ブルーワールドは水泡に帰す

 寄港地に到着したのは数時間前の事であった。寄港地とはいっても必ずしも海軍に全面的に好意的な島ではなく、最低限の荷物の積み下ろしを行ったのみであった。そこに賑やかな軍船も到着し、私の上官は頭を抱えた。あからさまに嫌な顔をしていた事を陰で笑う。そして本部からの指示を聞いたのだろう事は確かで、まぁこの上官がお隣の賑やかな支部とお手手繋いで仲良く任務とはいかないだろう事は想像ついた。上官はスモーカー中将の事を苦手、いやウマが合わないと言った方が近そうであった。比較的に組織色が強い上官に、おまえ顔馴染みだろう?と言われ、俺の代わりに話しつけてこいとの伝令を承ったのだった。
 まだ作業がある海兵は、近付いたこちらの姿を認識するやいなや手を額にと模範のような敬礼をみせる。お疲れ様です、どちらに?との声に向こうの海軍船を指差せば、理由を察したらしい。そして少し留守にしますと一言言い残した。

 数時間ぶりの外だと背伸び一つ、もうあたりは暗闇に包まれていた。でも寄港地の明るさで目が慣れれば問題なく、寧ろ明るく見えるくらいである。白い重いコートが海風に揺れた。黒い海が絶え間なく波を立て続けるが、この巨大な軍船になれば揺れも極々僅かだ。この停泊による波の影響などないに等しい。しかしながら腐っても新世界油断禁物と隣の軍船に移り渡ったのである。


「ナマエちゃんじゃないですか〜」
「お久しぶりです、スモーカー中将います?」
「へい、上官室にいますよ」

 ラフに話しかけてくる海兵に昨夜の一戦からの眠気含めて欠伸混じりに聞けば、指差された方向に足を運ぶ。甲板を歩きつつ、少し遠くでみえたタシギちゃんに手を振った。先を行く海兵さんが、こっちです!と案内してくれた部屋の重そうな扉をノックした。そして返事も聞かないまま扉を開ける私に慌てている海兵。その慌てた姿に大丈夫大丈夫と気楽に伝えた。

「何が大丈夫だ」
「お久しぶりです、数ヶ月ぶりですかね?お元気にされてるようで何よりです」

 背後で逃げるように閉まった扉が大きな音をたてた。目の前の大きな机の上に広げられている港泊図、けれど一番自身の手元に近いのは灰皿である。葉巻の香りが染み付いていそうな部屋の住人となっているスモーカーさんに近付けば、めんどくさいのが来やがったとばかりの呆れ顔に見えた。煙の立ち込めていた部屋は私が入った事によって濁った空気が一瞬出入りしたようで煙が波をうつ。

「ちゃんとお仕事してますって」
「なんだ、要件を言え」
「あ、うちの上官おたくの組むの嫌なんですって。で伝えてこい〜ってっていうのが直球な要件ですね」
「却下だ」

 まだ全部言っていないのにも関わらずの却下であった。ふざけた言い方から少し真面目に話し出す私、それに対して口から煙を吐きつつ傾聴する姿がある。一応ながら、しっかり上から受けてきた話である。明日朝から近くの応援に向かおうとしている事、このままだと過剰戦力であったりする事などをつらつら述べる。応援要請はあるのは本当だけれども、私達が向かったらそれもまた過剰戦力になるであろう。だからこそ立場が上のスモーカー中将の現地の状況含め指示を仰ぐ形になったのだ。まぁ結局うちの保身的な上官は、一刻も早く組むのをやめたい一心なのであろう。一応、机の上の駒を動かすように航海士の書きかけであろう図面の上で状況を説明した。

 こちらの話を聞きつつ、彼の手元には金色のコインがあり、指で弾かれたコインがクルクル回転してその大きい手におさまった。それが二、三度繰り返された光景を見守った。

「…コインは嫌ですよ、私負けっぱなしですもん」
「ならばその要請は却下だ」
「えー、私ちゃんとスモーカーさん説得してこいって言われてるんですよ」

 一応付き合いとしては十年くらいになるのかどうか。とりあえず若い時からの付き合いではあるからこそ歳が違えど多少のフランクさは許されている事をウチの上官も理解している。そのための私だ、人遣いが荒いというか図々しいにも程がある。ギロリと向けられる視線に一瞬の怯み。なんとも威圧的な男性になったものだとモクモクと二本の葉巻を変わらず咥える姿に近付いた。

「そうです、スモーカーさんじゃんけん勝負にしましょう。じゃんけん知ってます?」
「は、ガキか」
「そりゃスモーカーさんに比べれば若いですって」

 ほら、と手のひらでグー、チョキ、パーとスモーカーさんの目の前でアピールするもどこ吹く風である。まぁそれも想像出来たことである。見越してこちらもしっかりと仕込んできている事である、そう策は何重にも張らなければ交渉にならないだろう。
 立派な背もたれがある上質な椅子に腰掛けるスモーカーさんの片方の逞しい太腿の上に跨った。ただそんな些細な事でアレコレいう男ではないのは昔からである。肩にかかる私の白い海軍のコートの裾がこの部屋の床に広がるように着地をした。目の前からの視線は、何をし出すのかという珍獣でも見るような目つきに近い。必然的に目の前にくる白髪に粗雑な印象を受けるのも昔からである。そしていつの間にか出来た顔の傷に指を伸ばし、流れるようにたどり着いたカサついた下唇を撫でた。指先で一、二度ふにふにと指先で渇いた唇の柔らかさを確かめるように少し形を変えてみつつ口を開いた。

「…パーがこうで、チョキがこぅ、グーがぐーですよ」
「あ?」
「じゃ、出さないと負けですからね」

 意外にも予想外だったらしい。何言ってんだこいつという怪訝そうな顔をする口元から葉巻を取り上げて、無躾に煙漂う唇に自身の唇を合わせた。ザックリと口先でした説明は、パーは口を開ける、チョキが舌を出す、グーが唇を突き出すという口先の動きだけで伝わっていた。渇いた唇に触れながらの掛け声はどこか聞こえにくい。しかしながらそのタイミングに合わせられた口はお互いに口を開くという形であった。かぷりと少し斜めに合わすことになり、口内に残っていた香りを吸い込んだ。

「…っていう事ですけど、どうします?五回勝負でいいです?」
「バァカ、七回だ」
「ん…、七の方が揃った方が嬉しいですもんね」

 唇の間から漏れるくぐもった掛け声に合わせて、舌を突き出せばすんなり受け入れられて私の一勝である。気を良くして舌先で一本一本が私よりも大きい歯の裏を撫でたら、舌先で追い出されてしまった。
 昔から変わらない葉巻の香り、いつだか葉巻の種類は変えないのかという話も簡単に嗜好品が変わるわけねェだろと言われた記憶がある。そんな会話が出来るくらいの間柄であり、途中下船、途中退場も多い世界で生き残っているくらいの仲間である。このような遊びを仕掛けたわけだけれど、別にそういう湿ったような仲ではない。私も好き構わず誰とでもこんな事する女でもなく、向こうも同じくだろう。そもそも数年前のとある共同捜査の終わりにどさくさに紛れて唇を奪っていったのはこの男だ。それについては未だに謝罪はない。その時の私は二十代中盤だった筈、今思えばまだ若々しい乙女に近かった。こうして唇を重ねたのもその時以来である。そう最初に悪戯をしかけたのは、会う度に傷が増えていっているこの男であった。

 小声で次は私チョキ出しますからと仕掛けてからの掛け声をしたはずが、次は突き出した舌同士がぶつかり、絡み合う事になった。硬くした舌先がこちらの出した舌を絡みとる、そして舌の根本までなぞるような動きにどこか香りある息がかかる。そして混ざり合った唾液を僅かに飲んだ。目の前の男は、どうやら少し興に乗じ始めたようであった。

「ぅ…」
「…小せェ舌だな」
「んー…あいこで良いんですか…?」
「リスキーな方が燃えるだろ」
「ん。早々に足元救われてください」

 スモーカーさんの口から取り上げ、自身の指先に挟んでいた二本の葉巻は、彼の手に奪われてしまった。そして咥え直すのかと思いきや机の上の葉巻用の灰皿に置かれ、煙を燻らせることになった。ならばとばかりに葉巻を奪われた手を太い首の裏側へと回した。じゃんけん、と合言葉のように呟けば、こちらの開けた口に分厚い舌が忍び込んできた。先程私がしたように同じように舌先で歯の裏を舐めてあげ、硬くした舌先で歯列をなぞり始めた。あっという間に潤いを出した唇に触れられてるだけで脳内まで麻痺しそうな浮遊感。どこか鼻呼吸だけは苦しくなる気がしてしまい、酸素を求めるかのように整えられている白銀の髪に指を埋める。伏せた瞼を控えめに上げれば、同じタイミングで何か言いたげな視線と絡みあった。何が言いたいんだか分かるような気もするけれど、お小言はごめんだとばかりにもう一度瞼を閉じた。これでもお互いの琴線に触れぬように一挙手一投足に気を遣っている関係ではある。

「…ぁ、七戦じゃ決着つかずじゃないですか」
「しかたねェ。あと三戦だ」

 煙みたいに掴みきれない相手ならば、こうして拘束するには丁度いい。唇を合わせての掛け声もどんどん弱々しくなりつつ、次に開いた唇で向こうの唇をパクりと食べてみる。上唇を噛み、お互いの唇の湿り気を確かめていれば、外のまだ作業なりを行っている雑音に混じり二人の間に水音がたった。首の後ろに回していた手を首に這わせ、露出されている分厚い胸板に降ろしてくれば、その手は止められてしまった。昔よりもハクがついてきた貫禄と厚くなった気もする胸板は、程よくこちらの気持ちも上がる。面倒事を押し付けてきた上官には多少の感謝である。いい大人なので、気分の上がらない自身を飼い慣らす術は得ているのだ。
 胸板の上に置いた手に被せてきた手に少しだけ不満さを露わにしつつ、もう一度密やかな掛け声を発すれば、今度は逆に突き出した唇は食べられてしまった。私がした同じように唇を甘噛みされ、最後は少し強めに歯を立てられた。最後の掛け声の前にと舌先を伸ばせば、同じように絡み合ってしまった。野犬と称されるけれど今だけは尖った石も随分と転がされたように丸くなってしまっている。そんな瞬間を初めてみた私は、知らない感覚を炙り出されていくようであった。
 スルスルと太腿の上に腰を下ろす私のウエストを撫でたかと思いきや、その海軍支給のパンツにしまい込んでいたシャツが指先によって出された。傷のある素肌に触れるガサついた手に息を漏らした。肥大化を続ける欲求によっていつの間にか熱を孕み始めた吐息、しかしその息も煙臭い口内に吸い込まれた。

「…どこの海賊とだ」
「ん…覚えてないですけど、…懸賞額は五千万ベリーくらいの」
「お安い傷だな」
「油断ですね、風穴空きましたよー…んっ…スモーカーさんも油断禁物ですよ」
「てめェのようなヘマしねェよ」

 以前はなかったのをよくご存知でと誉めようとしたわけだけれど、褒めてどうすると言いとどめた。ちゅ、と可愛らしい口付けをすれば鋭く睨まれる、それは催促に似ている。何しろあと一戦で決まるのだと思った瞬間であった。そしてそれは喜悦の息を途切れさせた瞬間でもあった。何しろなんだかんだで聞き耳を立てるような私達の口が止まるも仕方がない事で、規則正しい忙しない足音が近づいて来た事にはとっくに気付いていた。そして渇いたノックの音が室内に響いた。


『すいません、ナマエさん呼び出しかかってます!』

 腹部をなぞる手は休まらない。嫌がらせのように後頭部を抑える手の主を睨む。必死に首に力を入れ、触れるだけになっていた口付けをはずした。

「今交渉中!もうそちらに行きます!」

 息を吸うと同時に分厚い扉に向かって声を張り上げれば、分かりました伝えますとバタバタと遠ざかる足音に胸を撫で下ろす。ふうと息を吐きつつ顔をスモーカーさんへと向き直せば口元だけで、平和ボケで無能な上司をもつとはご苦労なことだとどこか笑みらしきものを浮かべる姿がある。私には普段とは違う表情に見えてしまったからいけない事だと気付き始めた。今更ながら、部下の方にもあまりこのような混ざり合うような秘密裏の交渉現場を目撃させるわけにもいかなかった、そう私は適切な判断をしたのだと自身を褒め称える事で煩悩を打ち消した。ふぅ、と息を整えつつ、乱れかけた髪を手櫛で直し始めた。

「しっかり腹から声出るようになったじゃねェか」
「ひゃ、ちょ…」

 傷口を撫でられつつ声を張り上げた事により、腹部の筋肉の動きを指摘してくる。腹部を摩るような手から逃れようと硬い大腿筋の上から腰を持ち上げれば、ちょうど銀白髪にも見えそうな髪が目線の位置であった。少し顎を上げて見下ろすように、これでも頑張ったんです、お褒めいただき光栄ですと口早にお礼を言った。ふ、と笑う表情に反して映える唇の色はそこそこ華やかである。私の濃いめ色を選択してきてあげた口紅の色が移った唇を指摘してやるかどうかで迷いつつ、唇からはみ出ている色だけはそっと指の腹でなぞりとった。

「はー、…じゃ戻りますよ。あいこですね、どうしましょう」
「オイ、明日朝じゃなく明後日朝になったと伝えろ」
「引き分け、って事ですね」
「…残り一勝負は明日に持ち越しだ」

 指の腹でなぞりとった紅のついた手のひらに落とされる唇に、背中を這い上がるような鳥肌がたつ。私の掌からスローモーションのように強面の顔がこちらを向くのを見つめた。少し頭を巡らせた思考、ゆっくりと口を開いた。

「んー…上官連れてこいって事ですか?」
「どこの世界に保護者同伴で交渉しにくる女がいる」
「あはは、分かりました。残り一戦は保留にさせてもらいます」

 一時出されたシャツをしっかりとパンツの中にしまい、服を整えた。明日朝予定が明後日朝か、まぁそれくらいならば譲歩案としてはまずまずの成果であろう。この部屋に入った時と同じような身なりとなったけれど、唇の色は薄いのかもしれない。背後の椅子がギッと軋む音がして、重いブーツの音がする。スモーカーさんは私を甲板まで送ってくれようとしているのかもしれない。でも私としてはごめん被りたいところだ。なぜならば、彼が不恰好な紅い唇のままにお暇せねばならないのである。扉に手をかける私の手は覆い被さる手に隠れてしまった。背後から耳元で囁かれたおやすみの一言、ちゃんとご挨拶は出来るのですねと言うべきがどうか迷いつつ口を噤む。厚みのある扉を開ければ夜風が吹き込んできた。煩悩の始末は怖いと思いながらコートを翻しつつ夜に消える事とした。