吹き抜ける風は常に潮の香りに満ちている。彩度を欠いた細い路地、水路は風が抜ける共鳴したかの様に風音を奏でる。聴こえるのは怒鳴りあう声や啜り泣くような悲痛さ交じりの嘆きの言葉だ。着ているパーカーの襟部分を手で押さえつつ、その細い路地を縫う様に駆けた。瓦礫の山、そして白波のかなたに続く果てない海という大自然が続く景色。振り返る事をしなければ絵画のよう、ただ飾られた額からも溢れてしまうようなその大自然は時折牙を向いてこの島を襲ってくる。私がそんな景色を横切りつつ、差し入れを抱え向かったのはとある欄干の下にある小さな会社である。どこか街の人からは日陰者のような印象をもたれていたりするけれど、私にとっては一つの秘密基地にも近いその場所。トムさんにココロさんに弟子二人のアイスバーグとフランキーが住むそのトムズワーカーズへの不器用な差し入れは、同じくらいの背丈の頃から始まっていた。そんな出会った頃を思い出すとその懐かしさに目尻が緩んでしまう。
"バカンキーの事好きだったろ"
思いもよらない事だった。まさか彼等二人に出会ってから二十年近く経ってから言われた言葉。しかもそのセリフをきいた場所は湿度高まった後のベットの上だ。どこか濃い髭、そして整える事を知った紫がかる髪は少しだけ乱れていた。アイスバーグが作った一瞬の間、ヒシヒシと空気を通して伝ってくるのは言うんじゃなかったという呆れと後悔だ。呆れたため息から察してしまった。今はイイ男もそんな多少の爪の甘さがあるというのが可愛いところだと思う。そんな私達の間には簡単な言葉だけでは伝えきらない不思議な関係性がある。
フランキーがこの島を麦わらの一味として出航したのは数週間前の事だ。そう、一気に街全体が寂しくなってしまった。裏町に捨てられていたコーラの瓶が少なくなった、そんな廃品回収屋の噂事はあながち間違いではない気がしてしまう。少し賑やかさの欠いた日々、私の小さい店に全てが片付いたかのように顔を出し始めたのは兄のようでもあり、情も持ち合わせた存在だったアイスバーグで、そして昔を懐かしむようにと重なり合った。
「もしかしてそんな事ずっと気にしてたの?」
「するか」
ベットの上で、けっ、と吐き捨てるように言ったその言葉には思わず笑ってしまった。はいはい拗ねないの、といい歳した不貞腐れ感漂うその顔を甘やかせば濃い唇と触れ合った。
トムズワーカーズの弟子の二人の間の年齢だった私は、当時の可愛らしい二歳下のフランキーの事は完璧に弟くらいだと認識していたし、二歳上のアイスバーグは兄くらいだと思っていた。そして当然に二人も私に対しては同じ感覚でいてそういう認識であった筈だ。十代の時の一、二年は三十代の時に比べると断然に長かったと感じる。人間は皆歳を重ねる、時間の早さは常に一定な癖に往々としてその年齢での経過に差がある。今感じるこの時間の速さも十年先、二十年先、はたまた五十年先とでは違うのだろう。
あの時の二年の差は、蒸し返すように思い出せばお互いに良い均衡が取れていた。瓦礫含むような廃船島への出入りを続けた私はマズイと言われた差し入れも美味しく作れるようになった。そしてガミガミと小さいことも怒るアイスバーグもずっと背が伸びて、近かった頭の位置も一気に遠くなった。その時のフランキーは可愛くて、でもその中に滲む男の子らしさがとても好きであった。ツンツンした髪をもつフランキーとは背が同じくらいであった。でもそれは出会って一年程度の話であり、直ぐに目線は私の上に来てしまった事を覚えている。
「ナマエ見たか!?今の」
「うん、見た見た〜」
「ンマー、またそんな物を」
キラキラする丸い目を向ける自慢げなフランキーに何度頷いた事か。発射された砲弾が遠くの海に落ちるのを手を叩いて喜んでしまっていた昔の私。そんな私が楽しげに褒めるとそうだろう!?と得意げに喜ぶ男の子は意外と優しくもあった。廃船島に出入りする私の名前を知ったのが出逢ってから一年経ってからであったアイスバーグとは大違いである。その間もフランキーはきっと美味しくなかったろう初期の差し入れを美味いと言いながら食べきってくれていた。
ある日、日が出ている時間帯にお邪魔をしていた。フランキーに買い物をお願いしていたココロさんの姿があって、私が夜ご飯の買い物もあるので行きますよと声をかけた。けれどフランキーと二人で行っておいでと言われ二人でおつかいに出掛けた事もある。一人で充分だと言ったけれど、購入リストを見れば私だけでは力が足りなそうだったし、専門的な買い物も含まれていた。完璧に私が邪魔ものだと思いつつ、フランキーに目線をやれば何も気にはしていない様であった。そう、確かあれは私が一七歳でフランキーが十五歳だった。
「そういやナマエと買い物行くのは初めてだな」
「確かに、そうだよね」
石畳に出来た歪な影でもフランキーの方が断然に長かった。出掛けの際にしっかり短パン履いていきなさいとココロさんに言われ渋々海パンの上に履いている姿を笑えば、多少バツの悪そうな顔をしていた。隙間風のような音のなる風が吹く石畳の歩道、ところどころが割れて土色の剥き出しの地面から雑草が伸びている。珍しくも何ともない道、物心ついたときにはそんな歩道を歩くのが当たり前だった。そんな寂れた街だからこそその時代は治安も悪かった。
「…ナマエ、手ェかせ」
「あ、ありがと」
背の高くなりつつあったフランキーが当たり前の様に手を差し出してくれて、その手を握った。それは色恋を別にした一つの家族性なものだ。そして治安の悪さから簡単な虫除けのような意味合いすらあった。ふと久しぶりに触れた手に、あれなんか手大きくなった?とか聞けば当然だろ?と誇らし気に笑う姿はまだまだ少年さが残っていた。マメやらが潰れて出来た分厚くなった皮膚が凸凹を形成している、こうして区別というのか違いが生まれてくるのだろう。いつもならドタバタと走っていって行ってしまうようなフランキーの足の歩調は意外にも私に合わせてくれるのか歩きやすかった。あれ?少し気遣ってくれてる?そんな人としての一つの成長を垣間見てしまった瞬間、少しだけ握っていた手を意識してしまった事を覚えている。
「フランキーは優しいよね」
「ったりめェだろ」
私が褒めれば華やいで得意げな顔を見せる男の子。そんな日々逞しくなりつつある彼を眺めていれば、自然と顔は綻んでいった。
瓦礫の上に腰をかけて、海の方からナマエーー!どうだ!?と叫んできている姿に頬杖をつきながらよく眺めていた。すると決まって呆れる姿のアイスバーグが近くにいる。
「全くあのバカは…」
「バトルシップ…えっと何号だっけ…でもすごい技術上がってるの私でも分かるよ」
「あいつを甘やかすな」
「えー…」
「つけあがるだろ」
冷たいなぁ兄弟子さんはと言えば、おまえの兄弟子になったつもりはねェと言われてしまう。スラリと伸びた手脚、呆れるが如く黒いタオルを器用に頭に巻く姿があった。
ある日ココロさんからはフランキーは海賊に捨てられたとまた聞きしてしまった。おや言ってなかったかい?という言葉に何度か頷いた。何しろフランキーはそんな風情など微塵も感じさせないどころか寧ろ生き生きとしているくらいにすら見えてしまうからだ。出会って数年、今更聞いたその日は同情心が湧き上がった。しかし私のそんな心などフランキーは求めていなかった。
その後、何か苛立ったらしいフランキーは、ナマエ、クロール教えてやる!島の人間って実は泳げない奴らばかりなんだぜ!といういきなりの誘いから問答無用にトムズワーカーズ内の水路に叩き落とされた。私をヨコヅナくんのような相棒、もしくは舎弟くらいにしか思ってはいないのだろうかと思いながら水に沈んでいった記憶。着水する直前に吸った酸素も少なく、息苦しさからアタフタと両手で水をかいた。服に水を吸うって意外と重い事なのだと知ってアプアプしていたら、いつの間にか同じように水の中に飛び込んでいたフランキーが浮上すると共に私を抱きかかえていた。
「フラ、ふらんきー…っいきなりっ…は、死ぬの!溺れる」
「よし、いつも通りになったか」
水の中で溺れかけていた私を背後から腹部に手を回し抱きつつ放たれた言葉。おそらく何も分かってはいないのだろうけれど、どこか見透かしたような台詞でもあって途端に自身の思い違いに気付いた。
「なんだかよくわかんねェけど、沁みったれた反応するんじゃねェ」
「え?」
「何でもねェ」
濡れた鼓膜を揺らすのはいつも大声なフランキーにしては珍しく私にしか聞こえない小声であった。聞き返した私の一言の方が大きいくらいであった。そして私は服を通して抱きかかえる腕が私よりも太く逞しくなっている事、いつの間にか私なんて簡単に抱えてしまえるようになっていた事を知る。そんな私にしか聞こえない小声だったのは、事務所スペースの方からアイスバーグが人をいきなり突き落とすな!という至って当然の怒声を浴びせてきているからであろう。今の会話含めて、全てを知られたくないとばかりの回りくどさに気付いてしまった。
「ダメだ、ナマエは泳ぐ素質ねェ」
「当然だろバカンキー」
「…なんかそれはそれでイラってする」
ポタポタと滴り落ちた水が自身の下に水溜まりを作る。突き落とした瞬間から慌てたらしいココロさんがタオルを用意してくれていた事は嬉しかった。背後ではオマエ突然何してんだとフランキーがアイスバーグに胸ぐらを掴まれて怒られている。常に海パンなフランキーとは違ってこちらは単なる私服であり、冷静になるとフランキーなんていう事をしてくれたのだという一言に尽きる。
全くフランキーがやらかしてくれて…と謝るココロさんのご好意で熱いシャワーを浴びさせてもらえた。シャワー室のドア一枚隔てて季節的にもそれで返すのは冷えてしまうから泊まりなさいというお誘いには素直に頷いた。そしてココロさんが準備してくれた黒いTシャツと短パンを着させてもらった。あたしのじゃナマエちゃんには大きいだろう?とちゃんと洗ってあるわと言いながら渡されたのはアイスバーグのTシャツであった。確かに…とは思いつつも兄のようなアイスバーグのTシャツを被る事はほんの少しだけ躊躇われた。下着代わりのタンクトップ、そしてTシャツはアイスバーグのもの。そして短パンはフランキーの外出用もの。二人が着ていれば丁度良いサイズは私にはやはり少し大きかった。
「もう遅いから泊まっていきなさいね」
「あ、はい、ありがとうございます」
「っとにあのバカ共が迷惑かけちまってまぁ…」
もう一度とばかりにかかる声に頷いた。私はココロさんだけには、自身の家庭の事は伝えていた。その配慮でもあるのか厚意は素直に受け取った。そのあっさりとする配慮は何の重さも感じられなかった、そうそれは私がフランキーに出来なかったものだ。当たり前に大人なココロさん、そういう気遣い含めて見習わないとならないところが山程あった。
ココロさんが大声であなた達の服借りたよ!という事後報告をしながら扉をあければ、はぁ!?という驚くアイスバーグの声が聞こえた。ココロさんの身体の陰から躊躇いつつ、ごめん借りちゃったと伝えれば目を合わせてくれないアイスバーグが居た。当然だろう?他に合うサイズないからねぇというココロさん。トムさんは論外、ココロさんのも無理、フランキーは海パンだしアロハシャツだしという消去法からの判断は多分妥当な線だった。確かに、という一瞬の空気が流れたのには気付いた。
濡れた服などは洗ってタオルで念入りに水分をとり陰に干させてもらった。おそらく朝には着る事が出来る程度には渇いているだろう事が予想出来た。よし、とばかりに大きめサイズの服の間に入り込む隙間風を感じつつ、トムズワーカーズ内の居住区スペース戻れば、なぜか私の寝る場所を私抜きで揉めていた。
「トムさんやココロさんの隣じゃ寝返りされたら潰れるだろナマエは!バカバーグの横もダメだ、あいつクソほど寝相悪ィからな!」
「バカンキーに言われる筋合いはねェ!そもそもてめェは足癖わりィだろうが、ナマエが怪我するだろうが!」
「あの…私は別にキッチンでも事務所でもなんでも適当に、布団がなくても…」
「「ナマエは黙ってろ」」
「え」
何故か該当者であろう私の意見は苛立ち加減で顔が怖い二人によって却下された。これはもう遺憾の意を唱えたいところでもあった。うろうろとどうしたらいいのかと、トムさんとココロさんに視線で訴えかければ、トムさんが笑いながら傑作だと言っている。けれど笑うところは多分ない。彼らはいつもこうなのだろうなぁと思うと少しずつ困った私の顔が呆れる方向に綻んでいく。
再三の協議の結果、二つの布団を繋げた場所という微妙に寝にくい場所が私。そしてサイドをトムさんの弟子達が囲んで挟んでくれた、何故。兄弟みたいだねぇと笑うココロさん、笑い事じゃない気もしてきていますという私の心の声は出さなかった。
暗くした寝室スペースには三人。寝る場所協議の結果に何故か結果に納得しきれていない二人の間で、一人用の布団を二つ繋げたようなスペースはいかんせん圧迫感がある。けれど突然な事態なのに有難い配慮だと思い、掛け布団代わりのバスタオルをかけた。暗闇に慣れてきた目で、右、左と見てもそれぞれの背中というか後頭部が見えた。何か会話でもふったほうが良いのかと思う無言の空間。息遣いすら気になり始めるような静かな広い部屋の中に響く、カチコチという時計の秒針がやけに響く。
橋の下に潜むようにある会社トムズワーカーズ、その室内は意外と静かで波の音や水路の音はしなかった。涼やかでいて呼吸すらが躊躇われる静かな室内、暗くなってから何分?だけれど、三人共に起きている事が空気を通して分かっている。明日の天気?造船の事?話をふるのは今更過ぎるだろうかと悩んだ。瞬間、鼻の奥がムズッとして堪えきれなく小さくくしゃみをした。そりゃそうだ、いきなり水路に突き落とされれば冷えたのかもしれない。すると左右からかけ布団がかけられて私のところだけ二重になってしまった。体温残る布団は温かく、小さくありがとうと伝えれば返事はなかった。
「あの、でも二人風邪ひく」
「…ンなやわじゃねェ。なんだ、突き落として悪かった」
「ううん、私こそごめんねフランキー。その…」
「良いから気にすんな」
「うん、ありがと。おやすみ」
「あぁ」
少しコチラを向いたフランキーは喋ってくれたけれど、アイスバーグは無言のままであった。彼等の背中だろうが少しのかけ布団の共有をさせてくれた事は、緩い服を着る私としては寒さを感じていたのでとてもありがたかった。彼等の背中を通して伝わる仄かな体温、そして息遣いは久しぶりの感覚だ。夜に一人でない事の安心感、温かさ、何回か規則正しい呼吸をしていれば意識は遠のいていった。
そうして最初に寝たのは私だったと思う、最初というか途中で起きたのも私だ。そう苦しさで。私よりも図体大きくなった二人が私の身体に脚やら腕やらをかけてきていて、その重さによって目が覚めたのだ。寝る時は背中を向けていた筈だと思いながら暗闇の中、左右を見れば二人の穏やか過ぎる寝顔が寝る前よりも近くにあった。眉間に皺が寄っていないアイスバーグもまだ幼くもみえたりするのねと思いつつ、静かに身体に乗せられていた腕を外していく。意識がない人間の身体って重いと思いながらアイスバーグの腕をお腹の上から持ち上げた。するといきなり私の手を解くようにスッと引っ込んでいった。
「ぇ」
「…わるい」
小さく掠れた声だった。
寝ていたはずのアイスバーグを今が何時かも分からない深夜に起こしてしまったらしい。けれど私も重かったからという一応正当な理由もある。何かお小言を言われるかもと思ったけれど、暗闇でも目があったと感じた瞬間には既に私に背を向けるアイスバーグの姿があった。長めの髪の後ろ姿に小さくおやすみと伝えてみれば、ぶっきらぼうな返事が返ってきた。私の腕とアイスバーグの背中が触れそうで触れない距離になぜか緊張感がある、けれど何となく気にしてはいけない気がして目を閉じたのだ。
当然だった。一番先に大人になってしまっていたのがアイスバーグだった。トムズワーカーズからの帰りが遅くなった日、不用心だったろう私を送ってくれるアイスバーグに親切心からコーヒーの一杯でもと思い立った。それにも関わらず逃げるなら逃げてくれと悲痛さ伴いつつ抱きしめられてしまえば、どこへ?という疑問をもちつつ抱き返してしまった。私への下心を持ち合わせている事を告げられてしまえばあれよあれよばかりであった。首元から吸うようなその鼻先にくすぐったさを知ってしまった。耳殻に触れるかどうかの指先が何度も通り、知っていた筈の身体なのにお互い別人のよう成長していた事に戸惑っていれば、窓が風でガタガタ揺れるのすら気にする事はなかった。
初めてアイスバーグを男として意識してしまった日であった。自身の中に芽吹くような気持ち、知りたいようで知りたくなかった個体差も戸惑いになる。その夜の事はどうにも恥ずかしくて一週間に一度ほど顔を出していたトムズワーカーズへの差し入れも一ヶ月休みかというくらいに空いてしまった。
「ふ、フランキー」
顔を合わせたら盛大に逸らされてしまった。いつもとは違うその空気、それだけで何かに勘付かれている事実がある。もう一度と呼びかけようとした私を半分無視するような勢いで、ヨコヅナ行くぞ!と口をひん曲げて白波をたつ海の方へと向かって行ってしまった。アロハシャツを羽織るその背中を見送ったら、背後に人の気配を感じて私の心臓は休まる事を知らない。
「ンマー…差し入れか」
「ぁ、うん…」
ここの瓦礫だらけの場所にくるまで一ヶ月ほどの時間を有してしまった私。気恥ずかしくて振り向くこともできずに差し入れの数種類のおにぎりが入った箱を抱えたままだった。
「なんだ、色々…大丈夫だったか?」
「ハイ…、うん、」
「…朝、この前寝てる間に勝手に出てっちまって」
「いや、あの仕事なの分かってたから…っ」
アイスバーグの顔を見た瞬間、一ヶ月前の夜の光景が浮かんでしまった。顔に熱が籠るよう、ただそれは私だけでなくアイスバーグもだ。お互いに顔を合わせた瞬間に逸らしてしまった。知らないくらいに大きくなっていた手が触れてくる度に自身の身体を知らないものにする。いつの間にか彫った刺青をなぞり首に手を回して必死だった夜。夜が明ければ間抜けの殻であった、夢幻かという朝も身体の気怠さがそうでないと伝えてきていた。突然に女としての意識を持たせられてしまった事実はどうしようもなく昔とは全てが違ってしまった。ただ好きや付き合うとはまた不思議と違うそれは多少なりとも歪さはあった。おそらくずっと目を閉じていたかった関係に波紋を生じたのはアイスバーグで、私はそこに乗ってしまったような気がした。
かくして歳下のフランキーは会う度に呆れるような表情を見せてくるようになった。意外にも察しが良い彼は、兄弟子であるアイスバーグと私が時折何をしているかなんて当然に気付いていて、それを咎める事もせずにただ私達を見て呆れている。おそらくアイスバーグや私なんかよりもこういうところは一番に大人なのではないかと思った。
ヒビが入ったのは数年後であった。海列車の開通と共に市民、街には明るさが灯り始めていた。元を考えれば私が差し入れし始めた原点はここでもある。呑気にトムさん判決楽しみですとか言ってしまったのは判決日の約一週間前。あの時は皆笑顔でいて、幸せというものを表したらこの空気という日だった。
二十歳をとっくに超えた私含めてフランキーもいつの間にかお酒を嗜むようになっていた。私も差し入れをしつつ、半分日雇い社員のように雑用を手伝っていた時もあった。そんな中、もう少ししたらバルでも開こうかと思うのと零していた。そして一番にそれを伝えたのはフランキーだった。
「精々腹壊さねェもんだせよ」
「失礼な。でももう大丈夫、あの時から腕磨きましたから」
「ハッ、仕方ねェ。店の内装くれェはおれが作ってやる」
「やった、内装費〜」
「取るに決まってンだろ」
「あはは、じゃぁコーラいっぱい準備しなきゃ」
フランキーのクリッとした目は変わらなかった。そしてコレはアイツにゃ秘密だと悪巧みしているかのような顔、そしてどこか得意げだった内緒話。アイツと称したアイスバーグが席を外している際には昔と変わらず話してくれるフランキーの事はいつまでも好きだった。そんな私たちのやり取りを傑作だと笑うトムさんとココロさん。ココロさんが今夜はカレーだと言って、私も食べていきなさいというご厚意に甘えた日。出先から帰ったアイスバーグが室内に漂うカレーの匂いを感じたらしくどこか嬉しそうな雰囲気があった。いい歳したのにも関わらずその雰囲気を隠しきれなくて、私やフランキーに察されてしまうのがまた面白い。フランキーと顔を見合わせて笑えば、アイスバーグが嫌な顔をするのはよく見る光景だった。
「…ナマエ、送る」
「あ、うん、よろしくお願いします」
自然体に、ただ実質朝帰り宣言をするアイスバーグ。それが暗黙の了解とされている事実、これにはどうしても何も言えなくなってしまう。途端にフランキーの視線に目を合わせられなくなって、逃げるようにトムズワーカーズを後にする。辺りは当然に真っ暗で、所々寂しさがある灯りを頼りに水路に落ちないようにと足を進める。手を握るというよりも腕を掴むといった表現が合うアイスバーグが先導して私の家に向かう。一人で夜を歩くには治安はまだ心許ないけれど、体格がどんどん成長を見せるアイスバーグと一緒ならば問題はない。浮浪者が話しかけてくる事もないし、海賊の端くれに追いかけられる事もない。そんな出来事をトムズワーカーズの会社内で溢してしまったらアイスバーグどころかフランキーにも散々怒られてしまった記憶。
「…アイス、その…今日泊まる?」
「あぁ」
分かっているくせに聞く私、でもそれについて何を言うわけもない。夜の行為に対して私達はお互いに深くは詮索しない。好きや何も言わない夜を他人が聞いたらどうなのだと言われそうな事もある。お互いが人である事の確認、男と女である事の確認とばかりに確かめ合うだけ。腫れ上がった気持ちは隠して、ただ身体を欲しがって、利害関係の一致とばかりだった。だからこそ言葉数少なめに温度は抑えめにしておかないとタガが外れそうで、どこかずっと一線を越えてからも変わる事のない関係を保とうとしていた。それにしては多少湿度が高くなってしまうのは若気の至りだったろうか。互いに無理がないけれど一歩先を見たくなるその行為に溺れ込んで数年。それがいきなり途切れる事は予想をしていなかった。
「号外ーーーー!!号外だよーーーー!」
そんな声は聞きたくなくと必死に両手で耳を塞いだ。そして水路に浮かぶふやけた号外新聞は水路の縁に張り付いたりして数日嫌でも目についた。彼等の姿は一瞬さえ見れれば脳内にこびりつくことになってしまった。あのたった僅かにの時間に全てを奪われていく現状を遠目にみて膝から崩れ落ちた。とう外も出たくない、何もしたくない、何も考えたくない。あの幸福しかなかった一週間前はなんで戻ってこないのか。凍てつくような空気に堪らなくなるのに誰も私の手をとってくれる人は居なかった。あまりにも神様の仕打ちにしては悪どい事、何故を何回も繰り返して、胃液を吐ける事を知った。ただただ真っ暗闇に一人嗚咽を漏らす。空に漂う雲のように幸せも簡単に消えていくような感覚、晴れ渡る空が嫌味なほどに思えた。今更ながらに心の拠り所っていうやつだった事にようやく気付いて、それが全てが無残にも崩れ去っていく、よくよく考えれば約十年にわたる関係であった。あまりにも私は深く関わり過ぎてしまっていて、あの判決の日から残った彼等とも顔を合わす事はなくなった。
「ナマエさん、結婚とか…興味とか、されないんですか?」
「今はもう少しお店が軌道に乗るまで、かな」
「っ、…充分のっているじゃないですか」
お断りという事が分からないの?という意味を込めた控えめに微笑んだ外向けの表情は板についた。こうして人は図太くもなるのだろうか。どんな悲しみだろうが切なさだろうがそれでも生きるという道を私はいつの間にか見つけていた。生活するのに精一杯で、とやんわりと断れば身なりの良い常連になりかけの男性はまだ納得出来ないようだったけれど、また来ますの一言で去っていった。言葉が上手かったので、気ままに一度寝てしまったのがいけないのだろうけれど、まさかそこまで勘違いされるとは思わなかった。そもそも結婚云々が人生においてどれ程の価値があるというのだろうか。あなたの幸せの価値観を探すなら私じゃない方とお願いしたいと、カウンターの高い椅子に座りつつ入れたコーヒーを飲み干した。
七つあった造船会社が一つに統合するような形でガレーラカンパニーという会社になったという事、知って知らないアイスバーグ氏がこの街の市長になった事は、ここ数年の中のビックニュースだろう。そう子どもから始まり老若男女誰でも知っている事実。あぁ、でも知ってる?あの男夜は時折甘噛みするのが好きなの、なんて事を思いつつ新聞の一面を飾る腕を組んだ堂々たるアイスバーグの顔を見て笑ってしまった。アレから数年顔を見ていないのに、よく見ているように思えるのは私だけ。トムズワーカーズという会社の深いところは知らないけれど、何かしらのものがあるのは残った彼の動き一つで想像がついてしまっている。もう関わるなとばかりに自然に置かれた距離、息が止まるくらいなひたむきさどころか執念すら感じさせるくらいの島の発展であった。
私にとっては星の数ほどありそうな船を作り出すパーツの名前、それを器用に組み立てて繋ぎ合わせれば浮かぶのだ。船を作り出すのも一つの人生で人の想いを乗せて託して航海が出来る。嬉しい事も悲しい事も全ての事柄を結びつけて人も生きるのかもしれない、ただ私にはまだパーツが足りないままで航海は簡単には出来なそうであった。
その日店に放り込まれた朝刊のコラムには、"美人秘書カリファ様に迫る"というワードを見かけた。一週間前は若頭がどうとかこうとか、そのガレーラカンパニーという造船会社は政府の船も手掛けるという。世界政府の単語一つに口の中に鉄の味が滲みそうになるけれど、ただその事実だけでアイスバーグが何を考えているのか分からないほど甘く若い時代はとっくに過ぎ去っていた。
「ごめんなさい、今日の昼のサンドは売り切れちゃいまして」
「あ〜〜…残念、食べたかったんだけどなぁ…、いやぁ、また来るよ」
「はい、お待ちしてますね。いつもありがとうございます」
カラン、と扉に付いている鈴が鳴りコーヒーのみをテイクアウトしていった客が出ていき、革靴による足音がゆっくりと遠ざかる。そして開いたままにされた扉から吹き込む風、蝶番渋くなってきたなぁとしょうがなく閉めに行こうと足を動かした。すると風にのるが如く聞こえてきたのは独特のリズムを持つ素足を僅かにすって歩く音。あまりにも馴染みがあるその足音に反射的に店の外へと走り出しそうになった。ただそれは許されずに開けっぱなしの扉の前で私は壁にぶつかってしまった。
「っ、なんで分かった」
「…っ分かるよっ…!!フランキー…フランキー…」
突然大事なものが返ってきて、店の外から何事かという目線など気にせず海パンを履く男に抱きついた。元よりある隠しきれないチンピラ感と青いリーゼントは変わらない、ただよく分からないけれど体型は変わってしまった、しかしそんな事はどうでも良いの一言に尽きた。
「ひっでェ顔だな」
「いいの…っ、そんなの…っ」
「女がンな顔するんじゃねェよ」
「っ、うっ…っ、そんな…っ顔させたの…フランキーだもん…」
「ハンッ、みねェ間にガキになったもんだな」
「いいよ…っガキでもなんでも…っ」
身体の所々が何故か硬いフランキーの手が私の背中に回る。なんの珍事件、マジックショーかと思うけれどその思考も一瞬で破棄して、生まれた赤子のように泣きじゃくった。でもそれでは失礼になってしまう、どう考えても生まれた赤子の方が可愛らしい。みっともなく、最近色気が出てきたとお客様に言われる店主の私なんて一瞬で消え去っている。何度も何度も名前を呼んで、嗚咽を漏らした。時折店の外からどんな異常事態かとばかりに覗かれている気がするけれど、全部フランキーの背中が隠すように守ってくれていた。
「落ち着いたか?」
「ん…、むり…もう何が…だって死ん…」
「生きてるだろうが」
「うぅ…うごいてる音するぅ…」
どこかめんどくさそうな表情をしつつも昔からわ私を突き放しはしないフランキー。いい歳して馬鹿な会話をしながら涙で顔面ぐちゃぐちゃになっているだろう私の頭を撫で、頬を触り、宥めるように背中を軽く摩る。そして胸に頭を押しつけられれば確かに心臓の拍動が絶え間なく聞こえる。呼吸を落ち着かせながら、なんで胸がこんなに硬いのよとか色々言えば改造しただとかなんとか、とりあえず意味が分からない事を言うのは昔からだ。初めてではあったけれど、フランキーは私が抱きつけばしっかり抱きしめてくれるところは持ち合わせていた。
「…バカバーグに会ってきたぞ」
「そう…」
「会ってねェのか」
「まぁ、」
「いつからだ」
「えー…と、あの時?」
「あの野郎…」
私の言葉の間を読みとる察しの良さには涙も途切れる。太い指先で目元をなぞられて自然と目を細めた。おそらくそれ以上何も言わなくても全てを分かってしまうのだろう。そういうところは変わらないし、下まつ毛が目立つのも変わりない。よく分からないけどやたら大きくなってしまった体も不思議だけれど、あの時の切なさが溢れて顔を見るたびにただただ涙が浮かぶ。
「イイ女が台無しだな」
「ね、もったいないでしょう」
その指先が意外にも優しくあって、私を傷を付けないようにと触れてくるという事はその時に気付いた事でもある。緩やかにそして流れるかのようにフランキーの親指が私の頬を撫で、唇をなぞり、血色が良かっただろう唇から紅を指先に取った。
「……やめとくか。バカバーグの女に今更手ェ出してもつまらねェな」
「ふ、もう…そう言ってくれるのフランキーだけよ」
一瞬の間をとったフランキーと視線が絡み合って、あっという間に唇は太い指から解放された。フランキーは指先についた紅も気にする事はないらしい。私が浮かべる苦笑にため息一つ、いい歳して面倒くせェ奴等だなと揶揄して仁王立ちのままのフランキーはそのまま私の頭を抱えるように手を回した。先ほどとはまた違う抱擁に両腕で応えるように手を回した。
「これ以上は慰めねェぞ」
「ん、分かってる」
「が、店の内装請け負ったのを反故したな、それ分は通ってやんよ」
「ふふ、ご贔屓にしてくれるの嬉しい」
腕の中で生きていてくれて嬉しかったと伝えれば、湿っぽいのは嫌いだと切って捨てられる勢いだ。初めて抱きしめられるその腕の中はとても居心地の良い空間だ、それを作り出してくれるフランキーはやはり魅力ある男だと思う。生まれる微糖さ、関係が分かっているからこそ骨身に染みる。いい加減青臭ェ関係もいい加減にしろと怒られてしまえば、思わず私にだけ言わないでくれと注文をつけてしまった。すると私の神経の図太さが伝わったらしく、アイスバーグより丸い目をパチクリしてから再度頭を撫でられた。
そのゴツゴツとマメが出来ては潰れてを繰り返したような職人気質の掌からは懐かしさが漂う。コーラは常に大量に用意しておけという発注には、また目尻に涙が溜まりそうで目を細めた。
「フランキー好きよ」
「ハッ、あいつには言ってやらねェくせに」
「…なんで分かるの」
「分かるだろうが」
「放り出してくれたんだから簡単には伝えないの。また拾ってくれるまで、ね」
「バカバーグは一生放ったままにするかもしんねェなァ?」
「それでもよ」
全く呆れたもんだな、と強情な私を褒めてくれるフランキー。水路側から吹き込む風が足元を撫でていく、その生温かい風はどこかの露店の肉の香ばしさが混じる。それは昼抜きの身体には食欲が唆られる。最近オープンしたという近くの水水焼き鳥の店だろうかと思いつつ背中の方に回した腕を下げ胸元に置けば、目の前にはカラッと周りのまで明るくさせるような笑顔があった。
私達の関係はどうしよう不恰好だ。アイスバーグにしろ、私にしろ、フランキーも足なみはバラバラで、少し道をはずれてしまえばコロコロと転がってしまいそうでならない。のらりくらり、波に呑まれないように。そう、ただ私は私として、豊かになる街並みと共に二人の道を見守るだけだった。
「……やっぱフランキーはイイ男だった」
「ンマー…、この場所でしみじみ他の男を思い出すような女は好きじゃねェ」
「嫌いとは言わないの?」
まだまだ現役である男の腕の中で目を閉じていたら、しっかりと思い出してしまった。嫌いは嫌いという男が微妙に歯切れが悪い。暗闇の中ですら分かるほど、あからさまに嫌な顔をするアイスバーグは大きな子どもにも見えるようになった。おそらくはそれだけ私達が月日を重ねたという事でもある。
フランキー、どうしよう私まだ好きだとは言えないかもしれないというあの日の想いを思い出すと、ふにゃりと顔が緩む。特別な瞬間、切り取って飾っておくのは私の中にしておかないとアイスバーグが拗ねる可能性がある。それはそれで見てみたいとか明日の朝のコーヒーは苦く淹れてやろうかと企むくらいにアイスバーグといると私まで子どもっぽくなってしまう。早く早く好きだと言って、放っておかれた埋め合わせをしない?と願いながら刺々しい頬に唇を寄せる。肝心なところで言い淀むアイスバーグとまだ青い春の続きがしたい。以前よりもほんの少しだけ着る服を選ぶ時間が長くなり、最後は落とす癖に化粧にかける時間までも長くなった事に気付いている。時折苦々しい表情がまた近くで見れるようになった事、知らぬ間に精緻な技術まで持ち合わせてしまう憎たらしさすらを受け入れるように僅かにほんの少し唇を開く。人間生まれ、生きて、死ぬだけだ、ただその生きる部分に少しだけでも寄り添いたいと密かに願い続けてる。まわり道になってしまったけれどその分長く想う事が出来た、そう都合の良く私の頭は回転し始めるのだ。