兆す春


毎週この日は定時で上がれる。冴えない気持ちで鞄に荷物を詰め、なまえは同じく退勤の支度をする同僚にお疲れ、と挨拶して先に職場を出た。頑張ったのにすっきりしない。このところ毎日こんな気分だ。エレベーターに乗り込むと別の課の上司。面白くもない世間話にうんうん、と相槌を打ちながら、さっさと降りないかと階数をちら見。解放された頃にはどっと疲れが溢れた。無性に彼に会いたくなるのは、こういう時だった。

ようやく一人になったエレベーターで、携帯を開く。メールが2件、迷惑メールと最近利用したネット通販のサイトから。彼からは着信もなければメッセージもない。付き合い初めの頃はよくお疲れ様、だとかそんなメッセージが退勤時間になると送られてきて、いい歳して舞い上がったりしたものだが、もう何年も彼氏彼女をやっているのでその手の初々しいやりとりは多くない。お互い忙しくしているし、何を隠そう、喧嘩中なので、そもそも期待するのはお門違いだった。

どちらかというとなまえに非があった。取り立てて大きな火種でもなかったが、そこそこ長く燻っている。謝るタイミングはことごとく逃した。せめてこのまま自然消滅するのだけは避けたいと思っているが、それももう手遅れかもしれない。
顔見知りに何回かお疲れ様、と言ったり言われたりして、ビルのエントランスを出た。
少し日が伸びてきたので外はまだそこそこ明るいが、寒さだけは健在だ。誰かと飲む約束でもすればよかった。寒さが虚しさを連れてきて、なまえはマフラーに顎を埋めた。

「お疲れ」
「お疲れさまで…、あ。」

てっきり上司かと思って挨拶を言いかけ、なまえは驚きに立ち尽くした。ビルの入口の脇に立っていたのは、他でもない、加茂憲紀だった。その髪は短くなって久しい。黒いジーンズに黒いコートの出立ち、両手にはコーヒーを持っている。だがそれ以上になまえの心を揺らしたのは、彼がちゃんと、なまえがいつか贈ったマフラーを着けていてくれたことだった。一昨年の冬かな。忘れてしまった。
会いたかったはずなのに間の抜けた、「あ。」を言ったきり、言葉が出ない。困ったな、まったく予期していなかったものだから。立ち尽くしていると、後ろから出てくる人の邪魔になっていたようで、彼にそれとなく促されてそちらに寄った。

「コーヒーでもどうだ。少し冷めてしまったかもしれないが」
「…いただくね。ありがとう」

コンビニのコーヒー、大きいサイズ。受け取ると、まだしっかり暖かいし、もし仮に冷めていたって、今のなまえには美味しく感じるに違いなかった。

「久しぶりだな。元気そうで何よりだ」
「憲紀くんこそ」
「…俺は元気そうか?」
「あなたの言葉に倣うならね」
「では君は元気じゃないと?」
「元気じゃなかったよ」
「そうか」

ゆっくりと歩き出しながらコーヒーを飲む。自分がいつも買うのとは少し風味が違うので、これはたぶん、なんとかプレミアムとかいう、20円くらい高いタイプのやつだろう。いつもよりコクの深い香りを感じる。些細なことなのに、彼が自分のためにコンビニで買ってくれたのだと思うと、くしゃくしゃに絡んだ感情など簡単にほぐれていった。口をついて出たのは、今の、一番正直で、なによりも先に明確にしたい気持ちだった。

「…このまま別れたくない」
「そんな気はさらさらないから安心するといい」

目尻を細めた横顔に、ほっと心が軽くなる。同時に、鼻の奥がツンと痛くなった。くだらない意地など、とっとと丸めて捨ててしまうべきだったのだ。腕に抱きつきたい気分だったが、さすがにそれは調子に乗りすぎと言うものだろう。なまえは、道端のゴミを避けるふりをして、少しだけ二人の間を詰めた。

「ごめんね」
「久々に君に会えた嬉しさで、忘れていたな。気にするな、こちらも大人げなかった」

高い眉骨の下で、細い目もとが穏やかに笑いかけた。こうして彼は、いつも人をつけ上がらせるのだ。自分だけが、彼の優しさを目一杯浴びさせてもらえるのだと。

「しかし、さすがに君に甘すぎるだろうな。仕事の愚痴を言う電話がいつ来るかと思っていたんだが、待てど暮らせど来ないものだから、とうとう迎えに来てしまったんだ」

彼の手が伸びて、髪に触れた。慈しむような表情が、なまえをまた言い知れない幸福に包んだ。そのままその髪を耳にかけると、不意に彼が足を止めた。通行人が傍を通り過ぎていく。彼が何も言わない間、ちらちらとこちらの様子を伺いながら何人か過ぎ去って行った。なまえの手を取って、彼が沈黙を破った。

「なまえ、結婚しようか」
「…え?!」
「それなら、たとえ喧嘩しても離れることはできないだろう」
「そうだけど、」
「返事は今じゃなくていい。ゆっくり考えてくれ。実のところ、こんなところでこれを言うつもりはなかったんだが、君の顔を見たらつい、な」
「…結婚したらまた喧嘩も増えるかも」
「夫婦になるんだ。それも当然、覚悟の上だよ」

彼に掬い上げられたままの手に視線を落として、なまえはただ顔を赤くするしかなかった。いつからその気でいたのだろう。正直、なまえ自身も考えていなかったわけではない。だからこそ、言い合いをして以降、音沙汰なかった二人の間が、辛くてどうしようもなかった。今こんなにも幸せな気持ちになってしまって、その温度差の激しいことと言ったら。

「君の家に着いたら、仕切り直すつもりだ。その時には君の考えが聞きたい」

手の甲へのキスこそなかったが、繋ぎ直し手を引いて、彼は再び歩き出した。ひゅう、と冷たい風に後押しされて、なまえは彼の腕にひっついた。「コーヒーが溢れる」という小言も、何もかも好きだった。スキップしたいくらい。答えを思案する必要などどこにもない。返事はもう決まっている。その気持ちを込めて、繋いだ手にぎゅっと力を込めた。家まではまだ少しある。春の兆しを見せる夕日に、とびきりの返事をしよう。


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