いつからだろう、彼のことを、目線で追いかけるようになったのは。
正解はもうずっとずっと前のこと、入学式で彼の斜めうしろの席になったとき。長い髪を結わえて、しかもそれはやわらかな金の色。泣き腫らした色が移ってしまったかのような赤色の眸に、鼻すじのきれいに通った横顔。彼はとても美しい、まるで女の人のようなパーツの持ち主。それなのに、肩幅や身長はたしかに彼のほんとうの性別を示している、そのアンバランスさ。彼は明確に、人目を引く存在だった。
隣のクラスになった一年のときは、内心ほっと息をついた。もし彼と同じ教室で一年を過ごせと言われたら、きっと私は死んでしまうと思った。廊下で通り過ぎる彼を眺めていても、心臓がぽっかりなくなるみたいだった。穴が空いたみたいに風通りの良い胸が元に戻るのは、彼の静かな足音が随分と遠ざかってからだった。
彼を注視してしまっているのは、私だけではなかった。彼と同じクラスの子は勿論だが、たまたま彼が私のクラスに忘れ物を取りに来たときは、凄まじかった。皆、いつも通りの十分休みを過ごしていた。友達同士で屯(たむろ)して教師の愚痴を話す者もいれば、次の授業の準備をする者もいる。そう、彼がいようといまいと、何の変哲もないいつも通りの動作は続いている。でも違う。男も女も問わず、皆が誰にも悟られぬように彼を見ていた。彼の一挙一動、指先の触れた机の位置までを、皆が見ていた。
きちんと考えればぞっとするような不気味な光景に、恐らく皆が気付いていた。けれど、誰も何も彼の名前を用事以外で口にしているところを聞いたことがない。きっと、彼は日記に書かれるような存在なのだと思う。他愛のない友達とのやり取りは寝る前になんて消え失せて、代わりに今日の出来事として思い浮かぶのは、彼の麗しい横顔、長く細く骨ばった指先を眺めたこと。言わば、彼は学年中にとっての「秘密のひと」だった。
「……むり」
淡い色をした桜の花弁が吹雪のように舞い散る中、胸に花飾りをつけた先輩たちが後輩や教師に取り囲まれているのを、窓越しの流れていく絵として一瞬捉え、そして進行方向へと視線を逸らす。来年は私もあの場所にいるのかと思うと、もう今からものすごくいやな感じが胃に迫り上がってくる。横の繋がりは人並みにあるけれど縦の繋がりなんて、同い年しかいない弱小美術部所属の私にあるはずがない。せめて同い年の友達を捕まえられたら良いものの、一年前の今でさえ皆どこかへ出払っているのだから、きっと来年もこうして一人の場所を探して地味な高校生活の最後を迎えているのだろう。
上履きと塩化ビニールの床が摩擦するあの独特の音が、人気のない二年生の教室の前の階段に響くのが心地よい。三年生の住む下の階からのざわめきには耳を閉じ、そそくさと一番上の階、屋上を目指す。ここ数十年の高校生の危なっかしさ故屋上は閉鎖になっているが、それでもあの誰も来ない踊り場がなんとなく好きだった。好き、というよりも多分、そんな隅っこで灰かぶりならぬ埃被りになっていれば、誰か王子様が拾ってくれるような幻想を抱いている、のほうが近いかもしれない。
にしても、王子様とか(笑)ほぼ何も頭を使うことなく足を進めていたから逆に思考がよく回る。そしてその思考には無意識の欲望が顕著に現れる。認めたくないが、私はきっと子供じみたお姫様願望を未だに引き摺っているらしい。自分でそれを嘲笑するくらいの客観性は持っているつもりだけど、それでも止められないことってこの世にはあるのだ。ばかだなあ、と思いながらそれでも足を進める。上履きと床の摩擦音を高い天井に反響させながら階段をのんびりと登りきると、腰に手を当て丸まっていた背中をぐいっと勢いよく後ろに反らせた。バキバキィ! と女子高校生らしさの欠片もない音が階段に響き渡って、まるでギャグだ。よいしょ、と背中を戻し、何気なく屋上の扉の窓が目に入ったときだった。
胸に、穴が空いた。心臓がぽっかりなくなるような感覚がした。
それだけじゃいつも通り。でも今はそれを超越している。
窓ガラス越しに見えた、たなびく長い髪のシルエット。背筋の美しい彼にしては珍しく、柵に背中を預けた緩い姿勢。桜の花弁を乗せて吹いてくる風に前髪を揺らしながら佇む彼、その口元でちらつくオレンジ色の、かすかな、かすかな光。私の見間違いでなければ、その光は火。それが白く細い紙筒の末端に付けられているということは。それを彼が咥えているということは。
どことなく気怠げに視線を斜め下へ投げていた彼だったが、ふと吹いた風に火を消されてしまったらしい。慣れた手つきでライターをポケットから取り出し、綺麗な親指の先でボタンを押すと、少し俯いてそのまま先に火を灯す。白い煙が彼の姿を隠す靄のように漂っていたけれど、それも風によって飛ばされてゆく。そして不意に彼がそれを咥えたまま顔を上げた瞬間であった。とくべつで奇抜な赤い瞳と、窓に映った私の凡庸な黒い瞳が、重なる。
胸に、穴が空いた。彼の煙草の白い煙が、良い空気の逃げ場を見つけたとでも言うように、もくもくとその穴を通り抜けて行った。
春のたつまきにて屑と化す