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※諸事情により、前回の交流会が東京で行われた事になっています。ご了承ください。
「まさかこの時間に先客がいるとは思わなかったな」
給湯室の年季の入った扉の音に振り返れば、いつかに聞き覚えのある声がする。嚥下した水が空の胃に滴る冷ややかさに体が粟立った。
「…加茂さん」
「久しぶりだな」
グラスを無意識に置いて、その音で遠い記憶を遡ろうとする意識を引き戻す。すたすたと向かってくる一つ上の先輩にシンクを譲り、自分は換気扇の下のパイプ椅子に移る。行儀の悪さを自覚しながらも膝を抱えて座った。身も蓋もない言い方をすれば、わずかばかりの反骨心の表れである。
彼がこちらを一瞥したのを感じた。
「ずいぶんと朝が早いんだな」
「加茂さんこそ」
「どうにも目が冴えてしまってね」
シンクの上の棚を弄りながら言う彼に、「何探してますか」。問えば、「コーヒーを」「それなら右の棚に」「ありがとう」なんてやりとりが続く。目当ての棚を開けたはずの彼が不自然に動きを止めたのでなんだろうと思ってみれば、インスタントコーヒーの瓶と、『名字』とラベルの貼られたコーヒー豆の袋の間で一瞬逡巡する手つき。思わず苦く笑ってしまう。インスタントの瓶を取り上げた加茂さんはやはりずいぶんお行儀の良い人だと思う。
「いいですよ。みんな勝手に飲んでるし」
「……君は今は飲まないだろう?」
「加茂さんがよければご一緒したいです」
「私が淹れますね」。立ち上がってケトルを仕掛ける私の横で、加茂さんが「フィルターはどこだ」なんて聞いてくる。
「加茂さんはいいですよ。昨日までの交流会でお疲れでしょう」
「構わないよ」
「でも加茂さんに手伝わせるなんてできない」
「それは先輩だから、という意味でか? それとも」
「だから、加茂さんだからです」
「……それなら尚更だよ」
結局湯が湧くまでほとんど手持ち無沙汰になってしまった私は二脚のカップを用意する傍ら、丁寧な手つきでフィルターの折り目をなぞる加茂さんを横目に見る。手際良く手順を追う彼の手つきが、加茂家の次代当主のものだと思うと、なぜか無性に物寂しい気持ちになる。彼はもう何年もしないうちに、自らの手でコーヒーを淹れるなんてことも出来なくなってしまうのかもしれない。
「コーヒー、お好きなんですね」
「ああ、そうだね。好きだ。これを見るにつけ、君もだろう?」
名入りのラベルの指しながら少し悪戯っぽく片眉を吊り上げて見せる横顔に、燻る気持ちを悟られまいと、真似た仕草で「そうですね」と返す。パチン、とケトルの湧く音がして、「あとはやりますから」と彼をソファへと追いやる。
少量湯を注いで豆を蒸らす。
「君がここに入ったと聞いて、驚いた」
「言いたいことはわかりますけど、それは、」
「なぜ京都校にしなかった?」
「……うん?」
なぜ高専へ、ではなく、質問の係る先が自分の予想より一歩先だったことに戸惑う。
「君の家は京都だろう。わざわざ東京など……いや、待て。その疑問符はどういう意味ーー」
みすみす付け入る隙を与える気はない。失礼は承知で制するように手のひらを向けると、彼は素直にむっと口をつむった。
「どっちにしろ寮生活なのでこれを機に家を離れてみるのも良いかと思って」
「……そうか」
ドリップの間会話はなかった。温めたカップにコーヒーを注げば、私がポットを片す一瞬の間に加茂さんが来て、文字通りあ、と言うまもなく2脚とも、給湯室中央の、お下がりの応接セットに持って行ってくれた。丁寧なことに、ぴったりと向かい合った位置に置かれている。給湯室にはそも応接セット以外にも、不揃いだがいくつか椅子があるし、私としてはこのまま換気扇の下のパイプ椅子でもいいと思っていたのに。
「君と一度、ちゃんと話がしたいと思っていたんだ」
「……なにについてですか?」
向かいに腰を下ろしながら聞き返す。
「なに、と言うわけじゃないよ。」
言うとカップを傾けて、「美味いな」。カップの裏で呟かれた、思いの外男臭い言い回しに、思わず動きを止めてしまう。すぐに取り繕うように居住まいを直して「美味しいよ」と言った彼に、この人の伴侶となる人は加茂家でもきっとそれなりの幸せを享受できるに違いない、と下世話にも思う。
「美味しいですね。気に入ってるお店の豆なんです」
「淹れ方もいいんだろう」
生まれつきの人誑かしの人かしら、などとまた俗っぽいことを考えて、自分に呆れる。
とにかく、彼がずいぶん自分の想像していた人間性と乖離があって戸惑うのだ。瞬きの回数がつい多くなるのを自覚して、視線を窓の外に移す。ようよう白くなりゆく山際。軽い咳払いのあと、加茂さんが、一口コーヒーを含んだ私に問いかける。
「……その店はここから近いのか?」
「渋谷のお店です」
「東京滞在中に是非行きたいな。」
「じゃあ助っ人の二年同士、」
「ーー東堂と行け、なんて言ってくれるなよ?」
細められた目尻はずいぶんと端正だ。これが自覚的な所作なら中々の伊達男だと思うが、茶化した言葉尻には焦る様子が隠しきれていないあたり、やはりそれは生来の気品なのだと思う。それにしても、だ。私も、我が道を行くあの大男と二人で、なんて冗談が過ぎたのはたしかだが。
「それに奴は高田ちゃんなるアイドルの聖地巡礼とやらに行くらしい」。
そう、割とどうでもいい情報をわざわざ付け加える律儀さが、初めのイメージ像の軌道をどんどん掻き乱す。
「東京は慣れない。君さえよければ、案内してほしい」
普段伏し目がちの瞳に見据えられ、居た堪れない。
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加茂、東堂の2年二人が、東京での交流会に助っ人参加、という設定です。
単行本四巻より、前年の交流会は「京都でやったから〜」と名言されておりました事に、書いてから気付くという失態。
すみません。
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