歩かぬアリスと逃げぬ兎

 ぷるぶるぷる、と自宅にある電伝虫が鳴ったのは休みの日ではあった。遅い支度をしようとしていた私は察した。あ、これ面倒なやつ…と思いつつも無視をする事は出来ずにその受話器をとった。手に取った受話器、聞こえてくるのは贔屓にしている酒場の姉的な女性の声であった。定型文のようなやり取りのあと、申し訳ないけどと言う前置きに少し身構えた。

"赤髪って知ってたりする?その海賊が約一週間うちの店で飲食するらしくて、で稼ぎたい子さがして…"
"え、出勤しますよ!稼ぎます稼ぎます"
"嬉しい、急遽だったからさ、海賊相手になっちゃうけどごめんね"

 常にカウンター席を陣取る声掛け主な姉さんは、声質的に特に興味なさげの様子であった。私なんて姉さんの言葉全部聞かずに了承したというのにだ。私は前線退いているから…と寂しげに溢し、マスターかと見間違いそうな彼女が、なんだかんだで狙っている男を落としている姿はよく見られる光景であった。さらりと私の狙ってる人はやめてねと視線で牽制してくるようなしたたかさを持ち合わせていて、同性ながらも、うわ女怖ぇ…と思った事を覚えている。
 最後に言われた"ごめんね"の意図は分かる。前に訪れた海賊が散々だったからだ。宴が好きなのは分かるが肝心の金払いは悪いし、その上接客態度が悪いといきなり髪を掴まれたりしたからだった。恐怖で震えたところをそれを制してくれたのも姉さんではあった。海賊だから嫌でしょう?という意図が伝わる言葉、でも姉さんは分かっていない。なぜなら相手が赤髪だからだ。絶対手配書とか見てないでしょ、興味ないですもんね?と問い詰めたくなってしまうほど、私は赤髪…、船長であるシャンクスという人物の手配書を食い入るように眺めた時期があったのだ。これは天啓でしょうか、いやもうそこのスペースに呼んでくれるだけで最高なんですが!と声をあげそうになったのをグッと我慢した。

 
「よろしく頼むよ」
「へい、赤髪さん、ようこそ」

 手をコネコネしているニヤけ顔の主人は見なかった事にした。目の前数メートルの距離にいる船長というシャンクスという男は手配書よりもずっと笑顔を浮かべる男だった。まってめっちゃ笑ってんじゃん、え、歳、歳いくつだっけ?え、すごいかわい…、いや失礼だわ、とあまり見つめてはダメだと思うにその他の男達よりも柔らかで笑う姿に僅かにある母性本能を掴まれてしまった。好きに過ごして良いぞというやんわりとした一言で外に居たらしい他の船員がドッと酒場に雪崩れ込んできて、一気に宴の席へと雰囲気が変わってしまった事を覚えている。
 熱気に満ち溢れる酒場、絶え間ないように両手にお酒を持って人と人との間をすり抜けていく。間をすり抜ける時に一回転した時はもう踊っているかのようだった。聞こえる会話はちょいちょい下品ではあるけれど聞ける範囲、私のような臨時アルバイターは前金あるせいでいつも以上に集まってはいた。仲間であり、密やかなライバルでもある。場の熱気に当てられつつ、もう姉さん分かってんのか知らないけれど、毎度私を船長さんとは別の方向へ酒を運ばせてくれる。

「おい、ねぇちゃん一緒に呑むか?」
「はい、ご一緒したいです」

 盛大に笑顔を振り撒くけれど、いや私違う方向行きたいんですがとばかりに、お酒を置いてその方の耳に、でも飲み過ぎ注意ですよと囁いた。酔いに酔ってる相手などそれで充分、それを聞いてにこやかになれるっていうならこちらの手のうちだ。
 さらりともうその席にはつかないように姉さんに頼めば、じゃぁこれ船長さんのところにとお酒を準備していた姿があった。そして、あ、船長さんは分かる?と心配してくれる声がかかる。

「船長はあの男だ、赤い髪してるだろう?」
「あ、はい、ありがとうございます!」
「ふふ、よろしくね」

 カウンター席で姉さんと対峙するシルバーの髪の大男は煙草とグラスを同じ手に持ちつつ、背後の席を指示してくれた。ただその指示がどこか追い払いに近いと感じてしまったのは気のせいかどうか分からない。あれ姉さんの事狙ってる?と思うけれど絶対に触れてはいけないやつだと分かってしまう。どこか二人の間にある甘めの雰囲気は見るからに伝わってきてしまい、あ、これ姉さんが狙ってるなという意図が分かってしまった。
 ともかくようやくあの赤髪と言わる長の席に酒を運べる、それは待ち望んでいた事だった。スルリと人波を一山越えて辿り着けば、私を認識したらしい赤い髪の姿があった。

「お、運んできてくれたのか、ありがとうな」
「はい、ご挨拶遅くなりましたがこの島楽しんでいってくださいね」
「あぁ、そうさせてもらう」

 第一印象完璧じゃん。いやめっちゃ男前、いや無遠慮な色気というか、どこまで計算なしなのか分からない色気がまた良し、そして顔よし、なのに雰囲気めっちゃ穏やか最高…ッ!とばかりに心の中でガッツポーズであった。先日のクソみたいな海賊、いや海賊だからクソなのかは分からないけれど、顔の悪さから始まり横暴の数々は一晩この酒場で面倒見てやったけれど最悪だった。姉さんも無遠慮に煙草を咥えシャットアウトとばかりの塩対応だった。ポツリと睡眠薬でも混入させようかという呟きはガチに近かった。そう思うと今夜の態度とは正反対過ぎて笑ってしまいそうになる。
 シャンクスさんの隣にはさすがに座る事は出来ないなぁと思いつつ、好みの顔を堪能するだけでも悪くないかという折り合いをつける。いや折角下着気合入れてきてるから、若い良さげな男でも捕まえないとなぁという行き当たりばったりの予定は頭の中にはあった。
 目の前では、突如宴会芸のように飲み比べが始まったり、利き酒してお金をかけたりしている。それはここの酒場ではよく見る一つの日常だ。それを盛大に笑っている無防備に外気に首元を晒すような船長さん、気が付けばあんた飲み過ぎだと近くの船員から気遣われて少し項垂れていた。

「あんた、水持ってきてやってくれねェか?」
「あ、ハイ」

 悪いなぁ、という大きなマシュマロボディに更に栄養を与えようというのか片手から骨付き肉は外せない男に声をかけられて、水コップに入れてきてる運んだ。はい、と一言そして少し覗き込みつつ、その手の前に水を置けば一気に飲み干されてしまった。

「あの、船長さん…」
「ああ、ありがとう。ほらアンタも休め、野郎共の世話は疲れただろう?」

 顔を上げ労いの言葉と共にソファ席の隣を支持されて、慌てて腰を下ろした。うわ、役得じゃん、ありがとう神様とばかりにまじまじと顔面を観察すれば、熱視線だなと大口を開けて笑われてしまった。

「え、すいません!あのなんていうか、この前きた海賊さんは怖かった、んで、その…」
「あぁそりゃ災難だったな」
「いえ、なので賑やかですけど、皆さん比較的まだ対応がやわらかだなって…」

 つい観察するように見てしまいましたごめんなさいと平謝りすれば、気にするな気にするなそりゃそうだと手を振るような姿を見せる。ただ、やはり手配書よりもずっといい男で少し見惚れてしまった。そんな気さくな様子でいるのにどこか緊張感が残っている気はしてしまう。四皇と呼ばれるだけの言いようのない圧は確かに潜んでいるけれど、一般市民には浴びせないその気概が一番の魅力な気がした。

「いやぁ呑んだ呑んだ。ここ島は良いな、明るくて」
「はい、ぜひ皆さんには長い間いてほしいくらいですよ」
「お、言ってくれるなァ」

 よく出来た接客だなと笑いつつ、突然カウンター席に向かって声を発した。

「おいベック、おまえなんか言ったろ?」

 ベックと呼ばれた男は、カウンター席で一人離れて姉さんと対峙して酒を呑む男だった。少しこちらを振り返った男は意味ありげに目を伏せて姉さんの方へと向き直る。その姿を赤ら顔の船長さんはどこか静かに鼻で笑いつつ、おもむろに私の肩を引き寄せる。

「ぇ」

 思わずの距離であった。そんな戸惑う私の耳をくすぐるのは顰めた低い声。息まで当てられそうなその距離はこちらがお札を胸元に払いたいくらいだった。

「見てみろ、あぁしてアイツは時々おれをダシにして女口説くんだ」
「そうなんですね」
「だから、あぁいう色男には気を付けろよ」
「……で、船長さんはそれをダシにして、こう肩抱いたりするんですか?」
「おっ、意外と鋭いじゃないか」
「お褒めいただきありがとうございます」

 くっくっ、と静かに喉を鳴らしつつ笑う息遣いすらが耳を撫でていく。そう、視線の交差にひっかかりがあったくらいだけの違和感に、この男の遊び心を見つけてしまった。なんだかんだで海賊と呼ばれるだけの事はある、簡単には食えない男なのだ。密かな取引なんてお手のものとばかりの内緒話だった。

「…でも、赤髪の船長さんの口説きは見てみたいですよ」
「いやぁ、おれは下手だからよ、上手く口説けねェんだ」
「ふふ、…本当はそこまで酔ってないですもんね?」
「そりゃ、せっせと働く女の労をねぎらうってなら都合の良い口実くらいいくらでも用意できるさ」
「うーん、ここにはいっぱい悪い男がいるもんなんですね。勉強になります」
「そりゃ海賊だからなァ?」

 どうする、口説かれてみるか?と赤い髪を揺らして怪しく問いかけてくる男がいる。まってこれでは役得過ぎる、ありがとう今日の私、今世紀最大のツキじゃん。賭けだったけれど攻めてみて良かったんじゃない?なんて小躍りが止まらない。ゾクゾクと鳥肌がたちそうになる背筋、耳元で囁かれるどこまで本音か分からない言葉。やっぱこれ、お頭さん酔ってるのかなぁと思いつつもうそれ以上は判断付かない。袋小路に迷い込んでしまってると気付きつつ抜ける気はサラサラないのだ。

「よし、賭けでもするか」
「何をですか?」
「明日あいつらが付けてきた痕の合計数だ。近い方が勝ちにしねぇか?」
「よし、負けませんよ」

 肩を抱かれたまま視線の先にはカウンター越しに穏やかに話している姉さん達がいる。もうこちらとしては一夜過ごすのは決定事項なのが面白い。やり手な姉さんだし、どうやら気に入っている男だから相当唾つけておきそうだと予想がたつ。あぁ怖い怖い、本当に被らなくて良かった。船長さんの耳元、そっと指先でその髪に隠れる耳を探し出す、そして形の良い耳に予想個数を告げたら、意外と大胆な予想だと言われてしまった。
 さて賭けのご褒美は何にしよう、まだ勝ってもいないのに要求するものだけは想像し始める。さておれは、どうしようかねェとカウンター席の二人をニヤニヤと笑いを浮かべる男の懐にもう少し入り込みたいところではある。とりあえずあと数十センチの座る位置を詰めてみようかと腰をズラしてみた。
 そして姉さんとベックさんが次に現れるのは明日の夜で、そしてお二人同時に登場するという事に私と船長さんはどこか負けた気になってしまったのだ。