子どもは可愛い。これは性別を問わず、まだ世の中の理非を知らず無邪気な幼い子ども全般にいえることだと思う。なにも、僕だって幼女だけがかわいいわけじゃない。「とうやくん!」なんて満面の笑みで駆け寄ってくる親戚の小さな男の子だって、もちろんかわいい。それこそ、教師を目指す理由として、元より人に物を教えることが得意であることや人前に立つことがそこそこ好きであることに並び、子どもが好きが並ぶくらいには、僕は子どもが好きだった。「実際先生になったら憎たらしく思えるかもよ」そう茶化されたこともあるが、現実、小学校の先生をやってみると中々思ったよりも、子どもというのは愛らしかった。すでに先生として働き始め、5年が過ぎようとしている現在もその気持ちは変わらない。
ただ、若さゆえの無尽蔵な体力には近頃ついていけなくなってきているのも事実だった。僕もサッカーをしてみたり剣道をしてみたり、中々アクティブな子どもだったため1日遊び続けても有り余る元気には覚えがある。ただ、27歳を目前に控える身としては30人余りの元気いっぱいな子どもたちを構いながらその片手間に仕事をこなし、生徒たちが下校した後も翌日の授業の準備やら学校の見回りやら保護者の対応やら。最近は帰路に就いた途端歩くのさえ億劫になるほど疲れていることも珍しくはなかった。もう、10代後半の頃のような無理の効く体ではないのだと改めて思い知る。
帰ったらすぐにシャワーを浴びて寝てしまいたい。いや、晩御飯は食べたいな。もう22時を回っているから、大学の研究員1年目のナマエはとっくに帰宅している。まだ重要な役割を任せてはもらえずやることが無くなり次第帰宅させられるのだそうで。きっと僕の分の夕飯を用意してくれているはずだ。お世辞にも料理上手とはいえないナマエは結婚1年目にして、未だ味噌汁の味が濃すぎたり薄すぎたり、メインの魚が焦げていたりハンバーグが半焼けだったり、アクシデントなしには夕飯を終えられたことがないけれど、僕はそんなナマエがつくる料理が…というかそんなナマエと食べるご飯が好きだった。まあ最近では僕の帰りが遅いせいで同時に手をあわせることも少なくなってしまったのだけど。とりあえず、今日のように疲れ果てた日は家に帰り着くことだけが目標だ。もしかしたらナマエ本人は夕飯どころか入浴まで済ませてあとは寝るだけかもしれない。それは流石に早すぎるだろうか。ふわふわとした足取りでマンションのエントランスに踏み入り存外すぐに降りてきたエレベーターで上へと上がる。心から望んだそのドアノブをひねり手前へ引いて…ガシャンッ。頭の中で描いたスムーズさは1ミリも存在せず、むしろ腕が痺れる抵抗に施錠されていることに気がついた。確かに夜は危ないから万が一を考えて絶対に鍵は閉めろと言ったけれども。僕が帰るであろう時間に鍵が閉まっているのは…いや、それは単純に僕の疲れからくるわがままだ。ナマエは僕の言葉に素直に従っただけで、戸締りをしているのはナマエが一人暮らしの頃、鍵を閉めなかったのから比べればとても良いことで…。ぶつくさと独りごちて、カバンから鍵を取り出したと同時にガチャンと鍵が開く音がして、ドアがひとりでに開いた。
「おかえりなさい〜!」
いや、内側からナマエが開けたのだ。LEDの、明るい光が部屋から漏れ出しそれを背中に背負ったナマエが僕を出迎える。鍵がかかってるドアを引こうとして大きな音を立てたのだからそんな簡単にドアを開けるなよ、とか、僕とわかっていたとしても半袖半ズボンで玄関先まで出てくるのはいかがなものなのか、だとか。言いたいことはたくさんあったけれど、「おつかれさま」と柔らかく笑うナマエの顔を見たらそんなことはすぐに吹き飛んでしまった。
「どうしたのとうやくん珍しいねぇ」
思わず目の前のナマエを思いきり抱きしめて、その柔らかさと暖かさが疲れた体に染みた。
「……まじでつかれた」
「ありゃ、そんなに?えらいねがんばってて、ほんとすごい」
ぽんぽん、と赤子をあやすみたいに僕の背中を一定のリズムでたたくナマエの声は夜だからか少し小さく囁くようで、それがなんだか子守唄みたいに思えてくる。外着のままだとか靴を揃えていないだとかリュックを放ったままだとか、一切合切を投げ出して、体をナマエに預ける。
「ぅぉああ、刀也くん、おも…流石に支えられな…っぎゃあ!」
「んぁはは、なんじゃくものめ」
「えぁ、ちょ、っとまじで限界じゃんー…今日配信休んじゃえば?」
玄関に2人して倒れ込んで、辛うじてナマエのあたまを抱え込んでみたけれど中々勢いよく。玄関マットを敷いただけの硬い床で暖かいナマエを抱きしめていれば自然と瞼がとろり落ちてきて、もうこのまま寝てしまおうか。そんなことまで思った末に、ナマエの言葉。配信…はいしん。
「…やば、ぜんぜん忘れてたんだけど」
「うそでしょ、刀也くんが今日の朝ツイートしたんだよ、自分で」
たしかに、今日出勤する前に軽く配信の告知を打ち込んだ気がする。0時というなの、0時10分からの配信告知を。
「いま、なんじ…」
「んーースマホリビングに置いてきちゃったよ、わかんないけど、多分23時くらいだと思う」
「…後1時間」
「1時間10分でしょ、刀也くんの場合は」
なにやらうるさいナマエの顔を自分の胸に押し付ければ講義の鳴き声が上がった。僕の拘束から逃れようと頭を振ったナマエからふわりと、ホワイトムスクの香水が香った。それはナマエが大学院に入学した時に僕が贈った、ナマエがずっと欲しがっていたものの香りで。
「…ナマエまだお風呂はいってないの」
「え、うん。刀也くんと入ろうかなって思って待ってた」
「あぁ、そう…」
ナマエのこの無垢な顔は、まるでまだなにも知らない小学生のようだと思う。ただ純粋に僕だけを映す瞳が僕は好きだ。抱きしめる力を強めればもがくように揺れる体も、「いつまで玄関で寝転がってる気なの!」なんて膨れるほっぺたも、全部かわいくて仕方ない。
「あー…おれナマエと結婚してまじでよかった」
「ぇ、ぁ、そう…よかった…デス」
「んは、なに、照れてんの、かわいいね」
居心地が悪そうに揺れる視線とほんのり朱に染まり始めた頬。そこに触れるだけのキスを落とせばさらに真っ赤になるのがおもしろくて愛おしい。
「…も、もうそろそろ配信しなきゃでしょ!早くお風呂入って準備しなきゃ!」
「うお、暴れるなって…やばい動きたくないんだけど、ナマエ僕の代わりに配信してくんない」
「あぁ、そしたらその間に刀也くんご飯食べられるしね…って絶対無理なこと言わないで!ちゃっちゃとお風呂入ってごはん食べて配信して…一緒に寝よ。配信見ててあげるから」
ね?小首をかしげるナマエは、いったいどこでそのあざとさを身につけてくるのかまったく不思議なものだけれど、まぁ、とてもナマエらしいといえばナマエらしい。仕方がないのでもう1ミリも動きたくないと文句を垂れる体に鞭を打ち立ち上がればそれにつられてナマエも体を起こす。僕のカバンをさっと持ってリビングへ向かう姿はどう見ても僕のお嫁さんだ。いや、事実僕はナマエの夫でナマエは僕の妻なのだけど。
「ほら、お風呂お風呂」
「んー、」
「あははっ、今日の刀也くんほんとに疲れてるね、配信大丈夫そ?」
「むり…いや、がんばる」
「えらい」
結婚したとは言ってもその前からすでに1年ほど同棲していたこともあり、お互い恥じらいというか、初めの頃のような初々しさは身を隠し始めている。さっさと服を脱ぎ洗濯機に放り込んで、2人してお風呂場へ入る。ぎゃあぎゃあ言いながらシャワーを浴びて、ナマエが湯船に浸かっている間に僕が髪やら体やらを洗う。そしたら逆。最後に2人で湯船に浸かるのがなんとなくお決まりの流れだった。
「…やば、寝そう」
「お風呂で寝るのって気絶らしいよ。刀也くん気絶しないでね、私運べないから」
「いやいける、ナマエならできるよ」
「やめてそんな良いこと言った風の声出さないで」
ナマエ体を後ろから抱きしめるみたいにして、その肩に頭を乗せる。初めはくすぐったがっていたナマエも最近ではすっかり慣れた様子で僕の髪を撫でたりナマエも後ろに倒れてその頭を僕の肩に預けたり。初めのうちの慣れない緊張感と高揚感も楽しかったけれど、この落ち着いた慣れ親しんだ空気は日常の一部としてあまりに大切だ。
「…23時20分。刻々と時が迫るぅー…」
「そろそろ出て髪乾かさないと、配信にドライヤー被せられないよ」
「あぁ、たしかに…出るか」
軽い水飛沫をあげて立ち上がれば僕の行動についてこられなかったらしいナマエが湯船の中でひっくり返りかけて、慌ててその腕を掴む。
「ばっっ、か!立ち上がるなら一言かけてよ体重計預けてるんだってば!」
「あぁ、だからやたら重かったんだ」
「刀也くんには負けますよ!!」
「いや、ナマエの体重はここで傘増しされてるのもあるでしょ」
冗談まじりにふくらみをつついてみれば「ど変態」なんてツンとした声が返ってきて、さっさとお風呂場から出ていってしまうナマエの後を追いかけた。タオルを渡され、体を拭く。そうしたら次は僕がナマエの髪を拭いて、ナマエは僕の髪を拭く。なんとなく、同棲当初からの続きで頭はお互いに拭き合うのが自然になっている。ドライヤーは各自でするくせに、おかしな話だ。ある程度の水分が取れたら寝巻きに着替えて、ナマエは僕より髪が長いから先にドライヤーを。その間に僕はダイニングに用意されているらしい夕食にありつくのだ。
温風で大体の水分が髪から飛ばして、冷風に切り替える。時刻は23時35分。高校を卒業した頃からなんとなしに伸ばして背中の真ん中を超えた髪をついこの間顎下までの長さにしたから、髪が乾くのがとても早い。ダメージケアのヘアオイルだって減るのがぐんと遅くなった。うん、短い髪って良い。
「終わったぁー」
「ん、夕飯ありがとう」
リビングでは刀也くんがもくもくと夕飯を食べていて、まだ得意とはいえない料理を任せてくれて、さらに「おいしい」という言葉もくれる。まあ、今日の夕飯は実家から送られてきた里芋をソテーにしたものとホッケをグリルで焼いたものだから失敗のしようがなかったんだけど…。
小学校の教師として働き始めた刀也くんは年々多忙を極めていって、5、6年前のライバー活動なみにてんてこ舞いだ。だから少しでも楽をしてほしくて難しければ夕食は作らなくても良いよという甘い誘いを断り日々料理のスキルを磨いてみたり、たまの休みになる日曜日は刀也くんよりも早く起きて家事を進めてみたり、平日は朝の早い刀也くんが朝食を作って行ってくれるから、せめて日曜日くらいはと思ってのことだ。けれど刀也くんからすれば自分を置いて布団から抜け出す私が気に食わないようで、最近では2人で同時に起き出すことの方が多くなってきた。
「…刀也くん、ちなみに今23時55分だけど、モニターとかOBSとか起動しとかなくて平気?」
うぐぅっと喉に詰まる変な音。「うそ!?」慌てて夕食の残りを口に詰め込んだ刀也くんが「ごめん食器後で洗うから水につけるのだけ頼んでいい?」なんて言って隣の部屋のドアを開ける。防音ではない普通の部屋だけれど、ドアや窓の隙間に吸音材を貼り簡易的な防音室になっているそこは私たちの寝室兼刀也くんの配信部屋だ。私の返事を聞いていない様子は私が断るはずもないことを知っているようで、それにしたって頼み事が小さすぎるなぁなんて笑いがこぼれる。1人分の食器くらい洗っておくのに。いや、たしかに配信が始まってしまえば物音を立てないようできるだけリビングのソファでじっとしているのが定石だけれど準備時間に終わる程度の洗い物なんだから。
「あ、ナマエ」
「はい、どうしたの?」
さてと、とシンクの前で腕まくりをした時、寝室へ入ったはずの刀也先輩がひょっこりと顔を出し私を呼んだ。ドライヤーを当てていないのにすでに乾き始めている髪が薄く瞳を隠している。
「1時間…いや、45分で終わらせるから、終わったらココア飲もう」
思わず吹き出す。「なっ笑わないでくれない寝る前の楽しみなんだけど」「んーん、息抜きに付き合わせてくれるんだーって嬉しくなっただけです〜配信がんばって」納得のいかないようなそれでも私の言葉に少しだけ笑みを浮かべて再び部屋へ入った刀也くん。中々弱みを人に見せないというか、弱った自分を自分自身が見たくないようなところのある人だから、今日みたいに体力も気力も使い果たしたような日でないと私に対してでさえあけすけに甘えることをしない。ほんのりあまくとろけた刀也くんの甘えが私は好きだ。刀也くんがそこまで疲れないことが1番ではあるのだけど、正直、すこしだけ、こんな日もいいなぁ、なんて思ってしまうのだ。