世俗的調教
彼から声をかけてくるとは珍しい。「おい」という低い声が、どうやらご機嫌斜めであると語っていた。
「昨日は何をしていた」
「昨日? 友達と出掛けてたけど」
「一日中か」
「うん」
「それは男か」
会話の意図を測りあぐね、なまえは戸惑った。何かやらかしただろうか。いや、流石にそんなはずはない。ソファの背から首だけ傾けて聞いていたが、なまえは姿勢を直して、背の方に立つ脹相と向き直った。大きな図体と脱力した腕。影になっている中で、薄く赤みを帯びている瞳がじひじりと圧をかけてくる。機嫌が悪いので尚更威圧感がある。
「ごめん、よくわからないんだけど、何かあった?」
「男かと聞いている。答えろ」
「男じゃないよ。女の子」
「なぜ出掛けた?」
なぜって、それは前々から約束があったからに他ならないが、表情も声色もかなりご立腹なのをよく表していて、なまえはとにかくこちらに来て、と脹相をソファに招いた。どか、と脹相が腰を下ろす。しかも、広さは十分にあるというのに、なまえを手すりとの間に追いやるように幅を詰めて座るので、沈んだソファのおかげで彼に寄りかかってしまいそうだ。作為ないボディタッチを装って肩に触れつつ、体勢を直して残されたスペースで距離を取った。なまえの動作に視線を動かしたので、それさえも気に食わないらしい。
「なぜ昨日である必要があった」
「だから、約束してたって言ったでしょ。なんで怒ってるのって」
剣呑な空気を和らげようと、腕に触れ、おどけたように聞いてみる。黒々とした眉は元々下がり気味なのに、眉を顰めるとさらに下がって、眉の辺りの影が濃くなった。むしろ逆効果だったようだ。元来の彼のおどろおどろしい目元が、なまえを睨みつけていた。沈黙が痛い。なまえも黙りこくって原因を探すが、考えども考えども、詰られる理由に本当に心当たりがない。
「言ってくれなきゃわかんないよ。教えて」
「今日は15日だが」
「…うん?」
「2月の15日だ」
「もしかして誕生日だった?」
「俺に誕生日などあるわけがない」
「…あ、録画忘れてたとか?」
「それはお前が楽しみにしているドラマだろう。俺は観てない」
「なによ、一緒になって観てるくせに」
「話を逸らすな」
素気無く言い放たれ、なまえはしぶしぶ調子を抑える。ソファと脹相との間の狭い空間で、なまえは頬をかいた。実は、会話の中でついに一つ、思い当たることがあると気付いていた。
「…もしかして、バレンタイン?」
「遅い」
ぎろ、と鋭い一瞥を喰らうが、いやいや、どうして責められなきゃいけないのだ。そんな世俗的な慣習においてまで現代に親しもうとする姿勢は良いこと(?)だが、自分の暮らしに落とし込む必要は一切ない。真人の入れ知恵か。
「そういう日だろう、バレンタインというのは」
「女から男にチョコを、ってこと?」
「女が、好いている男に、だろう」
「私に好いている男がいる?」
「俺じゃないのか」
両膝に肘を預け、ずい、と身を乗り出して上目遣い。体の持ち主の手管だろうか。だとしたら、なかなか罪深い男だったはずだ。ええ、と戸惑いの声を上げながら、泳ぐ視線をなんとか脹相の元に連れ戻す。脹相の浅い目つきが自信を湛えていた。そもそも彼に対して嘘をつく機会が多くないだけに、目を見ていると、色々と見透かされているような感覚に陥る。なまえは自然な体を装って視線をずらした。
「隠すな。お前の好意を無碍にする気はない」
「自信あるんだ」
「お前の態度を見ればわかる」
「すごいね。人間の機微がわかる?」
「お前がわかりやすすぎる」
ロマンチックもへったくれもない。突き刺すような視線を遮ろうと顔の横で手を振ると、ぱし、とその手首を取られた。なるほど。こういうことをするのか。未だ目を見れないなか、なまえはこっそり頬の内側を噛んだ。血の気のない男の手が、自分の手首を締め付けている。受肉して間もないころは、加減を知らない力の強さにぞっとさせられたこともしばしば。指先が真っ白になるまで腕を握り込まれた時には思わず悲鳴を上げたものだ。根気よく教えたのが仇となったか。
「…力加減」
「問題ないはずだ」
「そもそも女の子の手を掴んだりしちゃダメなの」
「時には強引さも必要なのだろう」
やっぱりちゃんと観てるんじゃないか、ドラマ。確か、この後、押し倒して行為に持っていくシーンがあったが、まさかそこまで再現するつもりだというのだろうか。
「とにかく、期待してたならごめんね」
「許さん」
「ええ…」
許さないもなにも、過ぎたものはどうしようもない。手を引っ込めようとすると、同じだけの力で引き戻されて、拮抗する。というより、どんどん彼の方に引き寄せられている。する、と反対の手が伸びてきて、顎を掴まれた。順調に強引だ。無骨な指が頬に食い込んで、彼の方に向かせようとする。させるものかと踏ん張るが、狭いソファの上では限界があった。近づいてくる顔に目を瞑る。
「こっちを見ろ」
「むり!」
閉じた瞼に影が差す。女を襲うなと、誰か教えてやってくれ。たとえそれが、自分に好意がある相手で、襲われる本人が、実はやぶさかでないと思っていようとも。不意に手首が自由になって、思わず目を開けた。それがいけなかった。目の前には、端正な顔。わ。素敵。一瞬見惚れてしまい、その隙に脹相の体が覆いかぶさった。
「顔を隠すな」
「恥ずかしい気持ちくらいあるの!」
「そんな奥ゆかしい女でもないだろう」
失礼な、という抗議は口づけによって押しとどめられる。重なった唇に驚いているうちに、両脚を掬い上げられると、支えるように肩に手が回る。その間も角度を変え、舌を入れ、脹相はなまえの口内を弄んだ。頬の内側を、つつ、と舌先が這う。背筋がびりびりと快感を予感させると、なまえはすがるように脹相の法衣を掴んだ。それをよしと受け取った脹相が、なおも体重をかける。なまえは身を縮めてそれに応えながらも、高まる興奮に喘いだ。
「…脹相、だめだって」
「お前が知らぬふりを決め込むのなら、こちらからその気にさせるまでだ」
長い腕がなまえの体を這う。脇腹から忍び込む冷たい手に、反射的に体が跳ねると、その無表情の上でわずかに口角が動いた。好意がなんだ、奥ゆかしさがなんだ。再び口付けられて息も絶え絶えになりながら、なまえはよそごとを考える。気があるといったって、そんなに可愛らしいものではない。体はすげ替えただけの代物かもしれないが、何がこの男を好きたらしめたかといえば、気だるげでいながら激情を隠し持った、そのまごうことなき人間臭さだ。
ふと表情を緩めた時の目元だとか、眉の下がり方とか、自分に触れる時の加減に戸惑ってみせたりだとか、そういったことが胸をくすぐるだけで、好きだといえるのか。…まあ、たしかに、十分すぎるかもしれない。
「…、わかった、わかったから、離れて」
「何がわかったんだ」
「その、脹相のことが、ってこと、について…」
じ、と見つめられたままそれを言うのは実のところ耐えがたかったが、これ以上体を暴かれて、なし崩しになるのは、自分、いや自分達の性分ではない気がした。いや、そもそも彼が、このまま自分を抱くとも思えなかった。それもなんだか、口惜しい。覆いかぶさったままの脹相の胸に手を当てて、待ての格好に甘んじる彼は、ただ、こちらの言葉を待っている。
「えっと…、脹相のこと、ちゃんと、好きだよ」
「…そんなもので埋め合わせをしたつもりか」
冷たい言葉とは裏腹に、脹相の顔は穏やかなものになっていた。顎を捉えていた手が頬に伸びた。耳まで覆うほど大きな手が、なまえの頬を撫でたかと思うと、親指と人差し指につねられた。
「だが、まあ、悪くない」
さて。良し、の合図といこうか。
back
ALICE+