その孤独を明け渡せ

 黄色の流線形を呈しているポーラータング号は、今日も波をかき分け、うねる波すらもものともしない。新世界の割には比較的落ち着いている数時間、大概にして落ち着いている時ほどに厄介な事が飛び込んでくるものだ。丸い窓から見える外は快晴であった。外からは船員の騒がしい声が聞こえている。至って今は通常航行、航行速度は落ちることはなく、導かれるように次の島に向かう最中であった。

「ローキャプテンっ!失礼します…っ」

 自らドアを開けたというよりも、放り込まれた形なのか前のめりで船医室に入ってきたナマエがいる。そして、間抜けな事にその場に転ぶというおまけ付きだ。痛いと言いつつ打ったらしい箇所を摩る間抜けな姿。この船に乗り始めた時は野郎かというくらいに短かった髪も伸びてパッと見でも区別つくようになっていた。イッカクには、髪が長いと長いでまとめられていいんですけどね、どうしても肩までいくとついつい、という会話などをしていた記憶がある。堪え性ないんですよーとあっけらかんに笑いを誘うように言う声はやたら大きかった。
 そんな小さっぱりしながらも馴染んだ顔も、今この部屋に放り込まれた顔は苦い表情をしていた。南風吹き込む開けっぱなしのドアの向こうにはペンギンとシャチが愉快そうに覗いている。

「いや、あのですね!キャプテン」
「なんだ」
「あの、私の…っ処女もらってくれません!?」
「あ?」
「いや、その…あーーーー」

 肩にかかる髪を両手でクシャと握りつつ頭を抱えたナマエは、顔を真っ赤にしながら背後の方の扉を振り返る。

「ほらーー!キャプテン困ってるってー!」
「キャプ〜、頼みまーす」
「どうぞ奪ってやってー」

 ガヤガヤと囃し立てる甲板の方からイッカクの多少嗜めるような声も聞こえはする。甲板どころか海に向かって発している声はどう考えても酒場のノリだ。先日の島に滞在した際の酒場で、今日のオススメもうないんですってー、とバカでかい声で報告してきたその時と同じであった。

「…とりあえず話は聞いてやる」
「わー…キャプテン優しいー…」

 こちらが声を出せば、あからさまに言葉が投げやりになっているナマエがいる。ようやく床から立ち上がり視線を外す姿を眺めれば、うっと言葉を詰まらせていた。

「…あー。あのですね〜…なんて言いますか、なんかさっき処女捨てたい話をしてたんですよ。二十代半ばだと多分腐るな〜って…前の島で放り投げようとしたら大変だったじゃないですかぁ…。その前もその前も!でぇ…ペンギンとかにお願いしたら、キャプに怒られるからって」
「……真昼間からしょうもねぇな」

 今まで手にしていた資料を机に放り出した。眉間の皺に指をやりつつあからさまなため息を吐けば、全くもってその通りですと言葉だけは慎ましげにボリュームだけは小さくなる。しかし、"でも"や"だって"を繰り返して、ペンギンが、シャチが、イッカクがぁ、というワードばかりが並ぶ色気のかけらもない話を続けてきていた。

「ローキャプ、前の島で女買ってからご無沙汰でしょ?」
「てめェが気にするところはそこじゃねェよ」
「え、いやまぁ、別に腐る前に破棄できれば良いかなって」

 今日は暑いせいもあり、白いツナギを腰で結ぶナマエ。黒いタンクトップから覗くのはしっかりとある二つの脂肪の塊。勃たなくはねェかと思いつつも色気のへったくれもない腑抜けた表情と陽の高さが相まって全くとしてそういう気にすらならねェ。解放されたままのドア、そしてその向こう側からは、捨てられそうか〜?という笑い声が聞こえてくる。

「ダメーー、やっぱ無理そう!キャプテン困ってる」

 海賊は海賊、そこに論理感を求めるのはお門違い。だが、どう考えてもこの女の感覚も理解できねェ。船外に向かって大声で話す内容でもなんでもない一言を口にしている。この女が見た目以上にそういう空気を持ち合わせないのはこの船に乗る奴等なら周知の事実であった。胸を触られたところでいやこれ本当邪魔なもんなんで、と笑っていた酒を呑むシーンすらある。捨てられないという理由は大概てめェの所為だろうよという呆れしか思いつかない。
 そもそもがナマエという人物は不可思議な存在ではあった。生きる意味無くしたんで乗せてくれとせがんできたは良いが、あまりに必死、そして自己犠牲を厭わない女ではあった。どう考えてもいち船員であるナマエとおれとの戦闘力の違いは誰がどう見ても明らかだ。そう、イラつくくらいに違う訳だ、覇気も使える事もない。ただ敵の悪意には非常に敏感な女ではあった。とある戦闘時におれの背後で簡単に吹き飛ばされた姿があった。コンマ何秒の世界、スローモーションにすら見える世界に散っていく姿。てめェの盾など無くても射程範囲に入りゃ自身で対応可能なのを知っている癖に、ナマエという人物は反射的に体が動くらしい。


「あーー…いったい。いやなんかもう動いてしまいました」
「…他に傷はないか?」
「さすがキャプ、もう腹の穴塞がってますね」
「勝手に背中を守りにくるな」
「あー、まぁ力不足で…」
「そうじゃねェ、分かってんのか?」
「…すいません」

 ぐっと低くした声にギリと噛み締める奥歯の音が聞こえてきそうであった。傷はもうないです、あとは擦り傷なんで他の船員診てやってください、と言う突っぱねる様な発言。それに対し、なんでおまえがトリアージしてんだと言えばポカンとどういう意味ですか?すいません医療ワード知らないんですよとあっけらかんと言ういつもの間抜けな姿に一瞬にして戻っていた。
 沁みったれた関係などありはしない。しかしながら取捨選択を誤りがちなナマエ。特に"捨"てるという部分に対してを誤っている。海賊というある意味、通常の道理から外れた旅であるからこそ、自己犠牲を発揮させる必要性もない。間抜けな女の無駄というべきもの、勝手に忠誠を誓い、勝手に庇い、勝手に守ろうとするものは何かと考えると全てが腹立たしい。

「はぁ…これくらいの傷を代価にして得られる利益があったんですって」
「自己犠牲は美徳でもなんでもねェ」

 言った瞬間に珍しくも睨みつけてくる様な視線があった。数拍の後に、くるりと回りだす診察室の丸い白い椅子、ナマエは座りつつ遊び道具の様に二、三回回った。その回っているうちに頭が整理されたらしい。

「自己愛ですね。……まぁ確かに自己犠牲は摩耗していくようなもんでしょうね」

 お節介が過ぎました、親でも何でもないんで大変失礼しました頭冷やしまぁす、と欠伸一つに診察室を去っていったある日があった。過ぎ去った開けたドアからは吹き込む風がまだ戦果の香りを漂わせていた。時折感じる一瞬排他的感覚を抱かせるナマエの考えはいまだに分からない。
 その日から何日か経ってからイッカク経由に、ナマエが多分感染症で発熱しているという情報を得れば、女部屋でうなされている姿があった。

「あー、キャプ」

 額に汗を滲ませ、いや久々に熱出すとコレがまたやばいんですよ、もうクラクラ…だといつもの調子で喋ろうとする姿があった。はぁ、と熱を吐き出すかのようなその息遣いは荒い。首から下はかけた布団によって分かりはしないが大抵こちらの苛立つような事が能力使わなくても見てとれた。

「おれの言いたい事はわかるか?」
「私バカなんでわかんないですね。…でも、…そうですね。とりあえず腕出しますかね」

 渋々といったように隠す様にしていた布団の中から出てきた腕は包帯が適当に巻かれていた。おそらく誰にも言わずに一人で巻いたのだろう雑さと緩さであった。いつからだ、どうして言わないだとかコイツに言っても無駄な事は見当ついている。触れる包帯から、ツンと鼻を掠める傷の炎症した匂いにしかめ面をした。そんなこちらの表情の歪みを捉えたらしいナマエが、いや、ちゃんと洗浄したんですってと何度も言うが、こちらの事などやはり理解などしていない。傷を解放すれば、その皮膚を抉りつつあった裂傷はかなりの深さであった。

「いやまぁ、指先動くんで神経いってないなって」
「そういう判断か。てめェは医者か?」
「…。ま、なんていうかキャプテンのお手を煩わせるような…」
「事をしてるのは誰だ」
「わたしですね?」
「救いようねェ馬鹿だな」

 酷いだのなんだ言う口は饒舌さがあるナマエは最後は深く息を吐いた。寧ろよくあの場で、他の傷を聞いた時にキッパリと"ない"と言えたもんだとある意味で感心する。筋入りの頑固さだ。赤く爛れ、腫れて熱をもつ患部、触れるだけでも痛みを伴うらしく眉を寄せていた、当然だ。

「…さすがに傷残るな」
「でしょうね」

 その言葉の続きに繋がる言葉は、"そういうつもりでしたもん"だろう事を容易に予測出来てしまう。なんとも不愉快極まりない。船を降ろしてやろうかとすら思える呑気さに隠れる無駄な矜持を垣間見た。

「戒めにするつもりだったか?」
「え、なんでバレてんですか?」

 皮肉めいた言葉を投げれば、何でわかったんですかという更に苛立つ言葉を投げてくるイラつく面があった。知らぬ海賊につけられたような傷を戒めにするんじゃねェ。新鮮な傷であれば跡形もなく消せる技術が今自身の腕にある訳だ。が、さすがに数日経ち一部皮膚の組織が再生するかのようになっているものを今治したところでは、自身の技術でも多少の傷の一つは残るであろう事は確かであった。この女にとっては計画通り、それが何ともいけすかない女であった。

 現に今がそうだ。何を思ったか、ローキャプなら捨てても良いかなぁってと馬鹿な願いを言い出す姿が目の前にある訳だ。苦しくも同じ部屋、そしてまたくだらないものを捨てようとしている馬鹿な女が目の前にいる。

「何を考えている」
「え、処女捨てる事?」
「馬鹿かてめェは」
「うっわ辛辣」

 大袈裟に落ち込むナマエの姿。本格的に頭の方でも診察した方が良いのかどうかを考え始めてしまう。黒いタンクトップから覗くのは海の上で生活をしている割には白い肌。そして二の腕には貫くように深かった裂傷痕だ。ご本人サマの思惑通りにしっかりと痕を残したものを満足気に見せつけてきている気がした。普段はひそめているその茶色がかった傷痕も、酒が入ると赤く変わる事を知っている。主張するような意固地でならないその姿を表しているかのようである。

「はぁあ……あー、キャプテーン…やっぱ駄目?」
「…破棄するっつーなら拾ってやる」

 捨てるもの全部拾わさせられているこちらの身にもなれ。目を丸くして途端に意味を理解し始めたようなどこか抜けた船員を放っておける訳がない。