今度生まれてくるときは、全ての幸福が包みますように
仕事から帰ってきた冬の夜でも既に部屋が暖かいこと、美味しい料理の匂いがすること、彼のおかえりなさいを聞くこと。全部最初は慣れなくて、びくびくしていたものだ。でも彼が私のマンションに住み始めて半年ほどの今となっては、そんな純情な私のドキドキはどこへやら。帰ってくるなり、祐月くん聞いて前言ってた新人の子がね〜、そうそう祐月くんと同い年くらいの子〜…なんて濁声で仕事の愚痴を言い始める始末である。女子力、とは。まあその面はもう諦めてるんだけど。だって身近にこんな女子力の高い――掃除洗濯料理裁縫はもちろん、複雑なオンナゴコロを理解してくれる男の子がいるのだ。不貞腐れて当たり前でしょ?そういうわけで、私は欲望に従う。化粧も落とさないまま、最近買い換えたばかりの真っ黒革ソファーにだらしなく寝っ転がった。あ、やっぱ、冬は革があったかくていい。

「ああ、例の。また仕事押し付けられたんですか?」

「そうなの!私は何でも出来るスーパーハイパーマスターキャリアウーマンみたいに思われてるのよ、きっと。私だって人間よ!」

「そうですか…。僕には全然そんな風には見えませんけどね、初めて会った時からそうでしたよ」

「…あの時?今ならともかく、あの時私、完全に仕事モードだったんだけど。ばっちりキメてるはずだったんだけど」

ことん、とワイングラスが置かれる音に、注がれる音が続く。ぐったりとしながら顔を上げると、ちょうど私が飲みたいなって思ってた秘蔵のやつ。…祐月くんには隠してたつもりだったんだけど、いつの間にばれてるんだろう。超能力者か、それとも魔法使いか。とにかく悔しくて、クッションを両腕でぎゅっと抱きしめた。

――祐月くんと出会ったのは、半年前。私が遊び半分で開発したポケッタラーという、バカみたいな名前のSNSがバカな若者にバカ受けしてしまい、私はその開発者とか社長とか創設者とか、とにかくあれよあれよとしがない喪女プログラマーが世界に知れ渡る超有名人へと仕立てられてしまった。側からしたらこれ以上ないシンデレラストーリーだが、私からすればマジ、じょーだんじゃない。ただの悲劇である。変装なしに深夜のコンビニにでも行ったものなら、即ポケッタラーで拡散されるのだ。「【俺たちの創世主】あの女社長が深夜のコンビニに現るwwwwww【ジャージとスッピン】」なんて見出し付きで。笑った。自分の作ったツールで自分の行動が制限されているのだ。…笑った。

行動は制限されるばかりではなく、強制されることにもなった。いつの間にやらウチの新人が引き受けてしまった慈善事業の話の流れで、私はなぜかあのグレン大噴火の生き残りであるというキュウコンを引き取ることになったのだ。

昔からポケモンと戯れるよりプログラム言語や機械と戯れるほうがずっと好きだった私には、鬼としか思えない仕打ちである。まあでも、一度引き受けてしまったものは仕方ない。キュウコンと共同生活できるくらいには広いマンションに引っ越し、そのキュウコンを迎えに行った。その際にインタビューも受けたから、相当かっちり引き締めたよそ行きの私のはずだったのに。

ワインを飲み干すと、次にはアスパラの肉巻きっていうの?よく分かんないけど、とにかくオシャレなつまみが差し出される。なんの疑いもなく口に放り込んだとき、思った。…あ、私徹底的にダメに調教されている。

「貴女が初めて僕を見て、これからどうぞよろしくねと言った瞬間、ああこの人本当はポケモン苦手だしこんなことしたくないんだろうなって。それを隠して虚勢張って仕事してるんだなって思ったら、可愛い人だって思いましたよ」

「……祐月くーん、好きぃー。大好きぃー」

「はいはい」

そう、そのキュウコンが、こんなオトメンのイケメン主夫だなんて知らなかった。彼が人の姿を取るようになったのも、きっと彼の優しさ。多分私がポケモン苦手なのを知ってのことなのだと思う。あと、私の生活があまりにもだらしなさすぎるのもあるかも。そういうわけで、大嫌いなポケモンとの共同生活は、あっという間に夢のイケメンとの同棲生活へと変わった。今だって、勢いで彼の肩に寄りかかってぐりぐり頭を押し付けていると、ぽんぽん頭を叩いて宥めてくれる。祐月くんは、とことん甘やかし上手だ。

「てか、私を可愛いって言ってくれるのなんて祐月くんくらいしかいないよ。もうやだ。外なんて出たくない。祐月くんと一日家で過ごせる日が欲しい。祐月くんとずっとぐだぐだしてたーいー」

「僕のことより、そろそろちゃんと恋人は作ったほうがいいと思いますよ。ご両親心配してたじゃないですか」

「うるしゃーい!やだもん!だーって私の価値なんて金と名誉だけだよ!そんなの目当ての男と結婚とか絶対いやだし気色悪いわー!」

だって、祐月くんが悪いんだ。祐月くんみたいな完璧な男の子が現れたせいで、他のわりかし妥協できそうな男さえもゴミクズにしか見えなくなるんだ!婚期が遠ざかってるんだ!祐月くんのせいで!手当たり次第にクッションを投げつけると、すかさず全てキャッチされ、私の膝の上に戻される。そういう動体視力の良さを見せ付けられると、やっぱり祐月くんはポケモンなのだと思い出す。

…そう、祐月くんは、彼氏でもなんでもない。ただの、私のポケモンなのだ。祐月くんがポケモンでさえなければ、絶対に今頃付き合ってたし、ちゃっちゃと挙式してた。「【俺たちの創世主】一般年下イケメン彼氏と結婚【おめでとう】」とかなら、いくらでも拡散してほしい。あっ、その前に既成事実作ろ!祐月くんが私から離れることなんてないように、縛り付けてやる。

ひたすら騒いでたら気が済んだ。ぎゅーっと、彼のお腹に抱きついて、年甲斐もない上目遣い。彼もそんな私の扱いは慣れたもので、綺麗なルビーの瞳を少し柔らかくして微笑んでくれる。そして、彼はやっぱり超能力のように、魔法のように、私が欲しい言葉を全部言い当ててくれる。こうすれば私のご機嫌が直ることを、彼は知っているのだ。

「もし貴女がそんな碌でもない男と結婚させられそうなら、僕がちゃんと倒してあげますよ。オーバーヒートで一発KOか、おにびからたたりめでじわじわと苦しめるのか、どっちがいいですか?」

「オーバーヒート!一発KOがいい!スカッと!」

「じゃあ、そうしますね。…そもそも、貴女はお金や地位抜きで十分魅力的ですよ。大丈夫です。良い人が必ず見つかります」

「…それって、女としてってこと?祐月くん、私のこと女として、ステキだと思うの?」

…ねえ、なんで、黙っちゃうの。なんで私の欲しい言葉をくれないの。彼の膝の上に頭を埋め、お腹に腕を回したまま、私は顔をあげられずにいた。返事の代わりにと、私の頭を撫でる彼の指は、彼の手のひらは、ごつごつしくて私よりずっと大きい男の子の手つき。男の子が、女の子をあやす手つき、なのにね。

でもね、前から分かっていたよ。私は祐月くんの"男の子"に縛られてるけど、私が祐月くんを、モンスターボールの赤い光でしか縛れない。今となってはただのキーホルダーと化してしまった、あのボール。肌身離さず持ち歩いて、彼が壊せないようにしているあたり、私は臆病で、不安症だ。ほんとうはこんなもの無しに、私は、私の"女"で、彼を縛りたい。私は彼の前で、女になりたい。家族愛でも主従愛でも同情でも憐憫でもない、劇的なまで私を求める、彼の熱情が、欲しい。それが私の、一番欲しいものだよ、祐月くん。なのに、なんで、ねえ。

くやしくて、かなしくて、恨めしくて憎くて愛おしくて。色んな感情が心臓のところでぐちゃぐちゃのどろどろになって、絵の具がごちゃまぜに混じった、バケツの中の色水みたい。汚くて濁った、何色とも言えない色。それが彼の体温の中にいる間にあつくなって、あつくなって、あつくなってあつくなって。それで、あ。決壊しちゃったよ。

ゆらりと顔をあげると、熱っぽく彼を見上げる。彼は、少し驚いたようだった。憎たらしいほどに綺麗な瞳をほんの僅かに丸くする。そんなちいさな彼の所作が、私を優越に浸らせる。

「ねー、ゆづきくん」

私を撫でていた手を取って、彼の指と指の間に、私のちいさな指を差し込んでゆく。恋人を気取った繋ぎ方。そして、恨めしいまでに綺麗な彼の長い髪を解き、肩を軽く押した。あまりにも呆気なくソファへ倒れ込んだのは、きっと彼が気を抜いていたからだろう。金糸が黒い革のソファーに広がって、なんだかリッチな配色ね。私も、伸ばした前髪まで一緒に後ろで結わえていたのを解き、首を振って髪を無造作に降ろす。そして、彼に覆い被さった。

「私を女にしてよ、祐月くん」

「……」

「祐月くん、おねがい」

額を合わせて、こんなに近いっていうのに、祐月くんは沈黙と無表情を貫いて、まるで状態の良い屍体のようだった。彼の首や頬に艶めかしく手を這わせても、彼は何も言わない。何も反応しない。ただ、何も抵抗することなく、私の為すがまま、屍体のように横たわるのみ。悔しさと劣情と苛立ちが全部混じって、唇を強く噛み締めた。何よ、祐月くんのバカ。いいからさっさと私を抱きなさいよ。

初めて触れた彼の唇は、とても甘くて美味しかった。私が勝手に、彼の唇を蝕みはじめたのだった。甘噛みするように何度も角度を変えて食み続けていると、ようやく彼は少し拒むように顔を逸らしたけれど、それだけ。私がひとりで盛ってるだけ。それも、まるで屍姦みたいなこと。惨めさが涙になって、ぼたぼたと彼の頬に落ちた。もう、やだ。はやくしあわせで満たしてよ。そしたらあなたもしあわせじゃないの?いやよ。こんなの、いや。彼のあたたかな胸にしがみ付いて、啜り泣いた。せり上がってくる激しい自己愛と自己嫌悪に浸った。

「…祐月くん。好きよ。私、あなたが好きなの。分かって。あなたと一生一緒にいたいの。狂うまで求めあってたいの」

カエルが喉を潰したようなガラガラの声で、必死に叶わない愛を囁く私は、なんて惨めな女だろう。

「私、しあわせが欲しいの。あなたと一緒に、しあわせになりたいの。あなたとしあわせに、生きた……、っ」

「それだけが出来ないから、貴女にこんな酷い仕打ちをしてしまうんです」

ドクンと彼の心臓が動いた。私の心臓が止まった。

肘をつきゆっくりと、彼は上体を起こして私の両手首を掴んだ。それを自分の膝の上に置いて、私の肩に頭を乗せた。それは彼が私と出会ってから初めての、彼からの接触だった。彼の声が、私の躰を直接震えさせる。

「僕は、しあわせになれないから、だめですよ」

「……なんで」

「僕は、生きる権利を持ってない」

「……っ!なんで!」

「僕は、苦しむための、死ぬための存在だ。貴女と生を享受してはいけない。それとも、貴女は僕を殺してくれるんですか」

掴まれたままだった私の両手首が、彼の首にあてがわれ、親指は彼の喉仏に触れさせられる。力を入れたくなんかないのに、上からぐいと押し込まれて、まるで私が彼を殺そうとしてるみたいだった。彼の脈拍は、重い。心臓のポンプが、確実に彼のからだじゅうに血液を行き渡らせている。それを、私が止めようとしている。私のちっぽけな心臓がそんな重圧に耐えられるわけなく、間抜けにポコポコと泡みたいな脈拍を鳴らしていた。

「や…やだ…ゆづきくん、何を、」

「……っ、そのまま、力を入れてくれませんか」

「いや…いやよ、私が、どうして…!」

だんだんと血が上り、喉を中心として彼の身体は赤みが増してくる。それでもまだ、私を掴む手は離れない。彼の首の中、頸動脈と喉仏とがこの手で潰されて、気道を狭めていく感覚。コリ、と時々喉骨を折りそうになるのが怖くて、私のほうがずっと悲鳴を上げ続けていた。

ひとの首を絞めるのって、こんな感触がするなんて、知りたくもない…、そこまで思い詰めて、どくんと大きな鼓動が響いた。…なんで、そんなはず、ないのに。私、この感触を知っている・ ・・・・・・・・・・。同じ太さ、同じ位置の骨、同じ位置に手をあてがわれて。私は前にも、彼の首を絞めた?しかもそれは恐らく、一度や二度といったことではない。何度目も、数え切れない回数。記憶にはないのに、手のひらの感触がやけに手に馴染む。下手をすれば、そのまま力を入れてしまいそうだ。わなわなと震えだす私を、祐月くんは苦しげに、でも嬉しそうに口許をふわりと緩めた。

「…思い、出しちゃいました、か…。もうそれでも、いい、です。死という結果さえ、得られれば…」

「やだぁ…いやよ…っ、なんで私があなたを殺すのよ…ねえ、祐月くん、」

「お願いします、はやく、はやく…、僕をはやく殺して…」

ふっ…と、上から重ねられていた力が抜ける。彼の首に残されたのは、もはや私の両手のみ。朦朧と焦点の合わない視線で、彼は私を見下ろした。続きを、とどめを求められているのだと、すぐに分かった。でもそんなの、出来るわけがないじゃない。ぼたんと膝の上に落ちた私の両手を、彼が茫然と眺める中、私は彼の胸に泣きついた。

「私…っ、私、ゆづきくんが、何言ってるか、ぜんぜんわかんない…っ、私、あなたを殺せない…!」

まるで命乞いみたいなのに、命の危険は彼のほうにあるという、矛盾。涙でぼやけた曖昧な視界の中で、ようやく彼の瞳を見つけた。屍体のように、光のない瞳。あとから嵌め込まれたみたいに綺麗なルビー色なのが、場違いで逆に可哀想だった。

その瞳が、私の言葉を聞いた途端、ふっと閉じられた。そこからもう少し視線を下せば、私のつけた鬱血痕が生々しく残る彼の首。赤黒く、グロテスクな点線に嘔吐感すら催しかけた瞬間、ふわりと彼の腕に抱き止められた。そのからだが冷たくなくて、ちゃんと温もりを有していて、生きてることに、私は大声上げて泣き出した。祐月くんの背中を、もう一箇所傷跡つけてやろうかってくらいにボコボコ叩きながら泣き続けた。祐月くんはそれをまた、屍体みたいになって受け止め続けていた。

だめだわ。私じゃきっと、だめなの。私は彼の薄暗いところに触れることができない。こうして、ただ泣き叫ぶことしかできない。彼と心もからだもひとつになるには、ほんとうに愛し合うには、しあわせになるには、そういったことができないと、だめ。私にはその資格がない。私如きが彼をもっと深く知ったら、きっと私のほうが許容量オーバーで壊れて死んじゃう。ごめんね、祐月くん。出会ったのが私でごめんね。きっとこの運命、どっかでネジが狂っちゃった運命なんだ。あなたはきっと本来私に出会うべきではなくて、"正しい"人に出会うべきだったのよ。

それでも、私だって、ハズレくじの私にだって、チャンスはあるって信じたい。心がだめなら、やっぱり、躰。女のこの躰。そこしかつけ込める場所がないじゃない。私は彼の乱れた長い髪をそっと梳いて、なけなしの心を込めたキスをした。

「祐月くん、でも私、あなたが好きよ…あいしてるの…嘘でもいいわ…だから、」

「…可愛い、人」

はっと、全身の力が魔法みたいに弛緩した。でもこの感覚も、私覚えてる。記憶だと、一度。不眠症になりかけたときにやってもらった。でも身体は、この感覚を何度も繰り返されたと叫んでいる。…これは、技。さいみんじゅつ。そして朝になったら、記憶も抜けちゃうって、私あのときに知って…。

「また、駄目でしたか。でも少しずつ、貴女の手は記憶して、慣れ始めている…僕を殺す、感触を」

「ゆ、づき、くん……これで、何度目……私は何度、あなたの首を絞めたの……」

「…もう、数えるのは諦めました」

思い返しているうちに、意識が朦朧としてきちゃって、ふわふわ、浮き沈みをする思考。彼にもたれ掛かって、首もがくんと落ちて、今度は私が屍体役ね、祐月くんは、人殺しね…。そんな言葉ももう呂律が回らなくて、彼には伝わることなく。彼の声も、もう輪郭を失ってぼやけた音としてしか、感じることができなかった。

「いつか、…いつか。貴女のその両手が、力の入れ方を覚えたときを、僕を絞め殺してくれる日が、来ることを。それまでは、可愛いほどに愚かな貴女と共に、僕は、」

ただ私の落とした、さいごの涙の一雫だけは、革のソファーにぽたんと音を立ててその存在を主張していた。


今度生まれてくるときは、全ての幸福が包みますように
Title by 3gramme.
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