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消毒液を含ませた脱脂綿が、左手の傷口にぴりりと滲みた。「痛いよね、ごめんね」、まるで手当てをしている自分が痛がっているかのように眉尻をひそめる女性は、なまえというらしかった。人が良いようで、加茂の怪我を見るなり慌てた様子で手当てを申し出てきたのだ。
「お手間を取らせて恐縮です」
「全然そんなふうに思ってないよ。こちらこそ、参考になるようなものを見つけられなくてごめんね」
彼女は今回の任務地である神社にゆかりのある唯一の人物だった。半年ほど前からこの地域での呪霊発生が増えており、それがその神社に関係があるとわかった。彼女は一般人ながら、今回の件で呪術師という仕事について多少ながら知るところとなったのだ。
「時間がかかっても構いません。幸い高専…私たちの任務の拠点はここからかなり近い。今の段階では、危険度が特別高いというわけでもありません」
「怪我してるのに?」
「この程度の怪我は大したことでは…」
実際、呪術師にとっては怪我と数えるほどのものではない。彼女にしてみれば、仕事で血を流す世界というのはなかなか理解しがたいのだろう。慣れない手付きながらガーゼを貼り付けると、さらに包帯まで取り出すので、加茂はさすがにそれは大袈裟だと思ったが、無碍にするのもどうかという思いもあり、特に何も言わないでいた。温かみのある手つきが、新鮮だった。
ふいになまえが加茂に視線を上げる。怪我とにらめっこする姿に釘付けになっていた加茂に気づいたようで、何かを促すように微笑んでみせた。ここに来る客が注文のために声をかければ、彼女はおそらく今と同じように穏やかに笑みを浮かべて、続く言葉を待つのだろう。そんなことを考えている間も、加茂はなまえの顔をじっと見つめていたようだ。なまえは、あ、と何かに気付いた表情を浮かべると「ごめんね、慣れてないから遅くて」と言うなり、すぐに包帯に向き直った。いえ、と反射的に加茂が否定する。そうではないのだ。「ただ、校医以外の方から手当を受ける機会が多くないので」。言えば、名前が少し寂しそうな声で「そっか」と小さくつぶやいた。
また視線が合うと少し気まずい。加茂は意識的に視線を落とした。自分の手と、彼女の手を見比べる。白くしなやかで、手首などは特に細い。高専を一歩出れば、非術師、いうところの一般人が大多数であるが、かといってこうして身近に接する機会はほとんどない。そこまで考えて、加茂はさらに周囲に視線を移した。
「これ終わったら何か温かいものでも淹れてあげるね」
加茂の落ち着かない様子を察したのか、また少し視線を上げて微笑みかけてくる。よほど断ろうとも思ったが、任務のために聞かなければいけない話もあった。礼を言うと、終わるのを待つ間、室内を見渡した。壁際のガラスケースの中には色とりどりの花が飾られていて、ここが人々が花を買い求める場所であることを示している。そう思うと、彼女はいかにも花を扱う人らしい雰囲気があった。
「ここは十数年も前からある店と聞いていますが」
「そうなの。祖母が一人でやってたんだけど、ちょっと前に亡くなって。閉めちゃうのも惜しいから、私が継いだの。…はい、手当てはオッケー」
包帯の巻かれた手を、一度、二度と、握り込んで具合を確かめる。それは程よいきつさで加茂の手を締め付けており、彼女の器用さがわかった。「早く良くなるといいんだけど」。戸棚から来客用のカップを取り出しながら視線を寄越す名前に、加茂はもう一度礼を言った。「飲める?」シンクの脇に置かれたコーヒーメーカーに手を置いてなまえが尋ねる。「コーヒーは好きです」「よかった」と短いやりとりを終える。
加茂が座っているのは、来客用の応接セットだ。
テーブルの上には、手当てのための薬箱以外に、ブーケのデザイン画やパンフレットなどが並べられていた。中央には、花瓶に一輪、花があしらわれている。花瓶にはカードが提げられており、英名が記されていた。”Poppy”、ヒナゲシのことだ。手書きのそれは、筆づかいは細く繊細ながら、pやyの線の伸ばし方が大胆だった。ブーケのスケッチの主と同じもののようだ。
室内のレイアウトや装飾の具合などからも、今風にアレンジがほどこされた、見栄えのする店だった。十数坪の店内は、半分を花が占め、残りはカウンターや流しなどが備わっている。店の隅、奥へ続くのであろう扉だけが古めかしいまま残っていた。
「ここはご自宅も兼ねているのですか?」
「造りとしてはそうだけど、私は住んでないの。女の一人暮らしには向かないかなと思って」
ボタンを操作しながら彼女は言った。そのほうがいい、加茂は内心で思う。名前は防犯上の観点からそう言ったようだ。人が長い間住むにはこの土地は適していないようだということは加茂にしかわからない。彼女はここからほど近いアパートに住んでいるという。17時に店を閉め、コンビニに寄って帰るのがルーティンだと言った。今は18時。OPENの札が内側に向いている。
「暗くなっちゃったけど、おうちは大丈夫?」
「学校の宿舎に住んでいるので問題ありません」
「そうなんだ。だからそんなにしっかりしてるのかな」
湯気のたつコーヒーを持って、名前が戻ってくる。「どうぞ」と、なまえはまた来客にするように穏やかに笑いかけてからカップを置いた。いい香りがした。カップを傾けおいしいと感想を述べる。「そんなにかしこまらなくて大丈夫だよ」と困ったように微笑まれ、心がざわめいた。
彼女の神社との縁について話を聞いてみるも、名前自身はほとんど知識がないようだった。神主や巫女の家系というわけでもないらしい。手がかりとなる資料もない以上、任務に直接関わる点について、今日はこれ以上の進展が見込めなさそうだ。
「みょうじさんは、いつから京都に?」
ぬるくなりはじめたコーヒーに、どう会話を続けるか少し思案して、加茂は聞いた。彼女が京都に越してきたのだということを聞いていた。
「生まれはここなの。戻ってきたのは半年前くらいかな。関東の短大で、そっちで就職も決まってたけど、祖母が倒れたから来たの」
「そうなのですね」
「うん。運よくかなり大手の英語スクールから内定もらってたし、周りにはかなり止められたけど」
「英語…」
加茂はある英語試験で高得点取得にむけて勉強している。これまでと少し違うトーンで相槌を打った加茂に、なまえが会話を掘り下げた。
「加茂くんの学校でも英語は習うの?」
「基礎教養としての科目程度ですが。…ところで、英会話講師をするにはTOEICはどのくらい点数が必要なのですか?」
「850点とかあれば十分じゃなかったかな?私は短大だったし教職も専門じゃなかったから、900点は引っ提げて臨まなきゃ、って当時はけっこう頑張ってたけど」
「900点」
「もしかして英語、興味ある?」
自分の得意分野に興味を示してもらえたのが嬉しいのか、なまえが期待のこもった眼差しで加茂の返事を待つ。なんだか気恥ずかしかったが、加茂が実は、と自分が今、高得点取得に向けて勉強中だということを伝えると、なまえは感心したように言った。「すごいね」。大袈裟な反応に思えたが、なまえは至極真剣で、茶化すような雰囲気でもない。しばらくそうして話を続けていると、任務に関する収穫は全くといいほど得られていないのにもかかわらず、加茂はどこか満足した心持ちである自分に気がつく。なまえとの会話に心地よさを感じている。加茂は平静を装ってカップを傾けた。なまえが少し困ったように笑いかける。居住まいを正した加茂に気付いたのだ。
「英語の勉強、わからないことあれば聞いてね。これからしばらく呪霊退治?…とかでお世話になるみたいだし」
どうやらなまえはこちらの世界観の理解にそれなりに積極的のようだ。長くかかりそうな任務としては、協力者と打ち解けるのはまずまずの走り出しだ。加茂はそう結論づけて、コーヒーを飲み干した。
「遅くまでお引き止めしてすみませんでした」
「いいえ、こちらこそ。次までに何か役に立つ資料とか探しておくね」
話を終える頃には、時計は19時を回りそうだった。なまえに連れられて入口まで来ると、外を見渡して「すっかり夜になっちゃったね」となまえがつぶやく。今まで気にとめなかったが、立って並んでみると華奢なのがわかる。短大を出てすぐ、とも言っていたし、彼女はあまり加茂と歳が変わらないようだ。まだ人通りの見込める時間とはいえ、女性を一人で帰途につかせるのは憚られた。よければ近くまで一緒に行かせてくれ、と、加茂は頭で良く考える前に口に出していた。
「…小学校の近くだと仰っていましたよね。ちょうど方向も同じです」
「え、でも…」
迷いを見せるなまえに、こちらの都合で引き留めた、ぜひそうさせてほしいと申し出る。彼女は少し思案すると申し訳なさそうに礼を言って、店の戸締りのために慌てて室内へ戻っていった。ほどなくして店内と店先の電灯が落ちる。ぱたぱたと足音が戻ってきた。先ほどまでとは雰囲気が少し違って見える。髪を下ろしたのだと気付くのに、少し時間がかかった。
「憲紀くん、ね」
下の名前を聞かれたかと思えば、反芻された自分の名にどことなく気恥ずかしさを覚える。思えば、術師に関連する者以外とこうして会話をするのは、物心ついて以来ほとんど記憶にない。狭い歩道を並んで歩くとき、肩がぶつからないかと気を遣った。
「憲紀くん、大人びてるね。けど、年齢はあんまり変わらないよね」
「三年生です」
「私早生まれだから、そう思うとやっぱり大して変わらないね。だから、気遣わなくていいからね」
なかなかそうはいかない。思ったが口には出さないでおいた。同期の東堂や西宮たちに、お前は固すぎると再三言われてきたのが頭をよぎり、代わりに曖昧に濁すにとどめた。
歩いてみると街灯はあまり多くなく、やはりこうして正解だった、と加茂は自分に言った。
「、っと」
歩道を歩く二人を、自転車が走り抜いていった。加茂がとっさになまえの手を取る。突然のことに、彼女が重心を捉え損ねたからだ。加茂の背中側で、車道を一台、車が通り過ぎた。煌々とまぶしいヘッドライトの光が、二人の姿を浮き彫りにして、去っていく。
「ご、ごめんね。左手、痛くなかった?」
「私は大丈夫ですが…みょうじさんは」
「大丈夫!…あ、でも、ちょっと待ってね、靴脱げちゃったみたい」
視線を落とすと、なまえのパンプスが片方転がっている。足を引っ掛けようとして、なまえがよろよろと危なかしかった。街灯の、ちかちかと不規則な光に誘われるように、加茂は再び手を差し出していた。今度は右手にした。彼女に気を遣わせないためだ。加茂の顔と手の間を迷うような視線が往復したが、遠慮がちに加茂の手を取り、なまえは靴を履き終える。想像以上に柔い手が、力加減を間違えていないだろうか、と加茂を緊張させた。
「ありがとう」。親切をした人間への最大の報い方を弁えているような表情の作り方に、加茂はいよいよ心が落ち着かなくなった。街灯がいじらしげに明滅している。
気付けば、小学校の校門の前まで来ている。ここまでで大丈夫、となまえが向き直るので、加茂はそこで足を止めた。
「一緒に帰ってくれてありがとう。資料、見つけたらすぐに監督さんに連絡するね」
「はい」
「じゃあ、また今度」
なまえが角を曲がる前に、加茂を振り返り、控えめに手を振った。暗くて表情はよくわからなかったが、やはり笑顔を浮かべていたように思う。会釈を返し、姿が見えなくなったのを確認すると、加茂はくるりと向きを変え、ようやく本来の帰途についた。校庭に植えられた木が、フェンスを越えて道路に深い影を作っている。枝葉をざわめかせる風が、加茂の頬を心地よく冷やした。高専までの道のりを歩く間、今日の出来事を反芻する。なまえが加茂の傷ついた手を労わり、コーヒーを飲み、会話し、加茂は夜道だからと近所まで送り届けた。それだけだ。これからも何度か会う予定だが、おそらく資料を受け取ったり、近所で呪霊の処理をするだけで、きっと今日のように時間を過ごすことはそうはないだろう。
「なんだお前。いつも以上につまらねえツラしやがって」
廊下ですれ違うなり悪態をつく同期にげんなりとする。何を言ってるんだ、
「そんな顔などしてない」
「勝手に言ってろ」
宿舎の階段を上がっていく東堂の見届けると、何とはなしに窓を見る。雲間から月が覗いていた。ふとガラスに映った自分の姿を見ると、それは自分の思っているよりもいくぶんか難しい顔を浮かべている。なるほど、東堂があんなことを言ったのも頷けなくない。彼女は今なにをしているのだろうか。そんな考えが頭に浮かぶと、自分の反射がさらに真剣な顔をしたので、視線を逸らした。
同じ時、なまえもまた、ベランダの柵に乗り出して、月を仰ぎ見ていたのを、加茂は知る由もない。
「憲紀くん、えらい素敵な子やったなあ」
しばらく夜風に顔を冷やしていたなまえは、握っていたコーヒーのカップが温度をなくしているに気付く。何気なく手元に意識を向けると、その手に残る、自分より大きな手の感触が呼び起こされた。
切長の目は穏やかそうな雰囲気で、年齢よりもずいぶん大人びた印象の男の子だった。握った手のひらの厚みに、異性を意識したのを思い出す。再び頬が熱を帯びるのを感じると、慌てて室内に飛び込んだ。レースカーテンが誘うようになびいた。
「…明日は早起きして実家探さんと」
レースの隙間からガラスに映る自分と目が合うのを避けるように、遮光カーテンを閉めた。
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