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人はそれを怪奇現象と呼ぶ。
「“xx家、男篤し、婿取るとも……”」
ぱりん、とガラスの割れる乾いた音が響いた。加茂が振り向いた時には、カウンターから水が滴っていた。ぽたぽたと落ちる水音が、室内の静寂を際立たせている。
カウンターの上で、花瓶が割れている。
「え…」
加茂は冷静だった。それが一体何の仕業であるか、よく知っているからだ。
突然のことに呆然としているなまえを残して、加茂は割れた花瓶の方に向かった。カウンターの上の水溜りに、かすかな呪いの澱が漂っていた。
「みょうじさん、…なまえさん」
はっと我に帰ったなまえが加茂のそばに駆け寄ってきた。注文表や伝票などが水浸しになっているのに気付いて、「ひゃー」とわざとらしく言うのが少し愛らしくて、加茂は表情を緩めた。なかなかどうして、なまえはけっこう肝が据わっているらしい。
なまえが拭くものを取りに行った間に、散乱するガラス片を拾い上げる。幸い、細かく砕け散ることはなく、大きめの破片だけだった。
「手、切らなかった?」
戻ってきたなまえが申し訳なさそうに加茂からガラスのかけらを受け取る。大丈夫です、と一言告げると、なまえは安堵したように、よかったと呟いた。
一通り片付けを終えると、加茂となまえは再び応接テーブルに向き直った。コーヒーは冷め始めている。
「失礼を承知でお聞きするのですが」
加茂の言葉に、なまえはぱちぱちと大きな目を瞬かせた。マグカップを傾けようとしていたなまえが、動きを止めてカップの淵から加茂を覗いている。
「今、お付き合いしている方は」
「えっと、いない、けど…」
「それであれば今のところ問題はありません」
「…それは、どうして?」
聞きながらも、なまえはなんとなく察しがついたような表情で、先程なまえ自身が読み上げた資料に視線を落としていた。
なまえの視線を追うように、彼女が探し出してきた古い紙束の上に、加茂が指を走らせた。なまえがもう一度、恐る恐るといったように声に出した。
「”xx家、男篤し。婿取るとも、とく死ぬ”…」
「名字は違いますが、これはなまえさんの家系です」
「これって」
「要するに、この家系は男子に恵まれない、ということです」
「…たしかに、そうだったかも」
なまえの祖父は彼女が生まれる前に亡くなっているらしい。曽祖父は、その娘、つまりなまえの祖母が若いうちに鬼籍に入ったという。祖母の兄弟もいたにはいたが、いずれもなまえの両親が結婚するよりもずっと前に亡くなっている。さらにその両親も早くに離婚し、父親にはもう十数年近くは顔を合わせていないとのことだった。
「これまでになまえさんがお付き合いした男性は」
「大学時代に一人。…でも、他にも遊んでる女の子がいたらしくて。それから、その後にすぐ部活で怪我して、そのまま地元に帰っちゃったの」
なまえの以前の恋人関係などあまり聞きたくないなと思いながらも、加茂は話に相槌を打った。加茂はちらりとなまえの様子を伺う。以前送って行った時のように、なまえは髪を下ろしていた。定休日だからだろう。客が入ってくることもなく、加茂はなまえと二人きりだった。
「それが呪いだった、ってことなの?」
「その可能性は高いです」
「…なんだか、元彼、可哀想だね」
そうだろうか。加茂は思ったが言わなかった。少なくとも怪我の件は同情の余地はあるかもしれない。
学生時代のなまえには、その他にもきっと慕う男は多かったはずだ。彼らにも大なり小なり、なんらかの不幸が降りかかった可能性はある。まさに今しがた、花瓶が割れたように。
なまえが自分のマグカップに視線を落とした。そういえば、前回は彼女も来客用のコーヒーカップを使っていたはずだ。加茂の訝しげな視線に気付いて、なまえが言い淀みながらも話した。資料を取りに来た加茂にコーヒーを淹れようと思って戸棚を開けると、一脚が割れていたのだという。なまえは少し気まずそうにしながらも、伏し目がちに微笑んで見せた。加茂の存在が“怪異”を引き起こたのは確かだと言えそうだ。
「もしかして、これも呪い?」
「かもしれません」
「……それって、」
「私がなまえさんに好意があるからかと」
言ってみると、自分でも驚くほど事務的な調子だった。なまえを不安にさせまいという思いがあると、不思議と恥ずかしさが込み上げるなどということもなかった。清々しいほど落ち着き払った加茂の態度に、動揺を隠しきれなかったのはなまえの方だ。瞳が泳いでいて、コーヒーと加茂の胸元あたりで視線を行ったり来たりさせていた。なまえを困らせてしまっただろうか。加茂は思ったが、かといって後悔もなかった。好意を抱いていたのは紛れもなく事実だ。なにしろ、今朝、補助監督経由でなまえから連絡が来た時には、もはや言い逃れできないほどになまえに会いに行けるということに高揚したのだから。
しばらくしてようやくなまえが発したのは、「また花瓶が割れちゃったらどうしよう」という照れ隠しにも似た可愛らしいものだった。
「その時は私が弁償します」
「私と仲良くして、憲紀くんに呪いがかかったら、大変なんじゃない?」
「もしそうなったとしても、私は問題ありません」
「呪術師、だから?」
「そうです」
「本当に?」
「本当です。なので、なまえさんが心配することは何もありません」
「頼もしいね」と笑ったなまえの耳は赤らんでいた。
その後は、近所の人にもらったのだという茶菓子をいただいて、しばらく談笑した。
加茂は学年も上の方で、まとめ役を担うことも多いからか、普段は気が張り詰めていることも多い。呪術界に縁のないなまえは加茂の家柄や出自に気後れすることもないし、そんななまえとの話は楽しかった。なまえの笑顔が自分にだけ向けられたものだと思うとむず痒く感じる時もある。今日だって本来は、資料だけ受け取って帰ることもできたはずなのに、なまえの言葉に甘えてまたコーヒーまでいただいてしまった。なまえに憑く呪いが加茂に敵意を向くのも頷ける。
「これからどうしたらいいの?」
「まずはお借りした資料を高専に持ち帰って専門の人間に調べさせます」
「そのあとは?」
「呪いを祓います」
「それでおしまい?」
「そうです」
「そっか」。なまえが小さくこぼした。それに、どこか寂しげな気配が孕んでいた気がしたが、思い過ごしだろう。独りよがりの考えを断ち切るように加茂はコーヒーを飲んだ。呪いを祓えばなまえとは会う口実もなくなるが、それも致し方ない。呪いがいつ彼女に牙を剥くかもわからないのだ。あまり時間はかけられない。
「今日はお休みだし、好きなだけいていいからね」
なまえは席を立つと、割れた花瓶に入っていた花を新しい花瓶に移し替えに行った。加茂は花には詳しくないが、その名前はわかる気がした。
その白い花は、ヒナギクだと思う。
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