さよなら・ららら


「ちいちゃん、わたしたち、明日でサヨナラなんだよ」

慣れない箸使いに苦戦する姿はまるで外国の人みたい。金時豆を掴むのに必死なちいちゃん。ようやく掴めたかと思うと、またころんと落としてしまい。見ている分には可愛いのだけれど、だんだんムキになって余計に掴めなくなっていて、これじゃあ悪循環だ。そっとスプーンを渡してみると、ちいちゃんの琥珀色をした瞳がきらあ!とまばゆく光る。やっとお豆を頬張ることができて、嬉しそうに足元で尻尾をぱたぱたとさせるちいちゃんに、わたしはそう告げた。

ちいちゃんは、ふっとわたしの顔を見る。そして、こてんと首を捻った。それと一緒に、春のたんぽぽのような、ほがらかな色の髪をふわりと揺らして。

…どうやら、あまり理解していないらしい。だからもう一度噛み砕いて、言ってみる。

「ちいちゃんはもう、わたしの家に来れないの」

「来れ、ない?」

「そうだよ。その代わり、ちいちゃんは、遠いところの優しいトレーナーさんのところに、行くんだよ」

ちいちゃんは、思案する。自分の髪を指で弄ったり、視線を斜め上に向けたり、首を左右に揺らしたりしながら。わたしは、彼のゆるやかな言葉を待ちながら、金時豆を頬張る。もうちょっと、お砂糖入れたほうが良かったかもしれない。ちいちゃんも、甘いののほうが好きそうだし、次は甘めに、と思ったけれど、もう次はないことを思い出す。悲しさが湧いてくる前に、思考の雲を振り払った。

ちいちゃんは、まだ思案する。重たい瞼が、ぱちり、ぱちり、とおっとりした瞬きをしながら、んー…と少し唸り声をあげながら。わたしが、また彼のゆるやかな言葉を待つことになろうと予期したとき、だった。ちいちゃんは、かちゃんと、わたしが渡したスプーンをテーブルの上に置いた。そして、お味噌汁のお茶碗を持つと、すすすと音を立てずに飲み干す。そして、なんてことなさそうに、視線すら合わせずに、言った。

「……そっか」

……そっか。

***

ちいちゃんと初めて出会ったのは、夏のとき。このマンションに引っ越してきてすぐのことだった。わたしが偶然窓を開けたまま昼寝してしまったのが、はじまりだった。とても、驚いた。夕方起きたら、リーフィアなんていう希少種が、キッチンの前にぽつんと座っているのだから。

後のちいちゃんであるリーフィアはベッドからのわたしの視線に気がつくと、ぴょんと跳ねてわたしの膝の上に乗っかってきた。そして、わたしはまた驚いた。瞬きをする間に、膝にいたはずのリーフィアが消え失せていたのだから。代わりに、どこか眠たげな瞳を持つ青年に押し倒されていたのだから。宝石のように底光りする、飴を詰めたような瞳に見つめられ、わたしはすっかり硬直してしまっていた。そして、彼は言う。

「…ごはん」

それが、彼の第一声。彼はそれから、自分のことを「ちひろ」と名乗った。それ以外は、ご飯の催促しかしなかった。決して近寄るのではないのだけれど、一箇所に座り込んで、わたしをじいっと見つめ続ける様子は、まるで「待て」と言われた大型犬のようだった。その姿にわたしもだんだん居た堪れなくなって、試しに一度、残っていたカボチャの煮物をあげてみると、それはそれは、もうとてつもなく喜んでくれたらしい。美味しい、と言って表情を綻ばせ、お尻から伸びた尻尾をぱたぱたと床に打ち付けていた。

それから彼は、ひょっこりわたしの部屋に現れると、わたしのご飯のお零れを頂戴していくようになった。その無表情なままの喜びようが可愛くて、あと自分の作ったご飯を食べて喜んでくれる人がいるということが単純に嬉しくて。いつの間にか、人間に化ける野生のリーフィアと毎晩夕食を共にするという、奇妙な生活習慣が出来上がっていた。

でも、そんな生活も今日で終わり。わたしは、その事情を彼に説明する必要がある。彼は、目の前の魚の煮付けにしか興味がなかったとしても、だ。視線は重ならないまま、わたしは一方的に喋り続けた。

「ちいちゃんが出入りするの、大家さんに見られちゃってたみたい。野生のポケモンをね、勝手に餌付けするのはダメなんだって。しかもちいちゃんはリーフィアでしょう。ニンゲンの世界、特にジョウト地方だと更に、珍しいポケモンなの。だから、ちゃんとした人間による管理をされるべき、なんだって」

「…ん」

「それでね、大家さんが色々掛け合ってくれて、ちいちゃんを引き取ってくれるトレーナーさんを見つけてくれたんだって。その人のところで、ちいちゃんは、明日から暮らすの」

「…ん、そう」

相変わらず分かってるのか分かってないのか全然分からない返事で、笑ってしまう。最後の最後まで、ちいちゃんはマイペースなんだね。周りのペースに飲み込まれてばかりのわたしからしたら、憧れすら覚えてしまう。自分のこれからのことよりも、突っつきすぎてぼろぼろになった魚の煮付けを掴むほうが、ちいちゃんには重要なのだ。そっと新しいスプーンを差し出すと、ちいちゃんはまたぴかーんと瞳を光らせて、嬉しそうに口元に運ぶ。

いつもなら、その様子を微笑ましく眺めて、わたしものんびりと自分の料理の味を確かめていた。けれど、今日は料理の味が、全然分からない。味を感じることができないのだ。これ、美味しいのかな。ちいちゃんの様子からすると、大丈夫だとは思うんだけど。…でも、なんで、ちいちゃんはそんな風にしていられるんだろうな。何も思わないのかな。わたしだけが思い詰めてるのがなんだか悔しくて、つい、言わなくていいことを口走ってしまう。

「ちいちゃん」

「…ん?」

「…寂しく、ない?」

もう答えはわかってる。「ん、」という、いつもの返事が来るんでしょう。辛くなるだけなのに、なんで聞いちゃったんだろうな…と、俯きながら彼の言葉を待つ。けれど、…おかしい。いつまで経っても、返事がない。ふと視線を上げると、ちいちゃんはなんと、わたしを見つめていた。飴玉のような色の瞳をまん丸にして、心底驚いた、というような顔をして。びっくりしてしまったわたしをよそに、ちいちゃんは食事以外に滅多と開かないその口を、ほんのりと開いた。

「さびしい、って、なに?」

「何…って、寂しいは寂しい、だよ」

「…知らない。俺、それ、知らない」

次に瞳をまん丸にしたのは、わたしのほうだった。寂しいを知らない…って、ちいちゃんにはまるで心がないみたいだ。けれど、今まで一緒に過ごしてきたちいちゃんは、確かに喜怒哀楽を持っていた。知る、知らないの問題ではなく、きっと言葉を理解していないだけなのではないだろうか。そういう結論に至って、わたしは咄嗟に思いつく「さびしい」と感じたことを、ぼんやりと独り言のように口にしていく。

「誰か、好きなひとや大切なひとがいないとき、とか、好きなひとがそこにいたとしても、自分のことを見てくれないとき、とか…。とにかく自分は独りなんだなーって思ったとき、かなあ…」

改めて考えてみると、それこそ寂しくなってきそうだ。そんなわたしの気持ちのちいさな犠牲のおかげで、ちいちゃんは傾げたままだった首をひょいと真っ直ぐに伸ばし、じっとわたしを見つめて呟いた。

「……さびしい、の?」

「……ちいちゃんのことは、ちいちゃんじゃないと分からないよ、」

「俺じゃない、俺のことじゃない、」

質問に質問で返すのはずるいと思うのだけれど、きっと彼のルールにはそんなの存在しないんだろう。ちいちゃんはわたしをじっと見て、そう尋ねた。裏表のない真っ直ぐな飴色の瞳が、純粋な興味を示している。…なんで、そういうことを聞くのかなあ。心の中の答えは決まっている。でも、頭の中で、理性で考えたことは、それを言葉にすることを拒んでいる。俯くわたしを、ちいちゃんがそっと、指差した。

「俺がいないと、さびしい、の?」

訥々と、緩い言の葉が、胸をたおやかに刺してゆく。…ほんとうに、やめてほしいんだ。俺がいないと、なんて、まるで依存を深めてほしいって言ってるみたいなものなのに。でもちいちゃんに、"そういう"気は全くない。わたしが勝手に思いつめて、独りで苦しくなってるだけ。喉が焼けるように熱くって、こんなにも痛い心が、感情が理性を侵食してくる。一度拒めたことが、拒めなくなってしまって。手に持ったまま、わなわなと震える箸に、ぽたりと滴が落ちた。

「…さびしい、よ」

――さびしいよ。わたしは今、せかいでいちばん、寂しいよ。ちいちゃんと出会ってから、お鍋もフライパンも調味料も増えちゃった。つまみ食い用のお菓子だって買っちゃったし、ひとりじゃ食べきれないの、賞味期限も近いの。そんな、ちいちゃんの気配が残るこの部屋で、これからわたし、独りで過ごすの。そんなのって、あまりにも酷すぎる。いや、そんなの、いや。

ぽたぽたと、音もなく涙を落とし始めたわたしに、ちいちゃんは何もせず、ただそこに座っていた。慰めてほしいとか、そんなこと望んでないはずだ。そもそも、泣いて困らせたくなんかなかった。今日は、お別れの日。笑顔でサヨナラしなきゃ、いけないのに。一度解き放たれたこころは、もう理性なんかに目もくれない。きっと彼を困らせることばかりを紡いでいく。

「わたし、…ちいちゃんが好きだよ。ちいちゃんは、わたしの、好きな人だから、好きな人がいなくなっちゃうから、わたし今、寂しいって思うんだよ…」

「……」

「ちいちゃん、ここにいて。わたしのそばにいて…他の誰かのところに行くなんて、ほんとは、やだ…わたしを置いていかないで…」

こんなのただの、浅ましくて、愚かで、醜い女。勝手に思いを募らせて、ちいちゃんの気持ちなんか無視して、無茶なことばかり言って。もう、ちいちゃんの新しいトレーナーは決まっている。ちいちゃんを取り返すことなんか、わたしにはもうできない。ほんとうに、無茶なこと。

でも、いちばんの無茶は、ちいちゃんを好きになってしまったこと。こんなにも、溢れんばかりの想いを抱いてしまったこと。なんて、バカなんだろう。

膝を抱えて顔を伏せて、ただ独りで啜り泣いていた、そのときだった。…自分とは違う温度が、肩にそっと寄りかかってきたのは。それは、彼の温度にはじめて触れた瞬間であった。首筋にあたるくすぐったい感覚は、きっと彼の髪。肩に触れるあたたかな感覚は、きっと彼の腕。ドクン、という一拍の大きな振動が、心臓からからだじゅうに響きわたった。

「…俺、は」

「……」

「寂しく、ない、よ」

決して、わたしに真っ直ぐ投げられるわけではない音。息を呑んで、涙を止めて、彼のスローテンポなことばの続きを待った。

「俺は、さびしいって、あんまりわかんない。…ずっと独り。ここが、はじめて。ここに来て、はじめて、誰かと一緒に、いた」

「…うん」

「だから、さびしい、よりも。俺、こっちなら知ってるから、ちゃんと思える。おいしいって俺が言ったとき、とか、外に戻るときとか、俺に、いっぱい言ってくれたことば」

ふっと、膝を抱えていた手がぬくもりに包まれる。がさがさで硬くて傷ついた、彼の手のひら。彼の気配が私の隣から正面へ移動したのを感じて、恐る恐る、顔を上げてしまった。そして飲み込まれる、金の、飴色のひとみの世界。それは泣きたくなるほどにうつくしくて、きれいで。わたしの好きなひとの、世界だった。

薄い口許が、揺らぐ。

「ありがとう。おいしい、ごはんを。それから、いっしょに、いてくれて」

…ああ、なんで、そういうことを今になって言うのかな。視界がゆらゆらと震えて、彼の表情がぼやけて滲んでいく。薄黄色、肌色、金色、唇の淡色が全て混じり合って、ああ、せっかくちいちゃんの綺麗な顔を、この目に焼き付けておきたかったのにな。だいすきなひとと、サヨナラなのに。自分の泣き虫を今ほど恨んだときはなかった。

そう、だから、わたしは知ることができなかったのだ。ちいちゃんがそのとき、微かに微笑んでいたこと。そしてそれは、私の笑い方によく似ていたこと。堪え切れなくなった嗚咽をあげながら彼の肩にしがみ付いて、ただひたすら泣き続けていたわたしには、知りようがないことだった。

それから、ちいちゃんはわたしの前から姿を消した。

***

あれから、どれだけ時間が経ったのだろう。わたしは、相変わらず人様に流されながら生きている。毎日会社に行ってパソコンに向き合い、社長に怒られ、とあるSNSのバグ修正報告に追われる、いつも通りの日々。なんでこんなに些細なバグまで修正しなくちゃならないのだろうと時々思うのだけれど、わたし自身ポケッタラー利用者でもあるし、自分のためだと思ってモチベーションを保っている。

実際お昼休憩になると、ついポケッタラーを開くのが癖になってしまっていた。もう画面を見ずとも、だいたいどの辺りにアイコンを配置したのかも覚えてしまっている。何を見るわけでもなしに、流れてくる情報にわたしの言葉も流されて、ただただ、流される。ちいちゃんがいなくなってからは、特にそんなわたしの性格が顕著になってしまっていた。

何も考えず、上から下に指を弾いていく。その中に、一枚の写真があった。最近アイドルを辞めると騒がれた(とは言ってもアカウントはそのままに旅の記録をつけ始めたらしい)、可愛い少年の投稿だった。「新しい仲間が増えたよ☆」なんてタイトルで、斜め上からの少年の自撮りショットがサムネイルに表示されている。あー、やっぱり可愛い子だな、と、試しに全画面で表示してみる。そして、わたしは、目を奪われた。言葉も、奪われた。だって、少年の後ろに、いるのだ、

「……ちいちゃん」

あのとき視界に滲んでいた色をそのまま、携帯の液晶は映していた。少年の真似をしてか、頬にぴとっと手を当てて小首を傾げ、小顔ポーズを決めている。場所もわきまえず、ついくすっと笑ってしまった。ちいちゃん、きっとそのポーズの意味とか分かってないんだろうな。ちいちゃんは無知だから、すぐにわたしの真似もしていたっけ。

ひとしきり笑いきった後、じっと、ちいちゃんと一方的に視線を合わせ続ける。そっか、…良かった。ちいちゃん、楽しい思いをしてるといいな。あのときあれほど溢れかえっていた寂しさも、ないことはない。でも、今はそれより、彼の幸せを願ったりとか、ありがとうの思いとか、あたたかい気持ちのほうが強くなっていた。

…それを伝えるために、何か、できないのかな。それは、普段流されてばかりのわたしにとっては、滅多と湧かない感情だった。けれど今更、彼に直接連絡を取ろうなんてことは出来ない。でも、一言だけ伝えたいことがある。わたしがここにいることを、ちいちゃんにたくさんの思いを貰ったことを、伝えたいのだ。じっとポケッタラーを見ながら、目についたコメントのボタン。…そうだ、これだ。少し、意味深を気取ってみよう。携帯に、指を滑らせる。

@sinzinordinary:@PachiRio_cute
はじめまして、理央さん。新しいお仲間さん、素敵な方ですね。彼は箸使いが上手でないので、スプーンを渡してあげると喜ぶと思います。それから、彼に、もうわたしは寂しくないことと、ありがとう、と伝えて頂けると嬉しいです。
彼をよろしくお願いします。


投稿。
こころに、すうと爽やかな春風が吹き抜けた。


さよなら・ららら
Title by 3gramme.
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