画面の上を手際よく指が走っていった。そのうちに、電話番号を押すプッシュ音がしてくる。メッセージのアプリじゃないあたりが、自分の世代とのギャップを知らしめるようで、それにまた胸が高鳴った。
無骨な手元を眺めていると、シウさんの携帯が鳴った。ワンコールだけ響いて、すぐに切れた。

「あんま期待せずに待ってるな」

発信履歴の、見慣れない番号を眺めていると、煙草の消える、じゅ、という微かな音がした。顔を上げると、シウさんはもう曇り空の下にいる。
車に乗り込む時、こっちに目配せしてきた。上を指差して、雨止んでるぞ、と。

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