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結局あのやりとり以降、ほとんど連絡を取り合うことがない。それらしい理由を探すと、彼が昇級審査中で多忙を極めていたから、というのがあるが、結局のところ二人して淡白なのだ。つい最近準一級に昇格した事も、彼から聞いたわけじゃない。
あの一連の出来事は残暑厳しい時分だったので、夜は随分涼しく感じられるようになった今からすると、ひどく懐かしく感じられた。
ーー
任務で負傷した。派遣先は関西にほど近い場所だったので、東京校に引き返すのではなく、京都校に担ぎ込まれた。
治療を終えて、目を覚ましたのは深夜だった。回復の具合も順調のようで、医務室の固いベッドでは休まらないから、と校医に付き添われて管理棟を出た。秋の丑三つ時は思った以上にひんやりと冷たく、腕を掻き抱いて、なんとはなしに暗い辺りを見回す。東京とはまた趣の違う京都の空気に、やけに鮮明に狩衣の彼の姿が思い出された。
会いたくて胸を焦がすというよりは、馴染みのある人間の存在というだけで恋しかった。傷はすっかり癒えていても、負傷したという事実は、たとえ落ち度のないものでもどこか澱のように心に沈殿するのである。おまけに知らない場所である。寄る辺を求めようとする自分の弱さを、今日くらいは認めてやりたいと思った。
女子寮ということで気を使ったのだろう、男性の校医は寮の手前まで私を送り届けて、去っていった。教えられた通りの部屋に向かおうと二階まで上がったが、感傷的になっている自分を自覚してしまった以上、知らない部屋で眠るのは心許なかった。移動で目も冴えてしまっていた。案内してくれた校医には悪いと思いつつ、中央の校舎に引き返して給湯室を探した。造りは大して変わらないので、当たりをつけてうろつけば、目当てはすぐに見つかった。
予想外だったのは、この夜更けにも関わらず、ついに加茂憲紀と鉢合わせてしまったことだ。
「動いて大丈夫なのか?」
向かいから駆け寄ってくる彼と目を合わせるのに少しばかり勇気がいった。三ヶ月の月日に、整った面立ちは一層精悍な風情を強めていた。
「五条さんから連絡があって心配していた。思ったより元気そうで安心した」
「……加茂さんは、任務帰りですか?」
少し汚れのついた狩衣に、頬の擦り傷が確証だった。「長引いてしまって、今帰ったばかりだ」。そう告げられながら、連れ立って給湯室に入る。蛍光灯が一、二度危うげに明滅したのち、灯った。
「水を飲みにきたのか? 用意する。座っているといい」
お言葉に甘えて示されたソファに腰掛けた。
勝手知ったる共有スペースを迷いなく動く加茂さんに、初夏の邂逅が蘇る。
「コーヒー、結局買えなかったですね」
「ああ、それが心残りだ」
「送りましょうか?」
水の入ったグラスを差し向けた彼の、しっかりと目を見据えられる。
「いや、それはまずい」
「うん?」
「五条さんに聞いたのだが……御三家を中心にした呪術界の中枢では、どの家が君を娶るかという話題があったらしい」
「しょうもない」
「まったくだ。……だが、そういう理由で、表立ったやりとりがあるとあらぬ噂が立ちかねない」
さっぱりと言ってのけた横顔は、しかし憎々しげに歪んでいた。
彼はその出自のためか、それを表明することはなくとも、いわゆる呪術界に蔓延る旧態依然の価値観を、醜悪なものだと認識しているようだった。
当家の先代はずっと、旧家の肩書に執着のないような振る舞いをしてきた。本家としての矜持だとかにも別段こだわりはないようで、血が途切れるならばそれもまた無常なり、とは彼の遺言だ。
が、当主不在となった名家を放っておくほど、呪術界の俗悪の部分は温くない。五条悟の言う魔窟は、御三家に並ぶ歴史を持つ家の一人娘を取り込んで、強者らしい征服欲を満さんとしているのだ。
「……暖かいものでも入れよう」
考え込んでしまった私を見兼ねたように、声を掛けられた。
さっき求めた寄る辺が、いま目の前にあった。
「コーヒー、加茂さんに、淹れてほしい」
「……眠れなくなるだろう。それに今はインスタントしかない」
「それでもいい」
「なら私も付き合おう」
「眠れなくなっちゃうでしょう?」
「いいさ」
コーヒーを落とす彼の澄ました手つきを見れないのは惜しかったが、彼と過ごせるならインスタントだろうが何だろうが構わなかった。インスタントが受け付けないような高尚な舌でもない。
淹れてもらうのに、私ばかり座っているのは申し訳なく、何を手伝うわけでもないが、シンクに立つ彼の横に並んだ。
少し驚いたようだったが、「座っていればいい」などという野暮なことは言ってこなかった。
彼は粉末に湯を注いだあと、きちんとかき混ぜるタイプなのだな、とスプーンを持つ手を眺めていた。
「淹れる人が良いから、美味しい」
「あまりおだてないでくれ。湯を注いだだけだ」
あなたも大概なことを言っていた、とは言わないでおいた。
ソファに戻る雰囲気にもならず、立ったまま二人してシンクに凭れて、コーヒーを啜った。
「不愉快でなければだが……君はどうするつもりなんだ」
彼にしては珍しい抽象的な言葉選びは、慎ましい性格の表れだった。その優しさ故に苦しむことが、どれだけ多いのかを思い、こっちが不安になった。
「何代も前に呪術界を抜けた分家を引っ張り戻すつもりもなくて。私のこれは、天与呪縛という名の業だと思って、それに従うつもり」
「君が背負う業じゃない」
「あなたにも同じことを思ってる」
無粋は承知だったが、彼のあまりの思慮深さに、言わずにはいられなかった。
虚しいのだ。彼の人間味が、家柄の重圧に、いつか失われてしまうのではないかと。
「……この話、まだしますか?」
「もういい。……もう十分だ」
緩やかな手つきで頬を捉えられ、誘われるままに唇を合わせた。あの夜とは全く違う、壊れかけている何かの形を確かめるような、どこまでも優しい触れ方だった。十四で捨てた女々しさのようなものが、この期に及んで溢れてきた。
こみ上げるそれを悟られないために、二度目をねだった。
請け合うように角度を変えた彼が背中に回した手の、なんと熱いことか。伝播して、潜熱が燻った。
優しい貪り方に、漏れる吐息が重たくなる。唇を合わせながら、彼が、私の手の中で行き場を失っていたカップを攫って行った。
置かれたカップが鳴らす、陶器の音が合図だった。
途端に深くなって、反射で逃げようとした腰は大きな手に捕らえられた。今度は熱いとは思わなかった。自分の温度は、もうすっかり彼の温度に馴染んでいる。
お互いの舌が絡む音が、耳につく。狩衣の擦れる音。息遣いは混じり合ってどちらのものかの境目を失っている。秋の夜長を明かすには、いささか濫りがましい。
脚まで絡めてぴったりと触れ合った体は、昂った熱を持て余した。ここで致すには、少しばかり行儀の良すぎた私たちは、いまさら居た堪れなさに襲われて見つめ合うしかない。
「ここでは駄目だ」
「……わかってる」
このまま気持ちが揺らがないようにと顔を離せば、身に染む冷気に耐えきれず、抱き合った。広い肩に包まれながら、臍の辺りに当たる熱の輪郭を感じていた。かかる湿度の高い吐息に、肩口が熱くなったり冷えたりを繰り返した。
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