「…あ、」 彼女の泣き顔に興奮して、目が覚めた。 …早朝。ポケモンたちがまだ寝ていることに感謝した。今日にはこのポケモンセンターを出ようとしていたから、今のうちにコインランドリーで乾燥機にかけてしまうしかない。音を立てないように着替えた、その次の瞬間から、おれの頭には罪悪感しかなかった。もう、何回目だろうか。夢に彼女の泣き顔を見るのは。そして、飽きもせずあやまちを重ねるのは。 おれはあの出来事から、変わった。やかましく騒ぎ立て、コドモの権利を訴え続けるのをやめた。静かにただ、観察しはじめた。周りのことを、大人のことを。そうしてひたすら、考えていた。彼女を――ヒナリを、どうしたらほんとうの意味で、救えるだろうか。今もきっと、孤独に違いない。友達らの間で彼女の記憶が風化するなか、おれだけは彼女のことを、どうしても忘れられなかった。どうしても彼女を、救わなければならないと思った。贖罪をしなければならないと、思っていた。 結局辿り着いた結論はこうだ。…彼女を探し出す。絶対に、探しだしてみせる。そしてそのとき、おれは立派な彼女のヒーローになる。もう、口先だけのヒーローじゃない。おれは彼女に寄り添い、支え、彼女を愛するヒーローにならなくてはならない。そのためには、力が必要だ。おれ自身にも、おれのポケモンにも。そんなことをし続けているうちに、気がつけばおれはカントーのジムを全て制覇していた。でもそこで彼女を見つけることが出来なかったから、次におれは隣の地方、ジョウト地方のジム巡りで力を蓄えつつ、彼女を探し求め続けていた。 そんなおれのことを、皆が「エリートトレーナー」と呼んだ。力を追い求め続ける、トレーナーの鏡であると。でもおれは、それで喜ぶ気にはなれなかった。おれがなりたいのは、エリートでも、トレーナーの鏡でもない。ただ、彼女だけのヒーローだ。 なのに、ヒーローに、なりたいはずなのになあ。これじゃあただ初恋を引き摺る気持ち悪い変質者だ。バシャバシャと洗面台で下着を洗いながら、思う。あの頃は可哀想でしかなかった泣き顔を、今は興奮材料にしているなんて、しかも、無意識のうちに。…最悪。彼女がおれを呼ぶ声も思い出せたときには、一体おれはどうなるのだろう。早くこの手のものを手放したくて、きちんと搾り切らないうちにコインランドリーへと向かったのが、早朝のこと。 昼は、この街のジムリーダーに挑戦していた。相手はゴースト使いのマツバ。のらりくらりと掴み所のないゲンガーの幻術攻撃と、高威力のシャドーボールが脅威だったが、そこは流石にカントージムを制覇したおれたちだけある。カイリューの逆鱗が、一撃必殺となった。このカイリューは、彼女がクチバの港でこっそりと保護していたあのミニリュウを進化させたものだ。彼女の成り行きとおれの決意を伝えると、どうやらおれの計画に賛同してくれたらしい。今となっては、カメックスと並んで、初期からの頼れる相棒だ。 不敵な笑みを浮かべたマツバが、かつかつとおれへと歩み寄ってくる。正直、ジム戦の感動とかそういうものは求めていないから、業務的にさっさとバッジを受け取ろうとしていたのだが、マツバは違うらしい。乱暴にジムバッジへと伸ばされたおれの手を、マツバは無理矢理掴んで引っ張ってきた。おわっ、と思わず前のめりになるおれを、マツバはじっと、見定めているようだった。どんな反応をとったらいいのか分からず、ただ怪訝に見つめ返すことしかできなかったけど、ふと、マツバはさっきまでの飄々とした笑みに戻って、おれに告げた。 「待ち人、来たる」 「……はあ?」 「だから、君の待ち人は、もうすぐ来るよって。ぼくが千里眼の持ち主だって、君、知らずに来たの?」 なんとも突拍子のない話を、さも当たり前のように言うマツバ。んなこと知らねえよ、おれがこのジムを訪ねたのはただお前の強さが目的だ…逆らおうかと思ったが、内容が内容なのでそれは態度だけで示しておく。待ち人。おれがずっとずっと、再会する日を待ち続けている人。そんなの、一人しかいないに決まっている。完全に信用したわけではないというのを、見下す視線で表しながら、おれはマツバにもう一度だけ問いただす。 「彼女に、どこで会える」 「それなら、大丈夫だよ。君が探しに行かなくても、知らせがやってくる、」 その台詞の途中でのことだった。ピロリン、という、おれの携帯の通知音。どきりとした。「ほらね。確認してみるといい」マツバの言葉に軽く礼をすると、おれは慌てて携帯を開く。ポケッタラーの通知だ。連絡してきたのは、えいちゃんだった。例の一件があってから、おれたちはそれなりに連絡を取り合うようになっていたのだ。 @A_chuchu_ いまどこにいる!?!る @shosimin_5 エンジュ。何か用? @A_chuchu_ ちやうどいい!!さつきわたしがかくさんしたのみて!!それではゆくいって!! 訳がわからないが、彼女の焦りだけは伝わった。彼女のアカウントのホーム画面に戻り、何回か画面をスワイプすると、おれは心臓が止まるのを感じた。見間違えるはずがない。誰が投稿したのかも分からない、その記事の画像に載っている、この少女は。 「ヒナリ…」 淡い色の、毛先がふわついた髪。胸元に手を添えて、何かを堪えるかのような仕草。怯えたように潤んだ瞳。白い肌。泣き顔。ヒナリだ。成長したヒナリが、画面の中にいる。しかも記事を流し読みすれば、ポケモンと喋れるだとか、またそんなような内容。またきっと、ヒナリは苦しんでるんだ。ヒーローの助けを、おれを待ってるんだ。絶対、絶対そうだ!熱い思いが胸を占める。マツバに礼を言うことも忘れて、おれは衝動のままエンジュジムを飛び出していた。 彼女がいると書いてあったのは、エンジュシティの西側の出口付近のゲート。駆け出して向かった頃にはすでに人だかりでいっぱいだったが、そんなのを無理矢理押し分けて前へ前へと進んで行く。ヒナリ。ヒナリ。ずっとずっと会いたかった。謝りたかった。あの日からおれはおまえのことしか考えてないんだ。あのときの手袋だって渡せず終いなんだ。なあ。ヒナリ。今、助けに行くから。自然と口元には笑みが零れていた。やっと、おまえのほんとうの、ヒーローに、おれは、なるんだ!最後の人の壁を、超えた! ――超えた、とき。おれの足は、止まった。笑顔も、凍りついた。いや、一瞬にして燃やし尽くされたと言ったほうが、適切、だろうか。ヒナリは、目の前にいた。男の腕の中にいた。真っ赤な、真っ赤な、激情をたたえた瞳の持ち主の腕の中で。ヒナリはその男の愛おしげな手つきに姫のように抱かれ、涙を零しながら眠っている。力の抜けた体。きっと、倒れてしまったのだ。 ヒナリを抱いた男が、一歩一歩を踏みしめるように、歩み出す。それからはまるで神話のようだった。あれだけおれが押しのけて乗り越えてきた人ごみが、あの男の視線ひとつで、道を作るように割れてゆく。おれも、その群衆の一人。体が自然と動いていた。無意識が、本能が、あの男の怒りの程を察知していた。逆らえばどうなるのかを、経験したこともないのにおれたちは知っていた。あの男が、ヒナリが、おれの目の前を通り過ぎてゆく。手を伸ばすことさえ出来なかった。…いいや、出来たとしても、しなかった。 あの男に続き、数人の男たちがあとを追うように歩いていく。恐らくは、彼女の味方なのだろう。その姿がやがて北側のゲートへと消えてゆくのを見届けると、聴衆は口々に彼女の噂話をしたり、携帯を開いて即座に何かを投稿しようとしている。だがそんな人々もやがてはいなくなり、おれは道のど真ん中、ぽつんと一人、取り残されていた。ただ、彼女の消えていった方角を見つめ続けていた。 「…ヒナリ」 なあ、ヒナリ。 おれは、おまえの、ヒーローじゃなかった。 おれは、おまえという物語の、舞台に上がれるような存在じゃなかった。 おれは、おまえの、ただのモブ。 おれは、ただの、小市民。 「あはは…はは、ははは…!なんて、なんてことだ!あはは、あはははは!!」 気を狂わせて嗤い出したおれを、人々が気味悪げに避けて歩く。千鳥足でよたよたと町中を歩き回って、ジュンサーさんに捕まりそうになったのを無理矢理に振り払う。ジムバッジを見せれば、簡単だった。嗤いながら、泣きながら、おれがたどり着いたのはエンジュ内を通り抜ける大きな川。橋からその流れを見下ろして、おれは嗤い続けた。嗤いながら、大粒の雨を降らせ続けた。それしか、できなかった。 ――よかった!これは、喜ぶべきことだ!おまえを守ってくれる人があんなにたくさん!よかった、ほんとうに、よかった!おれみたいなニセモノヒーローじゃなくて、ほんものが、ちゃんといた!しかもあいつ、絶対つえーぜ。力もそうだけど、意志がだ。おまえを守ろうとする、意志が、想いが!おれには分かる。歴戦練磨のエリートトレーナーの名は伊達じゃねえ。そんな、おれも認めざるを得ないような奴がおまえのそばにいて、おまえのヒーローをしている。これ以上の、安心材料はないだろう!ああ、これで、おまえは一生幸せだ!泣き続けるおまえの夢も、もう見なくて済むだろう! …でもよお、そう思うとよお。おれって、なんて恥ずかしい奴なんだろうなあ!勝手に使命感に駆り立てられて、おれだけがおまえを救えると思って、この身を、一生を捧げようなんて思って!自分こそがおまえのほんとうのヒーローだって思って、強くなって迎えに行くよ、救いに行くよ、だってさ、あはは!そんな馬鹿な幻想抱いてたんだぜ。笑ってくれよ、もう。うぬぼれで自分を今まで保ってきたおれをさあ、それが今全て崩れ去ったおれをさあ! おれは、これから、どうしたらいいって言うんだ。なあヒナリ、教えてくれよ。もう、教える義理すらないって言うのか!そう、だろうなあ。だっておれは、おまえにとってのモブだから。おれはただの、小市民。おれだけが、おまえと同じ位置に立ってると思ってたんだ。おまえからしたら、おれなんか、どこにでもいるありふれた存在なんだろう。使い捨ての、どんな思いをしていたって構わないような奴なんだろう。おれの代わりなんて、いくらでもいるんだろう。おれじゃなくてもいいんだろう。 鞄の奥に埋まっていた、あの手袋を取り出した。オレンジ色の、可愛らしい手袋。もう彼女の手には入らないような小さなものだ。もう、こんなもの、要らないよな。こんなものより、あの男のぬくもりがおまえの手のひらを温めてくれるだろうから。おれが包み込んでやることのできなかった、あの手のひらを。良かったよ、ヒナリ。手摺の先へ、手を伸ばす。そのまま手を開けば、手袋はこの川に落下し、水の流れに沿ってどこかへ消え去るだろう。おれの想いと一緒に。 なのに、何故。何故、おれの手はこれを離そうとしないんだ。もう片方の手で無理矢理に開かせようとしても、手と融合してしまったかのように手袋が離れない。なんでだよ、早く、楽にさせろよ!一人で叫んで喚いても、手袋はほんとうに手と溶け合ってしまったかのようだった。実際、そうなのだ。手袋に詰まった、彼女への想い。初恋の淡い記憶。幾多のあやまちの記憶。それは、今のおれを形作ってくれた、大切なもの。もう死ぬまで、おれを離しちゃくれないんだろう。融け合ってしまって、決して消えない。ただ痛いだけの融合。 ぼたぼたと、まだ涙はみっともなくおれの頬をつたい続けていた。嗚咽も、止まらない。恥ずかしくなって、その場で膝を抱え込んで泣いた。あのとき彼女が空に向かって泣いたのを真似するように泣いた。そうすれば、少しだけでも彼女のいる舞台の上に近づけるんじゃないか。さいごの希望だった。でも、やっぱりだめだ。おれごときじゃ、世界は何も変わらない。たぶん、あの男だったら変えられる。根拠はないのに、確証を感じさせるところが、ああやはりあの男は彼女に釣り合う舞台の上の人間であると思い知らされる。嗚呼、おれじゃあ、だめなんだ。おれじゃあ、彼女を救えない。おれは、ちっぽけな小市民! 慟哭が徐々に、噎び泣きへ、しとしととした啜り泣きへと変わってゆく。惨めな思いは、変わらない。でも涙って、枯れるんだ。もう泣くことも笑うことも出来ないよ。なら、おれはなにしたらいいんだ、ヒナリ。おまえのいない世界なんて、何の価値がある。手袋は、イコール、おれの愛は。もうこんなにもおれの奥底に根付いてるんだぜ。おまえが知らないところで、こんなに、こんなに愛が、溢れてるんだぜ。こんな理不尽なかくれんぼ、ないだろう。 語りかけたところで、届かない。わかってる。わかってるんだ。でもおれは、愛をうたわずにいられない。届かなくても、不釣り合いでも、おれはおまえを愛してる。何もしない。何もしないから、どうかそれだけは赦してくれないか。おれだけのものに、するから。おれしか知らない、うたにするから。 「…ヒナリ」 口にすれば、色づいてしまうから、それはこころの声だけで。おれしか知らない、愛のうた。小市民の、愛のうた。ひとりよがりの、愛のうた。 あなたはおれの、最愛です。 やがて、うららかなるあなた
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