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「憲紀、機嫌悪いねえ」
「……?」
五条先生の言葉に、座敷の奥で澄ましている彼をちらりと見るが、なに食わぬ様子にみえる。新年会は毎年、名家が持ち回りで主催する。今年は加茂家なので、一層豪奢らしい。
狩衣ではない彼の和装姿は、数年前ぶりに見る。青灰色の袷仕立てと、それと対の羽織りは、貫禄というよりは粋な風合いだった。
「藤子もまだまだだなあ」。ため息まじりに見下ろしてくる先生もまた、鮮やかな色紋付の装いである。本来、こんな下座で駄弁っていていい人ではない。
盆に載った酒を運ぶ、給事らしい地味な着物が目の前を通り過ぎていくのを待って、言う。
「どういう意味ですか」
「どうもこうもないよ。そのままの意味。……君たちなら火遊びも上手くやれるだろうと思ってるからさ。ま、せいぜい楽しむといいよ」
分厚い帯の下でたっぷりと息を吐いた。この魑魅魍魎で溢れ返る座敷でする話じゃない。新年の会が酒盛りの様相を呈しはじめ、がやついているのが幸いだ。
「……僕が出した助け舟で、みすみす溺れてもらっちゃ困るよ?」
それだけ耳打ちして、座敷を出て行った。バックれるのだと思う。
ーー
初秋の一件で、加茂さんと関わる任務が増えた。本格的に繁忙期に入ってからは、特に顕著だ。
術式というのには相性がある。等級が高い任務でも、組む術師同士の相性の如何によっては割り当てられることがある。なにしろ万年人手不足の界隈だ。特級呪霊に特級術師を充てるだけでは、間に合わない。相性の良い術師同士の存在はなんら珍しくはないが、私たちは学生同士ということで融通も効く。だから、特にその相性を買われることが多いのだろう。と、言っても、そもそも東西の学生が相見える機会が交流会くらいなものなので、それと比べて多い、というだけだ。だから、秋からの4ヶ月の間に任務を共にしたのは片手で足りるほどだった。
あの日の報告書は、先生の言った通りに書いた。…ので、彼の東京遠征の最終日のそれを、逢瀬と知る人間はない。
実しやかな噂が流れてしまうまでに、あとどれだけ時間があるだろう。
酌をしながら、そんなことを考えていた。平素の会では実質の女人禁制のくせに、こういう時ばかり女をもてはやす。気に留めないのが吉。無に徹した。
ふと、斜め向かい、対面から二席ほど空けた場所に誰かの人影がよぎった。こうなってくると、もはや席次は意味をなさない。せっかく穏健派の人間たちの多い一角で、穏やかに凌げると思っていたのに。
「おお、加茂の次代当主のお出ましか!」
私の注いだ酒を呷ったとなりの爺が、唐突に声を上げる。拍子に、私は徳利を取り落とした。腿のあたり、着物の柄が最も栄えている部分が、酒精に濡れる。「大丈夫か?」と、隣の爺のそれにかき消された、聞き慣れた焦りの声を、私はたしかに聞いた。
「失礼を」
酒を溢したのは自分の元だけだったのを確認して、中座しようと立ち上がる。加茂さんが逡巡したのち、私と入れ替わるように、向かいに座したのを横目で見た。
加茂の屋敷は迷子になりそうだな。「めっそうもありません」この座敷だけでうちの屋敷の二倍はある。「ご冗談を」。準一級に昇級したそうだね。「学長のお引き立てを賜り……」
次期当主らしい悠揚迫らぬ態度も板についている。広い屋敷のざわつきの中で、彼の声だけよく聞こえた。
ーー
似たような和建築なのだから、と鷹を括ったのがいけなかった。凍てつく廊下をうろついて、もうかれこれ十分近い。新鮮な空気を取り込もうと庭に出たはいいが、なにしろ広い庭なので、うっかり迷った。どこかの縁側にたどり着いたまではよかったのだが、あまりに人気がないので、これは住居用の棟なのではないか、とはらはらした。
「見つけたぞ」
不意に掛けられた声に、自分でも滑稽なくらい肩が揺れた。振り返ると、庭を囲む直角に折れた廊下の先にこの屋敷の若い主人。
「……あまり心配させないでくれ」
安堵したように続いた言葉は潜められているが、磨き込まれた廊下を、足袋で踏み締める足音がいつになく大きい。底冷えする張り詰めた冷気で、板が軋む音が響いた。
「すみません、外の空気を吸いたくて庭に出たあと、わからなくなって」
「いいんだ、何もなかったなら」
「そんな大袈裟な」
「大袈裟じゃない。酒に酔った男たちばかりだぞ。君は後ろ盾もないんだ、一番に食い物にされる」
未だセクハラ、パワハラ、なんでもありの界隈だ。容易に考えが及ぶのが悔しかった。
「五条さんは君を置いていったのか?」
「……たぶん?」
なんとなく察することができた。五条先生が会が始まって間もなく、あんな下座にやってきて隣に居座るので、穏健派に囲まれた席次もてっきり先生の息がかかったものだと思っていた。今年の持ち回りは加茂家なのだから、席次は当然彼の配慮だったのだろうと今になって得心して、少し申し訳なくなった。流した前髪の下から伺い見れば、「抜け出るなら君も一緒に、とお願いしたつもりなんだが」、と怪訝な顔で溢していた。
「加茂さんはバックれる、なんてできないですもんね」
「最早そうしたい。あの座敷ではどうにかなりそうだ」
「五条先生が言ってました、あなたが機嫌悪いって」
「……君は気が付かなかったのか?」
「まったく」
顰めた眉が、不貞腐れていた。不意に遠くで、一際大きな、酔いを孕んだ笑い声が響いた。私が身を固くすると、加茂さんが素早く辺りを見回して、それから私の手を引いた。
「おいで」
連れられたのは、彼の部屋の一つなのだろうか。冷えてはいるが、吹きさらしの廊下から来ると、ほんのり暖かくさえ感じられた。
六畳ほどの小部屋は、加茂家ならば、使用人の衣装部屋と言われても頷けるほどの大きさだ。
しかし、何冊かの参考書が積んであるので、ここはまぎれもなく、彼の部屋なのだろう。
「ここは昔に母と住んでいた離れなんだ。使用人もあまり寄り付かないから、気に入っている」
膝をついて、積まれたテキストの背をなぞる。英語の試験問題集だった。広げられたままだった用紙たちを気恥ずかしそうに片す彼は、ふだん歳にそぐわない端然とした佇まいをしているくせして、年相応で世俗的な一面があるらしい。男の反対の性を受け持った身として、螺旋構造に編み込まれた本能がくすぐられる気がした。
「そういえば、火傷はしなかったんだろうな?」
「……たぶん」
「たぶん、とはなんだ、痛むのか? 冷さなかったのか」
途端に慌たように私の肩を掴むと、心配げな目に覗き込まれた。
「冷やしてない、から、赤くなってるかも」
「女中に診させようか」
「いい」
着物の上前を払い上げる。下前は歩きやすいように帯の下に斜めに折り返してあるから、左腿には白い襦袢が覗く。
「あなたが確かめて」
「……勘弁してくれ、屋敷ではまずい」
狼狽えたように身を引いた彼は、しかしまだ手を伸ばせば届く距離にいる。濡れた襦袢を摘んでみせた。
「……せめてちゃんと拭けよ」
呆れたように言いつつ、袂からハンカチを取り出した。一瞬迷ったように空中で彷徨わせた後、諦めたように濡れた腿に押し当てられた。
ほぼ二合分の熱燗で、襦袢はしとどに濡れている。肌色が透けていた。
ぽんぽんと、まるで子猫の頭でも撫でるかのように柔らかい手つきで拭いていく。この状況でも、手つきの端々にさえ煩悩を感じさせないのが、とても彼らしいと思った。
それでも、結われた横髪の裏、彼の耳の皮膚が少し赤くなっている。それは寒さのためでも、揮発した酒精のためでもないはずだ。
「っ、」
「……やはりすこし火傷しているのじゃないか?」
「わからない……確かめて」
喉仏を上下させて、彼の手が襦袢の衽の筋を辿った。曲げた膝を伸ばすよう促され、彼の右手側に揃えた脚を流せば、途中、足袋と裾の隙間から足首が覗いて、はしたない気持ちになった。奥ゆかしさとは対極の真似をしているのに、染み付いた和の恥じらいは侮れない。
かさついた手が襦袢に滑り込んだ。肌蹴させていった手は、痛むかもしれないという配慮からか、それとも「確かめる」の言葉に忠実なのか。ほとんど肌の肌理を辿っていかないので一抹の寂しさが漂った。
「赤くなっている」
「お酒、弱いの。匂いだけでもだめ」
「では火傷ではないんだな?」
「もうぬるくなってたから」
「……君なあ」
はあ、と吐かれた息が白かった。それを見たら、思い出したように寒さを感じる。顕になった左腿から冷気が滑り込んできて、ふるりと背が震えた。
彼がおもむろに羽織りを脱いだ。芳香が、密やかに香った。情緒をかき乱す、懐かしく甘やかな痛痒。ふわりと被せられると、まぶたの裏で溢れ出すものがあった。二年足らずで、私たちはずいぶん大人になってしまった。
羽織ごと、震える肩を覆い被さるように静かに抱かれた。大広間の喧騒がかすかに冬の空気を震わせていたが、もう気にならなかった。
合わさった左耳同士、二人とも同じ温度なのが、くすぐったく感じられる。擦り寄れば、きつく抱かれた。いっそ息苦しいほどだったなら、もっと心が穏やかでいれたのに。
ふと、肩に回された彼の手がぴくりとこわばった。遅れて私も、外の廊下から微かに聞こえる足音に気付く。女中かもしれない。衣擦れの音が軽かった。
次第に部屋の前まで来て、彼を探し求める声がした。とっさに息を殺すと、彼が安心させるかのように穏やかに頷くので、胸板に頬を預けた。そのまま堪えていた目蓋の奥の収斂を、そっと楽にする。彼が息を吸い込んだ時の振動で溢れた粒が、彼の反物に染みた。
「ここにいる」旦那さまがお呼びです。「少し探し物をしていた。すぐ参りますと伝えてほしい」かしこまりました。「……待て」はい。「酒が溢れて羽織りが濡れた。代えを頼む」ご用意します。
去っていく衣擦れを、彼の胸の中で息を殺して聞いていた。
「行かなくては」
言うと、彼はそっと身を引いた。一気に冷気が纏わりついてくる。名残惜しさを埋めるように、肩に掛けてもらった羽織の前を合わせた。するとちょうど、加茂の家紋が目についた。忌々しい、と、思うのは自由だ。
胸の前で握り締めた手を、厚い掌に包まれる。涙の名残を隠すように目を閉じれば、唇を重ねられた。口付けられると簡単には離れられなかった。
粘膜は交わしてはいけない。後に引けなくなるから。それをお互いわかっていて、たっぷりと数秒の間、重ねたままでいた。
衣擦れとともに離れていったのを、追い縋るように袂を掴んでも、もう応えてはくれなかった。代わりに、どこまでも辛い表情をしていた。
そんな顔をしてほしい訳じゃない。
「君のせいじゃない」
なぜ今、そんなことを言うのだろう。
今度こそ、滲む涙を見られたはずだ。それには気付かないふりして、諭すような声を残して、彼は立ち上がった。
「絆されたら終わり」などと大見得を切ったのはどこの誰だったか。言ってやりたい。初めから終わっていたと。
彼が出ていってしばらくして、彼が部屋を出る間際に示していった通り、垣根を辿って屋敷の裏手から外に出た。ひりつく腿が、茫とする感覚の中では、唯一の頼りだった。
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