爪に詰まる紅色

 白や黒ではっきり分けられる程の気持ちはない。そんな簡単な話ではなくて、特にこの大海賊となれば余計にだろう事は想像容易い。現に今、人生最大の好機に巡りあってはいるけれど、今にも溢れていきそうな抱えたものを必死に取り繕っている。今にも口から心臓が飛び出そうでならないし、触れようとする指一本一本に神経が過敏になっている感覚があった。
 そもそもなぜ今こうして二人きりで大海賊さんのお頭さんといるか、彼らがこの島に来訪した事がきっかけで、そして酒場でせっせと働いていたご褒美にはなる。ちょうど良く目が止まったのかどうかは分からないけれど、個人的にはもうこの赤髪さんの手配書は食い入るように眺めた時期もあるわけであり、願ったり叶ったりではある。他の女までも渇仰するような男が目の前にいて、その口元が綻ぶところを眺めていればそれ以上言うことは何もない。夜の空気を好む理由などそういうやり取りだろうか。

「ただ気に入ったんだ、ダメだったか?」
「そんな…」
「いい歳した男に構われて災難だったな」

 首の皮一枚で繋がってるくらいの精神状態にそんな事言われたら今にも溶け落ちていく事必至。これでも結構私の否定も軽く笑われてしまう。私が今ここにいるのも申し訳なくてと本音をもらしてしまえば、その腕が私の首に伸びる。

「…おれにどんな事を思っているかは知らねェが、海賊に大層な大義名分なんてねェぞ」

 ふと柔らかく笑う姿は一人の男性にも見える。ただ近所にいる男と違うのは底知れぬ深海の様相、私のような女が触れていいのかと思うほどの深さに躊躇しかないのだ。今の私なんて単なるその辺の女だろう。たっぷりのボディクリームをのせて上等に織り上げた布で磨いたような身体も酒場で汗水流して働いた後では見る影もなくなっているはずだ。こんな事なら、と前置きばかりをしたくなる。
 糊もきいてない白い草臥れたシャツ、どこか気怠さを感じるその姿は、この島の男とは一風違う着方ではある。見た目をそこまで飾らないそのスタンスすら顔面一発、なんとも力技だ。

「そんなにおれを見るのは楽しいか?」
「はい見惚れてました」
「お、予想より素直だな」

 間髪入れずの私の返答に大口で笑いつつ、ほらこっち来いという言葉に軽率に近付く。シワになるシーツの上、躊躇っていれば抱き抱えられるように身体の上に置かされた。そして大きな手が私の手を掴む。

「好きにしてくれ、おまえだけのもんだ」

 形の良い口から放たれる誘うようにも聴こえる音色に胸の鼓動は高鳴る。好きだと思う反面、その言葉の間に"今だけは"という限定の単語が見え隠れしていそうでならない。濃厚でいて爽やかさも程よく入り乱れた色は夏島の夜を醸すにしては丁度良い。当たり障りない、ただし下げる事もない口の上手さがそこにはあってその意図を汲み上げて笑って返した。

「…上手いことを」
「嫌いか?」
「いえ、少し燃えました」

 手を摩っていた手のひらが頬に伸ばされ、それに擦り寄り見つめるその先、大口で呑んで笑っていた姿はどこか少年さの残りのようなものも感じられた。けれどこうして顔を突き合わせれば、いや身体を向き合わせれば分かるほどの健やかなる色気というものがある。
 そりゃ憧れのようでもあるけれど唆されて恋愛脳に陥るつもりはサラサラない、海の男など、ましてやこの大頭さんになんてあまりにも烏滸がましい。自身の中に持ち合わせる防衛本能がざわついているのが分かる。危険な男だと触れることすら躊躇いはあった。

「…少しばかり痕を残して良いか?」
「え、」
「ここだ」
「それは、…構わないですが」
「よし」

 女に乗られている事すら何の不都合さえないように持ち上げられた私の手。そして指先に宿る人恋しさを慰めるかのように口付けを落とす様に背中を駆け上るような感触があった。
 先程この一団さんが立ち寄っている酒場では、ベックと呼ばれていた男性と私の姐的存在の女性がいつの間にか消えていた。そんな二人を肴にして、翌朝残された痕の数を賭けてみたりした訳だ。どこか内緒話とばかりにクスクス笑って、まぁいつの間にかこうなっているというところはお互い知って知らぬ所なのだろう。首筋に指が当たり上に下にとなぞり上げてから柔らかな唇が押し付けられた。熱を帯びる舌が這わされ、勝手気ままに吸い上げられる。ほんの少しの痛みも恍惚さに浸りつつある今はもう一つの悦びにしかならない気がした。

「付いた付いた」
「…これじゃ暫くお頭さんに面倒みてもらわないとですよ?」
「あぁ、そのつもりだが」
「…酔ってます?」
「どちらだと思う?」

 どこか余裕さも垣間見られる気怠げな姿、その一方で死線を超えてきたような男の逞しさとブレぬ精神の根源を見せつけられている気さえする。赤く燃えそうな生物的本能の見え隠れ、私にさえそう感じられるのだから、これを攻撃面として当てられる海軍や敵さんなどはたまったものではないだろう。
 軽く触れているくせに恍惚さ含む手はしっかりと私を押さえつけてやまない。夜気で冷えつつあった空気も一瞬で変わるほどの熱、吐き出す息からも熱が籠る。共鳴でもしているかのような交わりでもあった。

「付け合いっこでもするか」
「お頭さん、意外と可愛い事おっしゃいますね」
「さすがに似合わなかったな」
「いえ、こう、胸がキュッてなりました」
「似合わねェ所含めて面倒みてくれ。おまえだけのもんだって言った事はもう忘れてくれたか?」

 笑い飛ばしてから、付けないのか?と尋ねてくる僅かな上目遣いの目線に喉を詰まらせた。僅かな狡猾さが漂うくせにどこか加護欲を唆るような視線、何が私のものだ、こんなの手中に収められるわけがないと心の中では笑ってしまう。
 誘われるがままに乗らされている太腿、目の前には無防備に解放されている胸元、僅かに顔を傾げ赤い髪を揺らし露わになる首筋に顔を寄せた。やめといた方が私のためだという警告音、これ以上深みにはと分かっているのに引き寄せられてしまった。どこか雄大な自然さを纏うような落ち着きあるその香りを吸い込むだけで深海に飲み込まれてしまったようで瞼を閉じる。舌先に触れるごく僅かな塩み含めてこちらの情欲を煽るのには充分であった。本当に付けて良いの?そんな事したら勘違いをしてしまいそう。躊躇いつつ付かない程度のリップ音と共に伺うように頭を上げる。両眼の黒みある瞳、そして程よい睫毛を煙らせた視線の意図は察しがつかない。髪の中まで手のひら指が入り込み、そのささやかな愛撫に眼を細めれば、それで満足か?という甘い囁きが耳に触れれば唇は僅かに開いてしまう。小さく飲み干してから頭の中にある懸念を口にした。

「…他の女に刺されちゃうかもしれない」
「ならば隣に居れば問題ないだろ?」

 当然のように言い放たれてしまえば答えはハイのみしかない。髪の間を梳く手のひらはそのまま私の頭を自身の首筋へと引き寄せる。甘い賞賛を受けつつ、同じ場所に唇を着地させた私は今度こそ熱を持った舌を這わせ少し歯を立てた。色欲任せの甘噛みをしながら頼もしい皮膚を吸い上げる。落とす視線の先には薄皮越しに浮き上がるような不気味な赤い鬱血痕、これは荒唐無稽にすら感じられそうな夜になりそう。それならばある意味良い、ただ今を感じる為だけに何度も唇を這わすしか手段はない。