booking


はじめの印象。まあラッキーかな、くらいのものだった。
任務地、辺鄙なド田舎。しかも一回きりでは終わらなくて、定期的に通わないといけない系の、地味にメンドくさいやつ。
伊地知さんが取ってくれたビジネスホテルは、こんなところ逆によく宿泊施設があるなと思えるくらい、周りは田んぼと畑と、しなびた公園やらすたれた工場。だから、期待なんてしちゃいなかった俺は、従業員のお姉さんが若くて綺麗なことに、その”ラッキー”を見出したのだ。

「あ、猪野さん、おかえりなさい」

手で押すタイプの扉。押す、の表示に従って、奥に向かって開くと、靴箱の掃除をしていたそのお姉さんが振り返った。

「なまえさん、ただいまです」

手癖で帽子を手繰りつつ返すと、なまえさんはフロントの向かいを指差した。

「食堂、ちょうど開きましたよ」
「アジのフライでしたよね、今日。楽しみにしてたんで」
「じゃあちょうどよかったです。今なら揚げたてですよ、きっと!」
「まじすか。先風呂行こうと思ってたけど、このまま食べにいきます」
「それならお部屋の鍵は後で食堂に持っていきますね」

と言って、俺が玄関を上がるためになまえさんが靴箱の前から少し移動する。
ここは古いビジネスホテルだから、靴のまま上がるスタイルではなく、逐一靴を脱がないといけない。ブーツだからしくったな、と初日は思ったが、通い詰めて1ヶ月、5、6回目のチェックインを終えている今、俺ももう慣れたもので、手早くブーツを脱いで、上がり框に足をかけた。

「あれ、猪野さん、お怪我されたんですか」
「え?…あー、ちょっと引っ掛けちゃって。でもすぐ治るんで」

大丈夫っす。言いながら視線を落とす。スウェットの裾から包帯が覗いて、しかもちょっと血が滲んでいる。呪術師だから怪我は慣れっこなのもあり、手当も雑に済ませていたのが駄目だった。やっと見つけたコンビニで適当に買ったガーゼと包帯が入っているビニール袋が、かさ、と音を立てた。

「マジで大丈夫なんで」

顔の前でなんてことない、と手を振りながら、なまえさんが出してくれたスリッパに足を入れる。着古したスウェットはゴムも弛んできていて、すぐにすとんと足首を覆い隠した。

「この前もお顔、怪我してませんでした?ほら、頬のあたり」
「おっちょこちょいなんすよね、俺」
「…早く治るといいですけど」
「あざます」

心配そうに見てくるから申し訳なくなって、俺はそそくさとフロントを後にした。
廊下の奥の方から、俺の好物のいい匂いがしてくる。18時05分。この時間から食べ始めれば、ちょうどなまえさんも休憩に来るだろう。それを考えると、足の怪我なんてもう頭になく、浮き足立って食堂の入り口に向かった。



「猪野さん。はい、お部屋の鍵」
「あ、助かるっす!ありがとうございます」
「いーえ」

と、軽く請け負うなまえさんは、さっきまで来ていた紺色のカーディガンを脱いで、腕も少し捲っている。腕時計で余計に手首の細さが際立っていて、ちょっとドキッとした。

「なまえちゃん!お夕飯!」
「はーい!」

食堂の厨房からおばちゃんの声が響いた。カウンターに俺が食べているのと同じ定食のトレーが置かれ、そこに、おばちゃんがよそったたばかりの熱々の白米を乗っける。

なまえちゃん、チェックイン終わったの。
まだあと一件あるけど、遅くなるって電話があったし、ちょっとゆっくりしちゃおうかな。
そうしてきな。あんた、昨日も遅くまでいたんでしょ。
だって職人さんたち、23時くらいに急に帰るって降りて来たから忙しかったんだもん。

そんな会話が聞こえて来て、俺は食堂を見渡した。いつもは大体、いかにもそんな感じで首にタオルを巻いたおっちゃん達が何人かいたが、今日はがらんとしている。なんなら俺一人。
内心うきうきしていると、すっと人影が落ちた。トレーを持って、なまえさんが横に立っていた。

「隣いいですか?」
「うす!来ると思ったんで、空けときました」
「またまた。そんなこと言って」

なまえさんはそう言うけど、本当だ。
どうやらここのお客さんたちからするとなまえさんはいわゆるマドンナというやつらしく、玄関の様子がガラス越しに見えるこの席は、客たちの暗黙の了解でなまえさん専用になっているらしかった。
2回目に泊まった日、俺は今日と同じように18時ごろにホテルに戻り、腹が減りに減っていたから食堂に直行した。その日は、なまえさん含めスタッフさんたちが言うところの職人さんが何人もいて、そこそこ賑やかだった。
食堂の席は、カウンターに対して並行に、長テーブルが等間隔で3台。カウンターで受け取ったカレーの盆を持って、俺は鳴りそうになる腹を堪え、出入り口に一番近い、その隅っこの席に座ったのだった。その時。
おい、にいちゃん。
不意に、真ん中のテーブル、ちょうど向かいに座っていたおっさんに呼び止められた。米にがっつく準備は万端だった俺はちょっと鼻白む。が、顔を上げて見渡すと、その声を呼び水にして、まばらに座っていたおっさんたちがいつの間にか一斉にこっちを見ていた。

「そこ、フロントの姉ちゃんの席」

え。そんなのあんの。
と思いながら、その“フロントの姉ちゃん”の顔を思い浮かべた。チェックインの対応をしてくれた人だというのはすぐにわかった。

「まじすか!そりゃダメっすわ、すんません」
「…いーよ。あんた来たばっかだろ。なまえちゃんの横、今日だけ許したるわ」

と、大将らしきおっさんは、さっきまでの声色と打って変わってがははと大きく笑った。横のおっさんズも同じように豪快に笑って、しばらくすると仲間内の談笑に戻っていった。
突然止められたかと思えば、また取り残された俺は、ちょっと微妙な気分になりつつ、お姉さんの席というやつからひとつ間を開けて座り、さーて気を取り直して飯だ、と手を合わせる。そんなところに、ちょうどなまえさんが来たのだった。



「て感じで、なまえさんの席らしいんで」
「えー!そんなことがあったんですか。お客様優先なのに」

いただきます、と手を合わせながらなまえさんは少し恐縮していた。そんなところが威張ってなくていいんだよなあ、としみじみと感じ入りながら、俺はアジフライの最後の一口を口に放り込んだ。
なまえさんはといえば、綺麗に三角食べをしている。七海さんみたいだな、とちょっと思った。
それから、隣に並んで座ると、結構小柄な印象だった。フロントの内側は一段高くなっていたようで、そこまで意識していなかったが、なまえさんが持つ茶碗は自分のものよりひと回りくらい大きく見える。しかも間近で見ると、お姉さん、と言うけどかなり若い。

「いくつなんすか、なまえさん」
「えー、それ聞きます?」
「あ、すんません、俺まじでこういうところあって、よく先輩に怒られて」
「あはは!大丈夫です、本気で怒ってませんから」

脳内で勝手に流れ出す七海さんのため息ダイジェストに気落ちしていると、なまえさんは大きすぎない声で軽快に笑った。それがまた、なんていうか、おっさんが夢中になるのがよくわかる無邪気さで。

「21ですよ」
「え!じゃあタメすか」
「あれ。タメ、ですか。今度22歳なんですけど」
「おー!やっぱりタメ!」
「わあ!ていうか猪野さん、お若いですね」
「いや、なまえさんも同じくっすけどね」
「あは。まあ、そうなんですけど、毎週のように出張に来られてるし立派だなって」
「いや、出張つってもですよ。掃除、してるだけなんで」
「ほう、お掃除ですか」
「うす、お掃除デス」
「じゃあ、いつもお仕事お疲れ様です」
「なまえさんも」

と、俺はお茶の湯飲みを乾杯のふりで掲げる。もちろん、本当に湯呑みをかちんと言わせるわけではないけど、俺に合わせて麦茶を持ち上げたなまえさんはこんな調子でノリもいいから、はじめは結構きつい感じの美人かと思ったけど、その印象はここ数回の宿泊ですっかり薄れていた。
それどころか、俺の好意は増すばかりである。


昨日はよく仕事をしたから、今日は一日休息日として高専に申請していた。お掃除の人が部屋に入る間、フロント前の待合で普段読みもしない新聞にでも目を通してみようかと階下に降りていった時だった。
そこには、着物姿の女性がいた。それがなまえさんだと気付いたのは、その人がこっちに向かって朝の挨拶をしてきたからだった。
なまえさんがいつもいるフロントの中には、一度見かけたことのあるおばあさんが一人。引き継ぎの途中だったのだろう。俺に断って、奥に向かって二言三言、言葉を交わした後、よろしくお願いしますねと付け加えると、なまえさんは俺に向き直った。
聞くと、なまえさんは華道をやっていて、今日はその展示会があるのだという。なるほど、そんな感じするわ。フロントの待合や客室フロアの片隅に、綺麗に生けられた花があったなと思い至り、もう一度なまえさんの着物姿を見て、俺は納得した。

「では、行ってきますね」
「はーい、いってらっしゃいませぇ」

いつもは言ってもらう側の俺が間伸びした声で真似てみる。くすりと笑って、いってきますとなまえさんは返してくれた。
俺はその姿を見送って、しばらくフロントの前に突っ立っていた。和装の女性は、生まれついてからずっと呪術界にいる俺にしてみればそう珍しいものでもないが、今時の綺麗なお姉さんとなると話は別だ。
なまえちゃん、ええ子でしょう。
後ろから不意に声を掛けられて、俺はつい口走った。

「めっちゃ優しいっすよね。あとかわいい」

それに気を良くしたフロントのおばあさんが、なまえさんの気立の良さを自慢げに語るものだから、俺もうんうんと頷いて聞いていた。たまにこちらから質問を挟むと、それをまた嬉しそうに、そうなのよ、と話が展開していく。
なまえさんはここのオーナーのお孫さんで、中学生の頃からよく手伝いに来ていたらしい。だから、常連のお客さんたちからも大層可愛がられているのだと。
あんまりに話が長いものだから少しまずったなとは思ったものの、ちょうどいい時間つぶしではあったし、なまえさんのことが知れるのは嬉しくもあった。
ようやく話が終わる頃、フロント脇の待合にある小さなテレビは天気予報を告げていた。夕方から夜にかけて雨。何の気なしに聞いていた俺は、なまえさんの後ろ姿を思い出していた。左手には風呂敷で包んだ荷物。右手は、あれ?
そうして、予報よりも早く、昼下がりから雨は降り出した。職人さんたちが一旦帰る、といってチェックアウトしたのは、そういうわけだったか、と俺は昨日の話を思い出す。なまえさんは何時ごろに帰る予定なんだろう。そんなことを考えながら、ホテルにあるランドリーで乾燥まで終えた服を抱えて、俺はフロントの前を再び通りすがった。



小さな無人駅の改札口を出てすぐ、ぼろい駅の軒下でなまえさんは困ったように雨雲を見上げていた。それから傘を差して歩いてくる俺に気が付いて、驚いたように目を見開いた。
なまえさんは、今朝見た時と同じ、淑やかな着物姿だ。

「え!猪野さん、どうしてこちらに?」
「や、なまえさんが傘を持って出てないって、おばちゃん方が慌ててたんで」

お迎えに上がりましたヨ、と戯けてみるとなまえさんはあたふたと焦っている。お客さんなのにそんな、とかなんとか言っていたが、こんな機会逃すもんかよ、と俺が勝手に役を買って出たまでだ。着物濡れちゃダメでしょ、と一押しすると、なまえさんはようやく俺が携えてきたもう一方の傘を受け取った。

「なまえさん、まじで愛されてるんすね。急に雨降り出して、それ見たフロントと食堂のおばちゃん、真っ先になまえちゃん!って」
「ひゃあ、お恥ずかしい。でも、皆さん、私のこと孫みたいに思ってくれてるみたいで」
「そりゃ、こんだけ可愛いんすもん、心配にもなるわ」

俺が言うと、なまえさんは「またまた」と語尾を伸ばして誤魔化す。これはなまえさんの口癖というか、褒められたりした時にいつも使う謙遜のパターンの一つらしい。
ちなみに、俺は「お綺麗」と言うか「可愛い」と言うかで一瞬迷って、やっぱり後者にした。それはもちろん、距離を詰める気で来ている以上、存分に匂わせていかにゃならんからである。
歩き出すと、雨脚は強くはないが収まってもいない。なまえさんに話しかけたい俺は、傘がぶつからない程度に近くを歩いた。

「んで、彼氏いないんすか」
「あれ。また先輩に怒られるんじゃないです?」
「いやぁ、まあ、怒られてでも聞いておきたいとゆーか」
「はは。…まあ、出会いはありませんね」

つまりそういう人はいない、と。ほほう、と俺はまず第一関門をクリアしたことに手応えを感じた。彼氏がいないのはもちろんのこと、適当に嘘をつくこともできたろうになまえさんはそうしなかった。それはつまり、話を展開されるのもやぶさかじゃないから?

「言い寄られたりとかないんすか、お客さんに」
「たまーに」
「今の俺みたいに?」
「あら。言い寄ってこられてました?」
「っす」
「うーん。お客さんとはなかなか」
「今、なまえさん、オフだと思って言ったんだけどなぁ。しくったっすね」
「…あは」

照れ笑いで誤魔化したなまえさんを見ると、傘が上手いこと顔を隠した。わざとそうしたんだと思った。滑り出しは好調なんじゃないか?
俺はいよいよ心臓が高鳴ってくるのを感じた。

「俺、なまえさんのこと結構まじで気になるんすけど」
「なるほど、猪野さんは私のことが気になるんですね」

なまえさんはおうむ返しで請け合った。きっと、肯定も否定もしないでのらりくらりとやりすごすことで、これまでも切り抜けてきたのだろう。そういうことならば、今の対応は他の客にするものと同じと判断できるわけで、となると俺は少し早まったのかもしれない。
というのが、冷静な状況判断。だがしかし、恋愛においてはぐいぐい行くのがが俺のやり方。ここは譲れないし、止められないというのが正直なところだった。

「なまえさんは?」
「うん?」
「どう思ってます?俺のこと」
「…いい方だなぁ、っていうくらいには」
「お客さん、って言わなかったすね、今」
「あ」
「オッケーっす。憎からず思ってくれてると」
「ちょ、っと待って。早い早い」
「違うんすか」
「え、違くはないですけど、」

うんうん。なまえさんは真っ向勝負にはいかんせん弱いらしい。口を滑らせたと気付いて、焦って俺を見上げた顔はちょっと赤い気がするし、俺と目が合うと、ぐっと息を飲んで固まっている。ぱたぱたと雫がなまえさんの傘から滑り落ちていった。
俺の方を仰ぎ見ているために傘を傾けたから、なまえさんの足元には雨が降りかかっている。少し距離を詰めて、俺の傘が被さるようにしてあげる。きゅ、と自分の傘の柄をにぎりしめた細い指先に勝機の予感。俺はもう一歩、なまえさんの方に踏み込んだ。

「デート、行っちゃいません?」

傘と傘の間で、俺の声は聞き逃しようがないくらいしっかりと響いた。
歩道の脇を、軽トラが一台滑り抜けていく。ざあっという音が遠くにいってしまうと、雨音が沈黙を繰り出した。
なまえさんは迷っていて、口を開こうとしてはきゅっと瞑って、というのを2回くらい繰り返していた。なまえさんの瞳は、天気のせいか潤んで見える。心臓がこれでもかという程どくどくと強く打ちはじめ、聞こえてしまうんじゃないかと錯覚すると、俺は今になって及び腰になった。

「…ダメすか、その、一回でいいんで。そんで、俺といんの楽しいなって思ったら、もっかい遊びに行く、みたいな」

何の足しにもならないと知りつつ、帽子の縁を少しだけ手繰った。いつも飄々としてるのが俺の良いとこじゃないのかよ、と自分を叱咤してようとも、どぎまぎするもんは仕方ないんだなあ、これが。
低気圧のおかげで古傷が焦れたようにくすぐったかった。

「無理にとは言わないんで」
「じゃあ、まず、一回だけ」
「そっすよね、さすがに客とは…え、えぇ?!」

俺のわけのわからん動転の仕様を見て、なまえさんも驚きつつ少し呆れを滲ませていた。が、「まじでいいんすか」となんとか絞り出した俺を見るや、ふっと表情を変え、ついには堪えるように笑った。

「言質とりましたよ、俺、マジでいいんすね!」
「はい。行きましょう」
「…っしゃああ!」

快哉を叫ぶってこんな感じを言うんだろう。雨が降っているのも忘れて、俺は傘ごと両手を高く掲げた。ぼたぼたと傘に乗った雨粒が落ちてきて、慌てて引っ込める。なまえさんを見ると、俺の喜びように困ったようにはにかんでいた。

「まずはホテルに帰りましょうね」
「うす!」



そんなこんなで、ついに2回目のデートの約束まで漕ぎ着けた俺は、七海さんに報告すべく電話をかけるのだった。
第一声の代わりに呆れたため息が聞こえてくるのは、数秒後のことだ。

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