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腿の赤みが引いてきた頃だった。その日は西日が陰ってくると、妙にそわそわと落ち着かなかった。だから、彼からメッセージが来た時、これについての予感だったのだと、疑いもなく思った。『東京へはいつ戻る』というメッセージに『明日』と答えた。私が東京に出て、さらに先代も亡くなったあと、女中は通いになっていたので、24時を回った頃にはこの虚仮威しのような屋敷には自分一人だった。
「夜這い、ですか?」
「そうなるな」
てっきり「そういう言い方はやめろ」くらいのことは言われると思った。白い息とともに裏手口をくぐった彼を招きいれると、あまりにもあっさりと肯定されて、少し可笑しかった。「こうでもしないと、君に会えないだろう」、そう言った加茂さんは、私に向き直った途端、怪訝に眉を寄せた。
「…まさかとは思うが、ずっと外で待っていたのか?」
私の鼻先が寒さに赤くなっているを見とめたのだろう。
聞いておきながら返事を待たず、ぺたぺたと頬やら手やらに触れてくるあたり、彼は今日も加茂憲紀だった。おまけに額まで合わせられると、さすがにその必要性までは図りかねたが、たしかに彼の手は暖かかった。
彼がむっと表情を曇らせたのを、月明かりが悟らせた。
「私が何を言いたいかわかるな」
「…わからない」
「そうか、それなら仕方ない」
ぱ、と手が離れたかと思うと、次の瞬間には、彼の腕に抱き上げられていた。反射的に彼の首にしがみついていたようで、顔を上げると彼の顔が間近にあった。
彼は目を逸らしもしない。気後れした私の横顔は、詰るような切れ長の目線にさらされている。
「…もしかして、怒ってますか?」
「よくわかったな」
屋敷に上がると、彼が居間の鴨居を潜るために屈むので、また彼の首にしがみつく羽目になった。慌てて手を離すと、すぐ真上から、口元が綻んだ気配を感じる。
「私が落とすと思うのか」
言うと、掬い込むように私の体を抱き直した。さらに密着して、鼻先が触れ合いそうだった。お互いの息遣いを感じた。
「……」
降りたいと意思表示しているのに、彼は一向にそうさせてくれる気配がなかった。電気は灯していない。室内の暗さに目が慣れておらず、表情はわからないが、あまり顔を見ないようにしながら肩を押した。
「加茂さん」
つん、と澄ました横顔は微動だにしない。
彼はときおり天然を発揮する人ではあるが、これが意図的なのは明らかだった。こういう意地悪もするのだということは、何度か任務を重ねて知っていた。
「……降ろして」
彼の胸に手をついて訴える。だんだん夜目がきいてきて、いつもの涼しい目元が今はどこか余所余所しいと知った。咎められているような気さえするし、実際そのつもりなのだろう。それにしては非難がましい刺っぽさをあまり感じないのは、彼がそれをし慣れていないからに他ならない。
そういう器用すぎないところに彼の人柄を見出しては、いつも切ない気持ちになる。
「加茂さん」
「なんだ」
「降ろして」
粘り強く懇願すると、少しの思案の後、彼が座敷の中央まで移動した。やっと降ろしてもらえるのだと思い、そっと背筋の緊張を解くが、思いがけず、腰に回されていた彼の手に力が入った。
「え」
彼が身動いだと思えば、彼はそのまま腰を落とす。抱えられている私は、当然なす術もない。あぐらをかくように座った彼の脚の間に、抱えられていたままの姿勢で座り込む形になった。
「降ろしたぞ」
「そういう意味じゃない」
「わからないな。何のことだろう」
彼がしらを切るのなら、もう何も言うまい。それに、あまり可愛げのないことばかりを言って、もし彼が離れてしまったら、それはやはり寂しいのだ。
縁側から差し込んだ月明かりが障子に反射してほのかに明るい。それだけで十分に思えた。お互いの表情が詳らかにならないくらいが、今夜ばかりは、きっとちょうどいい。
「ずっと望んでいた、君とこうして穏やかに過ごせる時間を」
なんと答えるべきかわからなかったが、同じ気持ちだという意思表示だけはしておきたくて、彼の胸に擦り寄った。暑い胸板から感じる鼓動は静かだ。この温もりを今この身に焼き付けておかなければいけないという、予感めいたものがあった。
「名前を呼んでくれないか」
「…そんなに純粋な関係じゃない」
「そう思いたいのは君だけだ」
掠れた声で、懇願するように彼がもう一度言った。「頼む」。私の肩口に顔を埋めた加茂さんは、いつになく幼気な感じがした。
「…憲紀、……さん」
呼んでみようとすると、どうにも難しかった。取ってつけたように敬称を加えた時、彼が笑って、その吐息がくすぐったい。「そんな余所余所しい呼び方はやめてくれ」と、困ったような笑みが降ってきた。
「君は不器用だな」
「とっくに知ってたでしょう」
「知ってたよ。それが愛らしくてたまらないんだ」
静寂が戻ってきて、今度こそ、彼の求める形で名前を呼んだ。抱き締める力が一層強くなった。苦しいくらいだった。屋敷はしんと静まり返っている。廊下のガラス戸の上で、結露が玉になって滑り落ちる音さえ聞こえそうなくらいに。
これが最後になるだろうと、予感せずにいられるほどの鈍さがあれば、どれだけよかったか。
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